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最後のプレゼンでもう振り返らないって決めてたのに〜キミのありがとう、ボクのありがとう

小さな頃は楽しいことやじっくり見たものを自由に空想して寝床で再現することが好きだった。

そんな子どもの観察でも意外と象徴的なところは分かっていて、記憶を振り返り、個性的なストーリーを作って、ナレーションまで入れて似たようなシーンを作りだす。上手に真似ることで自分が主人公と同化することを繰り返し、登場人物と自分のストーリーを共有しながら幸せになれる。

知育ブロックならいっそう自分が作りたい環境を設定しやすい。
部屋を作り、テーブルを椅子で囲み、扉をつけてもう一つ部屋を作る。それぞれの空間にミニフィギュアを置き、様々な知恵を詰め込んで個性的な空間をセットし物語が生まれる。

これに似たようなものがいまから95年前にイギリスで創設された。
心理学者ユングの影響を受けたスイス学者から河合隼雄が日本に持ち込んだ心理療法のひとつ箱庭療法とは、小さな箱に白い砂を敷き詰め、ミニチュアの動物、人形、昆虫を、家や木々の周りに自由に置き、自分を現実的なものに束縛されずに自由に表現することでこころの治療に繋げていこうとするものだそうだ。

プラレールもトミカも、ジオラマ、nゲージだってすごく分かる気がする。深層心理を表現してもらうことはクライアントとの会話にアプローチする時に重要だということが数十年後のある日、実感することになった。

ー展覧会の想い出ー

建売が並び始めた街中でときどき未開発痕を見かける。

一年中藪蚊が住みつく大きな枝垂の木が電線を覆う様に茂り、雑木林が一年中日陰を作る入り口には、白地に細い文字で[美術教室]と書かれた30cmほどの小さな木製の板が門柱がわりの幹に括り付けられている。
友だちには「その隣がうち」それで十分わかるほど草木に被われた美術家の一軒家は、このあたのシンボリックな存在であり、冬になると落ち葉を掻く初老の夫婦に会う以外は人影を見ることはなく、うっそうと茂った木々の腐った臭いがする敷地の隅に佇む二階建ての別棟に、橙色の電球が長髪のあんちゃんの姿をたまに照らすくらいだった。

「芸大生に格安で住ませているんだってよ」
母からそう聞いたとき、彼が老夫婦の息子でもミュージシャンでもないことに変にガッカリしたものだった。
たくさんの文字より自分が頭のてっぺんやこころの奥で作り出す世界が表現できれば記憶に強く刻まれる。
絵を描くのもある種、空想の表現と同じだった。
見えたものを天然絵の具で忠実に描く日本画も、厚塗り重ね塗りができる顔料の油彩画も、どちらも表現する自由さを咎められることはない。

小学校の担任の旦那さんも画家だった。

絵を描くの好きだった自分にそんな話をしてくれたし、出品したという日本最大の美術展覧会の存在を初めて知るきっかけを作ってくれた。

画法など全くわからなくても、とにかく作品の題材、筆使いの跡、色調、繊細さに目を凝らし、強さも弱さも、静も動も感じた。見せる、伝わる。
初めて行った展覧会は小学生にはそれは驚きでしかなかった。

「先生!絵、観に行ったんだよ。」
「まぁほんとに?ありがとう。先生もいっしょに行きたかったなぁ。」

子どもの表情を読み取って微笑んだ先生の言葉に、満足げに‘こくり’とうなずいた。

《収穫》浅井忠

ー居残りー

家から少し歩けば、まだ畑の残る下町の生活路に小さな駄菓子屋があった。
宿題はまったくやらなかったし勉強も嫌いだったから、学習帳には漫画ばかり描いていて、テストができるまで居残りになるのはいつも決まっていた。

6年生にもなるといつまでもヒーローに憧れているわけにもいかず、信号ひとつ越えた隣町の路地裏にあった個人経営の学習塾に行かされることになる。
唯一の楽しみといったらモデルガンが飾られたその駄菓子屋の前を通る時だけで、あとは塾に体を運ぶだけ。どうやって退屈な時間を忘れるかしか頭になかった。

自分以外の子と一緒の場で勉強するのはこれがはじめてだったが、自分と自分以外の比較が優劣という結果で表わされる世界。
そんな尺度など全く気にせず、授業中は横を向いて隣にちょっかいを出し、テレビの話ばかりしていた。

「教室から出て立ってなさいッ」

場違いの迷惑者となったボクを別の自分が遠めに見ていた。
(なんで立ってなきゃいけないんだろ。)

帰宅すると自分が塾で立たされたことがすでに親に知らされていた。
「恥ずかしくないのか!」
見かねた親父からの平手も響かず、答えはひとつ。恥ずかしいなんてなかった。
ただ親父の怒りが収まるのを待つだけだった。

