文章の綺麗さとは何で判断されるのか?

文章は、綺麗なものでなくてはならない。

誰もが、無意識的にでも一度は思ったことがあるだろう。

一般的に文章が美しい人の文を読んでも、さっぱり意味が分からなかったりする。分からない自分の国語力がまだまだなのかと、落胆してしまう。

しかし、一方でスラスラつっかえずに読むことができる人の文章のことを、キレイだと感じる人もいる。

ここで、あえて「綺麗」と「キレイ」を書き分けたのは、両者が全く違う性質を持った言葉であるからである。

綺麗とは、漢字で書かれていることから、どこか格式ばった言葉になっている。
キレイとは、カタカナで書いてあることから、どこか現代的で、こざっぱりとした印象を受ける。

私は2つの表現について、文学的か、今風かどうかで書き分けをしている。
この2つは、相容れない…とまではいかないが、誰もが無意識に持っている感覚だと思ったのだ。

文学と聞くと、とても自分には馴染みが薄いものだと感じないだろうか?どこかお勉強的で、先生にこれが正解ですよ!と教えられる、学問の国語のように思われる。

実際、今の高校教育では「文学国語」と「論理国語」が選択科目として分けられるというので、より一層この確執は広がっていくことだろうと思う。

最近で重視される国語力は、専ら論理力の方に比重が置かれガチで、この文章を書いている私も無縁であるとは思えない。

むしろ、今重視されるのは、「どうやって食っていく力を付けるだろうか?」にあるので、ビジネス的に読みやすい文章、伝わりやすい文章力の方が重視される。

このことについては、私も賛成である。

しかし、そればかりでは、文章は単調的で、どこか感情が伴っていない、ロボットの文章のようにも感じられるのだ。

今世界でこぞって取り入れられているChatGPT。
この前代未聞のAIに、仕事が今後奪われていくのだろうか?と心配の声が上がっている。

分からないことは不安に感じるし、専門家でさえも数値を出して「今後これだけの人が失業の危機にみまわれますよ」と煽るものだから、殊更にどうしようと心配だけが強まっていく。

また、大手のテクノロジー企業でさえも、自社の強いAIを開発して世界の覇権を握ろうと躍起になっているように見える。

しかし、ここで。
AIとはどういうものだろうか?
ということを考えてみよう。

それは一言で表現するならば、
「どこかに答えが載っていそうな、正解のような答えをはじき出してくれるもの」
だと、私は考える。

これは、従来の私たちでさえも、そうなっている人は少なくないように思う。

検索では、正解があると信じて、検索をするが、答えは結局自分で決めるしかない。
求められている答えですら、個人によって違っていて、AIは「こういう答えがありますよ」と提示しているに過ぎないのだ。

完全な答えしかこの世界にないとしたら、現代はこんな進化を遂げていない。
既存のものを組み合わせて進化させると言うけれど、みんなが考えもつかない飛躍した進化こそが、後に「革命」と言われるものになるのではないだろうか?

無論、全員がこういった革命を生み出せるわけではないし、求められているわけではない。

ここで、文章の書き方に話を戻すと、
正解の定まった文章が世の中に溢れたら、すごくつまらない世界だと思わないだろうか?

このように主張する私も、文章力について自慢できる水準ではないし、ガッカリすることもある。

しかし、自分の個性をいかんなく発揮した文章だと自負している。
人と会話した時に、この人と合わないなと思う人がいる一方で、面白いと思ってくれる人がいるように。文章も、最後は「この文章(性格)と合うだろうか」に落ち着くのだ。

あなたは、文章について
綺麗さとキレイさ。

どちらを選ぶだろうか?

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