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ボディメイクで人生が変わる

中川美保子プロフィール紹介

私は『ボディメイクトレーナー』中川美保子です。
私がボディメイクトレーナーをしている理由は、私自身が、この年代の多くの方が悩む体型の崩れや体の痛みなどに悩まされた経験があるからです。

私は家事や子育てをしながら、トラックドライバーとして長年不規則な生活を続けていました。
そんなある日、突然頚椎ヘルニアの激痛に襲われ、更に婦人科疾患による入院、手術など、次々と怪我や病気を患い健康を害してしまいました。

その後は一年ほどで体重が10㎏弱増加、肩こりや腰痛、浮腫みなど、様々な症状に悩まされるようになりました。
そういう状態になって初めて、自分が自分の体に対していかに無頓着であったか気付いたのです。

しかしその後、ボディメイクというものを知り、運動と休養、食事を見直すことによって体型の変化だけでなく健康も取り戻すことが出来、改めて健康の大切さを考えるようになりました。

この経験から、この年代の多くの方が悩む体型の崩れや体の痛みなどは、いつからでも何歳からでも改善出来るし、それが健康へと繋がっていく、体は変えられるということを多くの方に伝えたいと思いました。
ボディメイクは美しい体を作ります。それは、貴方本来の健康な体を取り戻すことなのです。
私は、貴方の美しい体作りをお手伝いたします。


今回はそんな私のストーリーを紹介します。
お読みいただけると嬉しいです。


運動好きで活発な子供時代

1973年8月、私は岡山県の病院で産声を上げました。4000gを超えて生まれたとても大きな赤ちゃんでした。両親は、男の子が産まれたと思っていたほど。

私は三人兄弟の末っ子で、小学校時代は、休み時間や放課後などいつも外に飛び出して男の子と走り回っていたり、空手や水泳で大会に出たりと運動好きで、また毎年学級委員を務めたり、6年生の恒例行事である鼓笛隊では全体の総指揮を務めたりなど、とても活発な子供でした。そして、6年生の時にクラブでバスケットボールに出会い、そこからはバスケットにどんどんのめり込んでいきました。


バスケットボール三昧の学生時代

中学生になった私は、迷わずバスケットボール部に入部。しかし、瞬発力はあったものの持久力が無くて、いつも練習後半にはバテてしまい、毎日の練習が辛くてよく泣いていたのを覚えています。
それでも、監督の「自分で天井を作るんじゃない。限界を決めるな」という言葉に奮起し、また、シュートが決まった時の喜びや試合に勝つ充実感を感じる度に、更にバスケット一色に染まっていきました。

そうしてひたすらバスケットに打ち込み続けて、3年生になり引退時期が近付いてきた頃、最後の大会直前の練習試合で足首の靭帯を断裂。入院と手術を余儀なくされ、そのまま引退となってしまったのです。

キャプテンでもあった自分の不甲斐なさとコートに立てない悔しさで、大会会場へ入った瞬間に涙が溢れたのを覚えています。試合が行われているコートがすごく遠くに見えた光景は、今でも脳裏に焼き付いています。

その後高校進学において、私はバスケットボールでのスポーツ推薦を受けましたが、この頃には膝の関節過伸展から側副靭帯損傷の怪我をしていたため、親に猛反対されてしまい、最終的に進学校である岡山城東高校へ進学することに。

当時、岡山城東高校は開校してまだ3年目の新設校。いつもみんなと同じはつまらないという少し捻くれた一面があった私は、中学の友達が誰もいない上に、家から通学に1時間半もかかるこの高校への進学を決めたのでした。

進学した私は、もちろん高校でもバスケットを続け、キャプテンも務めました。進学校であるにもかかわらずバスケットボールに没頭し、勉強の成績は平均点程度。ただ、体育の成績だけは常にトップでした。

高校卒業が近づくにつれて将来の夢や進路について考えるようになりましたが、バスケットしかしてこなかった私はなかなか自分のやりたい事が見つからず、それを模索するように大学進学を決めました。
ただ動物が大好きで、それも馬や牛といった大型の動物が好きだったので、大学は宮崎大学農学部動物生産学科へ進学しました。

大学生になってからは、宮崎のアパートで一人暮らし。相変わらずバスケットボールを続けていましたが、その頃から膝の状態が悪化し、膝蓋軟骨軟化症との診断を受けました。このままでは40歳くらいには歩けなくなると医者から言われ、バスケットボールをやめるよう忠告されてしまったのです。
しかし諦めきれなかった私は、スポーツドクターに膝の周りの筋肉を強化するトレーニングプログラムを作ってもらい、膝周りを鍛えることでバスケットボールに復帰し、卒業までやり続けることが出来ました。