ー・ー

得意先を回る自営業とはいえ、毎日売れてないということは子どもながら薄々感じてた。夕方に帰っても帳簿は母がつけていたし、夜、酒に呑まれて帰ってきた親父はいつも鍵を持たずに帰ってくる。
それまでずっと帰りを待つ母。
すぐに玄関の鍵を開けないと、烈火の如く怒鳴り手を上げる。

母の悲鳴。

布団を被って、ただ親父の怒りが収まるのを待つだけだった。
酒が人を変えてしまうんじゃない。こころの深いところのもうひとりが出てくるのかもしれない。

愛されていなかったんだろうか。
母に「ありがとう」と言ったことは何度あったんだろうか。

ー相談相手ー

人との関わりは苦手じゃないけど、本当の自分の姿や正直な気持ちはあまり見せたくなかった。
自分は周りと何かが違う。
そう感じる様になってからずいぶん時間がかかることになった。
それまで自分と向き合ってこなかったわけじゃない。

〜の磨き方、〜の作り方、心得にコツのタイトル。
そんな本を何度読んでも、欠けてることは分かっても自分に必要なものはわからなかった。
マズローの何とかとか、自己肯定感がとか、心のコップの水がとか、もうウンザリだった。
「不足してるのは」とかも、もうどうでもよかった。

こころの機微みたいなものを感じ取れず、自分の感情のままに素直に生きてきた。
それってもしかしたら父と変わりないじゃないかと思いながら、人に裏切られない様に警戒し、人に期待することを制限し、深い関わりを断つ選択をすることも覚えていた。
考え方も人より5歳ほど若い。なんとなくそんな感覚だけはずっと思っていた。

(もしかしたら、、。)

ー・ー

ここへの相談も3回を終え、自分を確かめるためにWAIS-4の質問に答える日が来た。

営業になってから5年近く経ち、たくさんの得意先から様々な決まりごとやパターンとして学び、こういう仕草はきっとこういうことなんだよという心理を統計的に知り、それを元にコミュニケーションの答えを出すことだってできるはず、形式的に学んだパターンに当てはまれば饒舌に。

結果を伝えられる4回目の相談日。

「思ったことをなんでも話ちゃうんですね」
聞き上手な臨床心理士が放ったひとことは、ボクという人間の本質を表す強烈なひとことだった。
心理学を知らないボクが思い切っていままでのことを振り返り、こころ開いて自分の気持ちを話すなんてやらないボクが、わらをつかむ思いで話してるのに。
そんな思いもあった。
ひたすら答えもヒントも出ない相談時間は、5回目で見切りをつけ形式的なあいさつを添えて結論づけた。

「いろいろ有り難うございました。もう大丈夫かなって思いまして。」

口は心の門。意識は心の足である。

思ったことをすぐに口にしてはならない。本当にいけないことなんだろうか。
相談を終えてこの「菜根譚」の一文の意味を知り答えを出すまでは時間が必要だった。

ー終わりの始まりー

親父の葬儀を終えてしばらく経ってから、隣の課にいた8つ下の彼女とは仕事上顧客訪問の打ち合わせで話す機会が何度もあった。

気どった枠に飾られた都会育ちの子とは違うリズムみたいなものを持った彼女の心配事は、いつも同期入社の女子たちが聞き役になっている。

「もー、バカだあ。どーしようぉー」
「どおしたどうしたあ?今度はなに?」

聞こえてくる彼女たちの声に、こっちも気になって会話の方を振り返る。

(なんだ、ニコニコ笑いながら話してるじゃないか)

おおらかなのか、のんびりなのか?
彼女のペースに、周りの同期たちもいつも励ましながらイジりながらである。

「もー、やめてよお」

笑いながら返す彼女の心配事は半分くらいになったんだろう。安堵の笑顔がいつも相談を締め括る。
そんな飾らないキャラは下町育ちのボクにとって、いつのまにか話しやすい相手になっていた。

親父の忌引きを終えて出社した時、彼女のほうからボクに声をかけてきてくれた。

「小さな頃はさあ、親父とはよく遊んだんだけどね。なんかね、、、」

会社では身内の話はまったくしないボクの思い出話に、彼女がポロポロと泣き出した。
そうだ、彼女も半年前に父親を亡くしていたんだった。
彼女にとっての父親の思い出はボクの親父への思いとは違うことはすぐにわかったけど、昔を振り返る話が今ボクの前にいる彼女の気持ちの距離を縮めることになるとは想像もしてなかった。

