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やっと読んでみた『異邦人』

またまた、村田沙耶香さんのエッセイ『私が食べた本』関連の本です。元記事はこちら。

そして今回読んだのは、こちら。

『異邦人(L'Étranger)』- 著者: アルベール・カミュ(Albert Camus)さん

はい。来ました。超有名文学だけど読んだことないやつ。また1つ経験値が上がったぜ。
もし私がまだこれの読み途中に、誰か質問してくれてたらなー。
誰か「そういえば最近何読んでるの?」
私「んー、カミュとか?(どやっ)」
なーんてなったかも知れないのになー。ならんかー。(←いや、どやるなって)


まさかのとんでも勘違いからスタート

冒頭すぐ「冠婚葬祭で数日間ひとりで遠方に出かける必要があり休みを貰う」ことになり、それを伝えたために「主人に嫌な顔をされる」という場面があります。この「主人」という表現からも、状況からも、私、主人公は無理解な夫のいるご婦人として認識し、そのまま読み進めてしまったのです。

すると、出先でガールフレンド(しかも主人もいるんだから愛人??え??)が登場したり、ケンカを目撃しても全く動じなかったり。この時代で女性が主人公でこんなお話!?何とも前衛的な…!!さすがフランス…!!えっでも村田さんの感想にこんなこと書いてなかった気が!?

と、大混乱しながら1/3近く読み進め。ついに誰がどう読んでも男性と分かるページに出くわし、やっとこさ気付きました。
てことは、「主人」って、「職場の主人」かい!!ひゃあ!!

慌てて、それまでの全ての脳内イメージ映像を当時の男性に置き換えました。あぁ、何というエネルギーの浪費…笑。
こんなクラシック作品でここまでやらかすとは、ある意味才能でしょう(キリッ)。

地域、時代、個人の価値観を問う

薄い本ながら、昔の装丁っぽく小さめの文字がびっしりだったので、予想よりは読むのに時間を要しました。そういえば古めの文庫って、大体こんな感じが普通だったよな。いつしか、見やすい文字の読みやすい装丁に体が慣れきっていたことを感じます。文庫も、少しずつ進化してるんだな。

さて。序盤、お葬式のシーンが粛々と続きました。ちょっと昔のフランスの小さなお葬式。フランスに行ったことすらない私には、文字だけを頼りに想像するしかなかったのですが。日本のそれとは概ね似ているけれど、少し趣が違うなと感じました。

国やその土地の文化によって、お葬式もその様相はさまざま。日本との違い度合いが大きいものとして私が真っ先に思い浮かべるのが、賑やかな音楽付きのお葬式。

例えば、アメリカのニューオリンズ(New Orleans)州では、マーチングバンドがノリの良いジャズを流しながら練り歩くそう。例えばこんな感じ。

おお、これはかなり異文化。アジア圏とは全然違うなあ。

…と思ったら大間違い。我らがアジアにも、超身近な台湾でマーチングバンド葬があります。こんな感じ。

(注※いずれも実際の映像しか見当たらなかったので、極力個人名が分からない動画を探しましたが、お気を悪くされる方がいらっしゃったら申し訳ありません。最初の数秒再生だけでも雰囲気が伝われば、と思い載せてみました。)

どちらも、何かのお祭り?お祝い事でもあるの?と勘違いしそうな様相です。人間いつかは必ずその時は来るのだから、周りの人に泣いてもらうのも良いけれど、賑やかに音楽流して笑ってもらうのも、それはそれで良さそう。 

しかし『異邦人』の主人公ムルソーは、しんみりと悲しみ故人を悼むのが当然なお葬式文化の土地で、平然としていました。さらに、翌日からデートを始めたり、海を満喫したり。これはその場の他人からすれば大変受け入れ難い行動でしかなかったんです。

彼が母親の葬儀で全く涙や悲しそうな素振りを見せなかったことが、人々に糾弾され後々の展開に関わる重要なエピソードとして物語が進んでいくのですが…。

確かに、ムルソーは飛び抜けて飄々としている人物です。お葬式の時に限らず、恋人や友人との関係性も、ひたすらドライというか、掴みどころがない。でも、そんな彼にも思いがけず熱くなるときもあるし、彼なりの信念のようなものもあるようです。

読了した時には、歴とした犯罪は何らかの形で裁かれるべきだけれど、果たしてあの時ムルソーが涙を流さなかったのは、ここまで重きを置かれて妥当だったのか…?と考えました。

その場その環境での「当たり前」ができない人ならば、当然のように糾弾されていいんでしょうか。

例えばもし、ニューオリンズや台湾の葬列で陰鬱に泣きながらとぼとぼ歩いていたら、人は何か言うのかな?「葬列なんだからもっと明るく居なさい」なんて。(←私は知らないので、ご存知の方がいたら実際どうなのか教えてほしい)

物語の主題からはどんどん離れていくかも知れないけれど、続けますね。

しんみりしたお葬式が一般的な日本でだって、実は涙は必須ではないはず。故人との関係性の良し悪しや距離感も、個々人の心情やスタンスも、実際のところ人それぞれでしょう。心の置き方や捉え方、悼み方、悼む時期、そもそも悼めるかどうかも含め、十人十色。

以前、日本の友人知人から、「親(や近しい人)の葬式なのに全く泣けなかった」という悩みやわだかまりを吐露されたことがあります。特段、虐待やDVのような問題があったわけでもなく。

私は確か、別にいいんじゃない、負い目に感じることはないんじゃない、と答えた気がします。だって、生き残った人が泣くことはあくまで結果であって、目的ではないでしょう?故人と当事者がどんな関係性であれ。

泣けば情が厚い、とも限らない。泣かないのが薄情、とも限らない。
ずっと泣かない/泣けないかも知れないし、それはそれで別に悪いことじゃない。逆にいつか泣きたい時が来たなら、その時は好きなだけ泣いたらいいじゃない、と思っています。

ムルソーは、泣かなかったことを悔いている様子はあまり読み取れませんでした。でも、それが何であれ、事実に対する自分なりの受け止め方と、周囲の受け止め方の圧倒的な差に困惑や辟易はしていたかも知れません。

そういう悩みというかわだかまりを抱えて人知れず苦しんでいる人は、案外結構いるかもしれないと思ったので、ちょっと悩んだけれど、派生して色々書いてみました。

おまけ

前回書いたこちらの通り、ずっと迷っていました、敬称。

で、結局迷った末が、これかい!
アルベール・カミュさん…
フランクでごめんなさい汗。

いや、でも思ったの。例えばほら、歴史上の人物でも、「これ龍馬さんならどう思うかなあ」「ペリーさんゆかりの地でさあ」みたいな使い方をすることって、ない?ないか?私だけ?ともかくさしあたり、この方針で突っ走ってみる所存です。

にしても、カミュさん、なんて言うとやはりセイン・カミュさんを思い浮かべてしまう私ですが、セインさん、実は本当にアルベール・カミュさんのご親戚なのはけっこう有名な話ですよね。大叔父さんですってよ。なんと。あんなに遠かった作家アルベール・カミュ氏が、一気に近く感じてしまう。

私の家系図(本物?なんて見たこともないけど)も血眼になって探せば、少しは著名人と繋がってたりしたらカッコいいんだけどな。

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