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【アジカンショートショート②】ナイトランニング

     

 夜のお堀沿いをおれは走っていた。
 走るペースは安定している。ランニングシューズも足に同化したようなストレスのない履き心地で、何よりもとても軽い。ランニングウォッチを見ると、時刻は〇時をまたいだところだった。スタートとしては順調だが、まだまだ夜は長い。これからだ。

「待ってくれよぉ、置いてかないでくれよぉ」

 走るペースを保ちながら、後ろをチラリと見ると、だいぶ離れたところに持丸もちまるの姿を確認できた。
 これはレースなんかじゃなくて、ランニングなんだ。焦る必要はない。

「なんか変なんだよぉ。さっきから地面がぐにゃぐにゃしていてぇ!」

 その場で立ち止まってしまった持丸の叫びを聞き流し、息を整えて自分のペースを維持することに努める。

「うわぁ、お堀で巨大な鯉が飛び跳ねたぁぁぁぁぁ……」

 ポケットから耳栓を出すと、おれは両耳を塞ぎ、ノイズを遮断した。
 許してくれ、持丸。これも安らかな眠りのためなんだ。

     AM

 布団に入ってから、もうどれくらいの時間が経っただろう。
 何度も寝返りを打ったり、枕の位置を調整したり、布団に潜ったり、羊を数えたりしてみたが未だに眠れない。
 スマホの時計を確認してみると、もうすぐ朝の五時になろうというところだった。

「もう、こんな時間かよ……」

 あと一時間で起床する時間だ。
 ここで迫られる二択。
 布団の中で粘り、少しでも眠れることに賭けるか?
 寝坊するリスクを考えて、もう起きてしまうか?
 結局、布団の中で逡巡しているうちに、六時のアラームが鳴って、布団から這いでた。
 体が起動しないまま、ゆっくりと支度をして家を出る。
 満員電車で押し潰されながら、どうせ眠れないのなら、もう少し早い時間帯の空いた電車に乗ろうかな、と考えたりもする。でも、睡眠は諦めたくない。というか、ぐっすりと眠りたい。眼鏡を曇らせながら、ぼんやりと考えていると乗り換えの駅へと到着した。吐き出されるようにホームへと降りて、人波に溺れそうにながらも、なんとか乗り換えの路線のホームに着くと、目の前で電車のドアが閉まった。

「また、やってしまったぁ……」

 会社に着くと、上司から早速、呼び出しを食らった。

「おいおい、今月、何回目の遅刻なんだ!」

「すみません。おそらく三回目かと……」

 寝ぼけた頭を働かせて、今月の遅刻回数を思いだす。

「やる気はないけど、眠気だけは誰よりもあります、みたいな顔してるな。その顔を見ていると、こっちまで目がとろんとしてきそうだよ。もう、いいよ」

 大欠伸をする上司に、見放されたように追い返され、ふらふらと自席へと座った。

「先輩、また遅刻ですか?」

 隣の後輩がなんともさわやかな笑顔で話しかけてきた。

「あぁ、最近、眠れなくてさ。電車の乗り換えに間に合わなかった」

「でも、いつもなら僕よりも早く出勤しているし、次の電車に乗ってもギリギリ間に合いそうですけど」

「そうなんだけどさ、うとうとしていたら、今度は降りる駅を乗り過ごしてさ」

「間に合わない、降りられない、の合わせ技、遅刻一本ですね!」

 朝からうらやましいくらいの元気に満ちたツッコミに、なんともうまく切り返す言葉が思いつかず、弱々しく笑った。

「冗談はさておき、不眠症は心配ですね」

「体の疲れも抜けない気がするし、午前中は脳味噌に霧がかかったような感じで、頭が全然働かなくてさ」

「原因に心当たりとかあります?」

「いいや。意味もなくなんだか眠れないんだよ。もう眠れなさ過ぎてさ、たまに自分の首元をチョップしたりするもん。自分で自分を気絶させようと」

「うわぁ、それ、だいぶ追い込まれていますよ。あっ、良かったら、睡眠改善サポートとか受けてみる気あります?」

 後輩がパソコンでパパッとサイトを開き、見せてくれた。
 ディープランニング?
 ディープラーニングは聞いたことあるけど、ランニングが睡眠とどういう関係があるのだろうか。眠る前に特別な運動をするということなのか。