それ以来、彼女はボクの“今”を感じてくれる存在になっていた。

一緒に食事に誘い、お台場の夜景を楽しんだ後、どしても彼女に伝えたかった。
「もう少し一緒にいていい?」
「うん!」

一番の笑顔で頷いた彼女の迷いのない返事は、自分にとって始まりの約束に変わった。
閉ざしていた扉を開け、自分を受け入れてくれる。そんな未来のために彼女の「ありがとう」は言葉足らずのボクが手に入れた、ボクだけに伝えてくれた気持ちだった。

「ありがとう、楽しかった!」

ー・ー

今日も彼女の電話が鳴った。

「ごめんね、今、友だち、きてるから、、。」
そう言って電話を切った彼女にとって相手は過去の人のはずだった。

電話を切った後、気まずい気持ちになった彼女がソファに戻って肩を寄せてくる。
「ごめんね」
「ううん、大丈夫だよ」

同じ時間、別の場所でも繋がっていたい強い気持ちの前に、彼女の電話も少しずつ長くなっていた。
もう友だちじゃない、そんな自信があったのに、何ともなかった気持ちも少しずつ強がりになり、やがて心配に変わり始めたころ、電話は半年経ってもかかってきた。

同じ時間、同じ場所で過ごしている「友だち」のボクとの恋花は、最後まで実を結ぶことはなかった。

「ごめんね。今日は会えないんだ」
自ら関係を終えることで寂しさと未熟さを誤魔化す。そういうやり方でしか自分を守れなかった。

わがままでひとりよがりの自分に、いつもの言い訳をする。
(愛されてなかったんだ、きっと)
本当は自分の愛が足らなかったのに。

ー最後のプレゼンー

「ありがとうございました」
もう何万回言っただろう。今日も商談は進展しなかった。

師走を迎えても自分の予算達成にはほど遠い。
半年前から脚繁く通った残り1社に最後のプレゼンをさせてもらう約束だけはなんとか取り付けた。

オフィスに戻って各資料をストーリーに仕上げる。
あれから仕事で一緒に動くことが無くなってた彼女にも最後の資料作りに加わってもらっていた。
(これでいければいいだけど、、。)

もうこれまでのことを振り返ることはなかった。
残業してた彼女に思い切って訊いてみた。

「いっしょに行ってほしいところがあるんだけど。いいかな。」
「いつですか?」
「今度の金曜。16:00。この日なら社長が出張から帰ってきて最後のプレゼン聞いてくれるんだ。」
「ちょっと待ってください。金曜ですよね。15:00に青山1丁目のクライアントさんのとこに資料を取りにいくんだけど、、。多分間に合うと思います。」
「ありがとう、じゃあ現地で。住所は、、」

ー・ー

「おう、来たね。」

プレゼンが終わって3日目にもう一度訪問することだけは了解してもらっていた。
事務所の奥から出てきた社長だった。

ここがダメならもう予算未達も覚悟していたが、最後のプレゼンはどうしても彼女の説明が必要だった。
見返す社長の手元にあった資料はうちの社名にボクと彼女の連名を入れたものだ。

「君のところ以外に2社見させてもらったよ。
うちの今の課題解決だけじゃね。これからの事業にどう活かせることになるかじっくり比較させてもらったよ。今回、君のところは若干コスト面の効果がね、、。」

(ダメだったか、、。)

覚悟はしていたが、社長の説明にグッと息を飲んだ。

「この間一緒に来た彼女。あの後電話をもらっててね。」

今回、私どもは、現場で働く皆様はもちろん、御社のステークホルダーの皆様の心配事を減らすお手伝いをさせていただき、こころの持ち方に変化が生まれ、皆さまひとりひとりが幸せになっていただくこと、それが御社のカスタマーファーストプラスワンの挑戦に応えられるものだと思っております。それが今回のーーー

「今回はね、思いの詰まった彼女の“一緒“懸命に負けたよ。ぜひ『ありがとう』と伝えておいて。それにしても君のアシスタントにしておくのはもったいないなあ、ハッハッハッ。」

こみ上げたものが溢れてしまいそうだった。

気持ち、十分伝わったよ。

社長にも。

そしてボクにも。

ー・ー

オフィスに戻るともう19:00を過ぎていた。
(間に合えばいいんだけど)
一緒にたくさん歩いたこの街。今日は彼女の送別会だった。

もう振り返らないって決めてたのに。

いままでいっしょにいてくれてありがとう。
そしてこんなボクを好きになってくれてありがとう。

もう、現実に束縛されるのはこれで最後にするよ。
もう、だいじょうぶ。

これからボクができることは誰かを応援すること。

そして何よりも一番にキミにエールを送れそうなんだ。


結婚おめでとう。

そう伝えたくて、今からキミに会いにいくよ。

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