学生時代

大学に入学した時はバブル景気で、自分の将来について真剣に考えたことはありませんでしたが、卒業直前にバブルがはじけ、雇用市場は一気に就職氷河期へ。結局、フリーペーパーで探した会社へ就職することになりました。


苦悩の社会人時代

社会人になり、学習教材の販売会社で営業職として働いていましたが、毎日ノルマという重圧に苦しめられ苦痛の日々。更に、上司からのセクハラなどもあって精神的に追い詰められてしまい、結局退職することに。
しかもその直後に、自宅アパートが火事になるという災難にも襲われ、しばらくホテル暮らしを強いられました。

その後、アルバイトをしながら就職活動をしていましたが、次に就職した会社でもセクハラを受け、日増しにそれはエスカレートしていき、そして追い打ちをかけるように会社の違法行為が発覚。
私は完全に鬱状態、逃げる様に退社しました。
そして退社直後に、その会社の違法行為に関して、在籍していたからと、警察から事情聴取を受けるという経験まで。
もうこの頃には、鬱状態から精神は崩壊したように無感情、無表情のロボットの様な人間になってしまっていました。

しかし、仕事をしなければ生活していけない。必然的に、人前に立たない裏方のアルバイトを探していました。そうして、毎日切り詰めた生活を送っていました。

そんな生活の中でも、アルバイト先で人の優しさや温かさに触れていくうちに、少しずつ私は感情を取り戻していき、皆とのたわいないお喋りも楽しいと感じれる様になってきていました。

そんなある日、いつもの様に数人でお喋りしていた時でした。友人の一人が、私に心配そうな表情で尋ねてきたのです。「…楽しくない?」と。
私、「え?楽しいよ。」友人「じゃあ、もう少し笑顔出した方がいいよ。」

私は愕然としました。その日、家に帰ってすぐ鏡の前に立ち、自分の顔を見て、再び愕然としたのです。「笑うって、どう顔を動かすの…?」と…。
自分は、まだまだ長いトンネルの中に居るようでした。

それからも、しばらくはアルバイトで生活していましたが、25歳の時に岡山の実家に帰ることになりました。帰ってすぐに、中央卸売市場の仲卸業者に就職。
市場の人たちの元気や、「口は悪いが腹の中は温かい」人柄に救われ、私は徐々に自分を取り戻して行ったのです。

その後、26歳で結婚し、長女を出産。しかし、1年半で離婚。長女は1歳でした。


シングルマザーとして生きる

離婚後は仕事や家事、子育てに追われる毎日で、過労とストレスから慢性肝炎になり、激痩せ。更に神経性頭痛も発症し、投薬治療が続くことに。
でも、私は長年バスケットで体を鍛えてきたので、この時はまだ自分は大丈夫だという根拠のない自信を持っていた気がします。


どんどん痩せていった体

しかし、体は確実に疲弊していました。 ある夜、突然激しい頭痛に襲われ倒れてしまったのです。
一晩中痛みと嘔吐を繰り返し、翌日、朦朧とした意識で病院に行くと、「くも膜下出血の可能性がある」との診断。
まさか私が…想像もしてなかった言葉に衝撃を受け、その時、「人間いつ死ぬかわからない。だから、悔いなくやりたいことをやろう」と強く思った私は、昔からやってみたかったトラック運転手になる決意をしました。

そして勤めていた会社を辞め、大型と牽引免許を取得。そして就職活動を始めたものの、当時のトラック業界はまだまだ男社会。私はシングルマザーで未経験だったため、採用してくれる会社はなかなかありませんでした。

何度も門前払いされ続け、生活費が底をつきそうになり、「アルバイトでもしないと子供にご飯も食べさせてやれなくなる…。ここがダメならとにかく何かアルバイトしよう。」と、最後の望みをかけて面接をお願いした会社が、「とりあえずやってみようか」と、受け入れてくれたのです。

こうして私は、29歳の時、ドライバー人生をスタートすることになったのです。

仕事は体力的にもキツイものが多く、くじけそうになることも幾度となくありましたが、周りの仲間たちに恵まれ、何とか踏ん張り続けました。
途中、トレーラーのドライバーも経験しました。再びトラックに戻って長距離も走りだし、男性だらけの現場での力仕事が中心になり、その頃はかなりの筋肉質体型になっていました。

時間も不規則だったので、子供は実家から小学校に登校させ、子供が起きている時間に帰れた時は迎えに行き、一緒に夕食を食べて風呂に入れ、翌日の準備をさせてから実家に預けに行き、それから2〜3時間仮眠を取り、また深夜に仕事に向かう…そんな毎日を繰り返していました。

たまの休日は、死んだように寝てしまい、お腹を空かせた子供に昼頃に起こされる有様。
子供にも寂しい思いをさせているという後ろめたさに苛まれながら、それでも毎日の生活に必死で、先のことや自分の体のことを考える余裕は全くありませんでした。