「実は僕も不眠症だったんですけど、これで治ったんですよ!」

「えっ、じゃあ教えてほしいな。ちなみに、怪しいセミナーとかじゃないよね?」

「ちょっと奇妙な体験ですけど、怪しくはないです」

 当日予約も受け付けているらしく、おれは試しに今夜の睡眠改善コースを受講してみることにした。

     PM

 遅刻した身ではあるが仕事を定時で切り上げて、後輩から教わった場所へと電車で向かった。一泊する必要があるらしく、今日が金曜日の夜だったというのも好都合だった。
 都心から少し離れた駅で降りると、スマホの地図を頼りに歩いて、合宿所のような二階建ての施設へと辿り着いた。
 入口で受付を済ませると、一階の待合室へと通された。
 待合室にはホワイトボードが用意されていて、数名の受講者がすでに着席していた。
 不眠症を改善するための施設だけあって、受講者の表情からは眠りへの飢えのようなものがひしひしと伝わってくる。

「おれ、不眠症歴三ヵ月なんですけど、あなたは?」

 適当な席に座ると、近くにいた男性が急に話しかけてきた。

「えっと、一ヵ月くらいですかね」

「睡眠負債で勝った! って、おれのほうが眠れていないアピールほど面倒くさいことはないかぁ。はははっ、おれは持丸、よろしく」

 持丸はこう言ってはなんだが、不摂生を絵に描いたような丸々とした体型の持ち主だった。手にはコーラを持ち、両目の下にはコーラのように黒いクマがある。

「えー、では、お時間になりましたのでご説明をさせていただきます。私が『ディープランニング』の開発者であり、この施設の責任者である安良やすらです」

 ホワイトボードの前に立つ白衣姿の安良は、手に持っていた資料を受講者たちへと配り始めた。  
 そこには、これからのタイムスケジュールがまとめられていた。

「今から皆さんには就寝時間である二二時まで、施設内で入眠しやすくするためのスケジュールに沿って過ごしていただきます。二二時になりましたら、ベッドに横になってもらいディープランニングを体験していただきます。何も難しいことはないですので、どうかリラックスしてください」

「そのディープランニングって、どういう体験なんですか?」

 キャップ帽をかぶった受講者の一人が質問した。

「皆さんには、夢の中でランニングをしていただきます」

 安良の説明に思わず耳を疑った。

「レム睡眠とノンレム睡眠という言葉を聞いたことがあると思います。
 レム睡眠では脳が活発に働いており、記憶の整理や定着が行われています。一方、ノンレム睡眠では大脳は休息していると考えられ、脳や肉体の疲労回復のために重要です。睡眠はこの状態が交互に繰り返されます。大体、一時間半から二時間くらいの周期でしょうか。
 一般的に夢を見るとされているのは、眠りの浅いレム睡眠時ですね。そのレム睡眠時に皆さんには、夢の中で走ってもらいます」

 ホワイトボードに波のような睡眠周期の図を描いて、安良が説明する。

「あとは睡眠前に補足することにして、難しい話は一旦ここまでにしましょう。お腹も空いたことですし、夕飯を食べましょう」

 食堂に移動し、バランスの整った夕食を食べた後は、大浴場で入浴した。考えてみれば、浴槽に浸かったのも久しぶりだった。入浴後は、支給された肌触りのよいパジャマを着て過ごした。            
 二一時になると、睡眠の質を上げるためにスマホやパソコンを回収されたため、施設内の本棚から小説をとって読んだり、受講者と談笑したり、サービスの温かいココアを飲んだりして過ごした。
 二二時になり、おれたちは二階の大寝室へと集合した。大寝室はすでに薄暗くなっていて、天然アロマの香りがし、自然音を感じさせるヒーリングミュージックが流れている。用意されたベッドはどれもマットレスが分厚くて、寝心地が良さそうだった。

「お好きなベッドへどうぞ。ベッドに入りましたら説明をいたします。あっ、おトイレは今のうちにすませてくださいね」

「ココア飲み過ぎたんで、いっておきます!」

 持丸がトイレから戻ってきたタイミングで、安良が話の続きをする。

「さて、皆さん、ベッド横にあるランニングウォッチを腕につけてください。お一人お一人の睡眠状態を把握するためです」

 デジタル表示の時計を腕につける。

「今から皆さんには、夢の中でランニングをしていただきます。ランニングが順調ならば、よく眠れているという証拠です。レム睡眠時を無事に走り切れれば、ノンレム睡眠時にぐっすりと脳も体も休ませることができるというわけです。
 夢の中でも、このランニングウォッチからの信号で、皆さんには起きているときの記憶が継続されます」

「ってことは、夢の中でやりたい放題じゃん!」

 興奮気味の持丸がベッドで弾むと、ギシギシと音を立てた。

「いいえ、皆さんには『走る』ことに集中していただきます。
 立ち止まったり、ランニングコースを外れたり、走ること以外の目に余る行動をされたときには、睡眠周期の波形が乱れて、夢世界から覚醒することになります。もしも、波形が乱れたとしても、落ち着いて、走り続ければ夢から覚醒することはありません。
 それから、これは競争ではありません。眠れているという状態を体感していただくためのランニングですので、自分のペースで無理なく走ることが良い眠りに繋がります。
 では、おやすみなさい、そして、お走りなさい」

 部屋は完全な暗闇となり、だんだんと眠りへと入っていった。

    ZZ

 持丸の姿が消えた後も、おれは淡々と走り続けた。
 夢の中のランニングコースは、まさに夢のようだった。
 お堀沿いを走っていたかと思えば、沿道で旗を振る人がいるマラソンコースを走ったり。
 大通りを走っていたかと思えば、朝靄の立ち込める湖の湖畔を走ったり。
 湖畔を走っていたかと思えば、どこまでも続くような長さの歩く歩道の上を走ったり。
 走れば走るほどに、様々な景色に移り変わるので飽きることもなかった。
 白壁の街並みと紺碧の海が美しい海岸線を走っているときに、リスタートした持丸の姿を発見して、ペースを維持しながら追い越した。今度は持丸も話しかけてくることなく、自分のペースで黙々と走っていた。
 竹林に囲まれたコースを走っていると、もうすぐ二時になるところでランニングウォッチが点滅を始めた。そろそろノンレム睡眠の周期に突入する合図だ。

「このままいけば、ぐっすり眠れるぞ!」

 そこで前方に真っ暗なトンネルが見えてきた。どうやら、あそこがノンレム睡眠への入口のようだ。ここまで順調なペースで走ってきたおれは、気が急いてトンネルまで全力疾走した。
 トンネルまであと少しというところで、おれは何かに足を引っかけ思い切り転倒した。どうやら、地面に突き出した木の根っこにつまづいたらしい。視界がぼやけていて気がつけなかった。
 その瞬間、辺りの竹林が一斉にブルブルと震えだした。しまった、睡眠の波形が乱れてしまった。頭上からは笹の雨が降ってきて、竹林はぐにゃぐにゃにしなったかと思うと、何股のオロチかわからない大蛇の化物となって、おれを威嚇してきた。

「ひぃ……」

 思わず、でかけた大声を飲み込んで立ち上がると、うねる地面の上をトンネル目指して走りだした。心臓の音はうるさいくらいで、呼吸も乱れていた。

「落ち着け、落ち着け。これは夢なんだ」

 自分に言い聞かせるようにして、なんとかトンネルへと突入すると、次第に意識が遠のいていった。

     ZZZ

 意識が戻ると、再びおれはお堀沿いを走っていた。
 ランニングウォッチを見ると、時刻は四時だった。どうやらぐっすりと眠って、レム睡眠のランニングが始まったようだ。
 前方を見ると、キャップ帽をかぶった男が走っていた。
 ディープランニングについて安良に質問していた遊井ゆういという男だ。