ただ救いだったのは、子供が学校で「母さんは大型トラック乗ってるんだよ!」と、周りに自慢していると担任の先生から言われたことでした。「ほんとに辛くて我慢しているなら、子供はそんな自慢しませんよ」と優しく先生に言われた時、人目も気にせず泣いてしまったのを覚えています。



ついに体が悲鳴を上げ始めた

そんな生活を続けていたある日、突然肩から首の辺りに激痛が走りました。あまりの痛みに動くことが出来なくなり、親に助けられながら病院へ。
診断結果は頚椎ヘルニアでした。原因は、体を横にして休む時間があまりにも少なすぎたことにありました。

また、寝不足が原因で事故も起こしてしまいました。更にその後、卵巣嚢腫になり治療を始めましたが、過労とストレスが重なり嚢腫が破裂してしまい、緊急入院することに。
そして、片方の卵巣と子宮を摘出する手術を受けました。

退院後仕事に復帰しましたが、ホルモンの影響に加えて以前ほどの肉体労働が減ったこともあり、体重が急激に増え、わずか1年足らずで10kg弱増加。筋肉質だった体は見る影もなく、いわゆる中年太り状態に…。

その結果、肩凝りや腰痛、浮腫みなど、様々な症状に悩まされるようになってしまいました。
そうなって初めて、私は自分の体に対して自分がいかに無頓着であったか気付いたのです。
その時私は45歳。これから年を重ねていく中で健康な体を維持するためには、自分の体に真剣に向き合わなければならないと感じたのです。


重くなっていく体を服装で誤魔化していた


ボディメイクとの出会い

最初は、体重を減らすためにセルフトレーニングのジムに通い始めました。しかし、1年経っても全く体重が減らず、体型も変化がありませんでした。それどころか、腰や首を痛めてしまったこともありました。

そんな時、たまたま観ていた動画で「ボディメイク」という概念を知りました。やはり自分の体についてきちんと学び、トレーニング方法を理解することが健康的な体づくりには欠かせないと感じた私は、思い切ってパーソナルトレーニングを受け始めました。同時に、健康についても学び始めました。

そうして、私の体は徐々に引き締まり、健康を取り戻していったのです。
ボディメイクに取り組んだことで、体型や筋力が改善されただけでなく、健康面でも大きな効果を得ることが出来ました。
体のことをしっかり理解し、正しい方法でトレーニングすることが健康的な体づくりにつながることを痛感しました。
しんどくても運動を続け、食べるものを我慢することが体を変えるためには必要だと思っていましたが、実際に大切なのは食べる内容と体を動かす習慣、そして休養であることを知りました。

そして何より、体を変えるのに年齢は関係無いということを身をもって実感したのです。



TWA、健康指導者としての学び

パーソナルトレーニングを受け始めた頃、同時に始めた健康指導者、トータルウェルネスアドバイザーとしての勉強。
師匠の谷けいじさんやTWA仲間との出会いで、私の人生は激変。自分の体作りを通じて、ただ痩せるだけではない体の中から健康になることの大切さを学びました。
半年間の、とても中身の濃い講座の中で得た知識と経験を沢山の人に伝えたい、それが私のトレーナーとしての原点となりました。

半年間の講座を終了した卒業イベント
TWAの認定証を取得


ベストボディジャパンへの挑戦

本格的にトレーニングに取り組み出して約10ヶ月後、ベストボディジャパンにも挑戦。西日本大会に出場し、フィットネスモデル部門でグランプリを取ることが出来ました。
正しい知識を持って取り組めば、ここまで体は変わるんだ、人間ってすごい!…と痛感した、非常に有意義な挑戦でした。


ボディメイクを始めた頃
ベストボディジャパン初出場


この経験を沢山の人に伝えたい

この経験から私は、年齢に関係なく体を変えることは出来るということ、そしてそれが健康に繋がるということ、更に健康的なライフスタイルを維持することの重要性を多くの人に伝えたい、そう強く思うようになりました。

今体を変えることは、今美しく健康になって満足するだけではなく、これから先の長い人生において、介護に頼らず自らの足で歩き、やりたいことが出来る体を作るということなのです。

私は、一人でも多くの人の美しく健康的な体を作るお手伝いを、これからもずっと続けて行きたいと思っています。



最後までお読み下さり、本当にありがとうございます!!


私は、全ての人の健康寿命を伸ばし、1日でも長く自分の足で歩き、楽しいと思える日常を作るお手伝いをしたいと思っています。


体を変えたい、健康な体を作りたい、元気で介護の必要のない体を作りたい、そんな思いをお持ちの方や興味のある方、是非、中川美保子の公式LINEにご登録下さい!

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