「やぁ、どうも」

 遊井を追い抜こうとすると、声をかけられた。

「うっす」

 極力、走ることに集中しようとして素気なく返答する。

「つれないなぁ。ねぇ、君もここにやってきたってことは全然眠らない、夜更かしのプロなんでしょ?」

 その言葉には少しムッとした。

「夜更かししたいわけじゃない。眠りたいのに眠れていないだけ」

「へぇー。おれは自分で言うのもなんだけど、夜更かしというか夜遊びのプロでさ」

 夜遊びのプロという言葉の響きからは、いかがわしさしか感じない。

「あっ、今、朝まで飲み明かしているところとか想像したでしょ?」

「そんなことは……」

「たまにはね」

 笑いながら、遊井はあっさりと認めた。

「おれの夜遊びってのは、工場夜景を自転車で巡ったり、キャンプしたり、知らない人と朝まで飲み歩いたりするやつね」

「最後、飲み明かしているじゃん。というか、おれと違って、眠れない時間を楽しそうに謳歌しているのに、なんでまたここに?」

 並走しながら、おれは遊井に問いかけた。

「夜は結構、遊び尽くしたからさ、次は朝遊びや昼遊びのプロになろうと思ってね。それで昼夜逆転生活をまた逆転するために来たんだ」

 仕事から家に帰ってきてからも、ただダラダラと無意味に過ごしていた自分の姿を思い浮かべる。そんな生活を続けているうちに、気がつけば眠れなくなっていた。

「なんだか、楽しそうだなぁ」

「えっ、だって楽しんだ者、勝ちじゃない。明日はどんなことしようって、考えるだけでワクワクするじゃん。ちょっと、その眼鏡かしてくれない!」

 唐突なお願いに戸惑いながらも、遊井にかけていた眼鏡を手渡した。眼鏡はすぐに戻ってきて、かけると視界がとてもはっきりと見えた。

「曇っていたよ、眼鏡」

 そういえば、最後に眼鏡のレンズを拭いたのはいつだっただろう。

「うぐぅぅぅぅぅ」

 そこで突然、誰かの呻き声のような声が辺りに響きだした。

「なんなんだ、この音は……」

 次の瞬間、体がふわっとする感覚を感じた。下を見ると、地面がなくなっていて空中を落下しているところだった。

「うわぁぁぁぁぁ」

「大丈夫! これは、夢の中だ。空だって走れる!」

 遊井の呼びかけで我に返り、足を動かすとなんと本当に空中を走ることができた。

「ほらね」

「ありがとう。目を覚ますところだった」

「おう。もうすぐ、夜明けみたいだ。よーく、夢中で走ったもんだ」

 空中を走る遊井の視線の先に目を向ける。
 まさに水平線が赤く染まって、太陽が「おはよう」と顔を出すところだった。

    AM

 六時のアラーム音で目を覚ますと、頭も体もとてもすっきりとしていた。
 夢の中とはいえ、さっきまで走り続けていたとは思えないくらいに、本当に気持ちの良い目覚めだった。上体を起こし、大きく伸びをする。

「ぐがぁぁぁぁ! ごがぁぁぁぁ!」

 隣を見ると、アラーム音にも気づいていない持丸が、大きなイビキをかいて眠っていた。

「さっき、夢の中で聞こえた不穏な響きって……お前のイビキかよ!」

 久しぶりに朝から脳味噌が働いた気がするが、ツッコミを入れた相手はまだ夢の中だった。

「皆さん、おはようございます。途中、覚醒された方や不安定な状態だった方もいたようですが、皆さん朝まで完走できたようで良かったです」

 ほかの受講者も、澄み切った朝の空気のようなすっきりとした顔をしている。持丸もやっと目を覚ましたようだ。

「この後、朝食もご用意できますがいかがしますか?」

 安良がおれにたずねてきた。眼鏡をかけて窓の外を見ると、陽の光がまぶしいくらいだった。

「こんなに気分のいい朝は久しぶりなんで、外で食べます」

「じゃあ、おれも」

 朝遊びのプロを目指す遊井が早速、乗っかってきた。

「おれもおれも!」

 持丸がベッドから転がり落ちながら、手を挙げる。

「ここに来る途中に、クロワッサンが自慢のパン屋があったんだよね」

 大通り沿いにイートインもできるパン屋があったことを、おれは覚えていた。

「いいね、知らない町での朝食って感じ」と遊井が水を飲みながら言う。

「ピザトーストもあるかなぁ」と持丸がコーラを飲みながら言う。

「あ、でもオープンまで少し時間があるから、少し外を走らないか?」

 おれの提案に持丸は「ウォーキングならば」と渋々ではあるが納得し、ウェアとランニングシューズを借りると外へと出て、朝陽を浴びた。
 町の景色も散歩する人の姿も、二枚のレンズを通して、とても鮮明に見える。
 息を吐いても、眼鏡は曇ることなく、遊井と持丸の清々しい顔を捉えていた。
 まだまだ、今日は始まったばかり。
 さぁ、どこで、だれと、何をしよう。


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