意味があることは、簡単な言葉で言っても、意味があるし、面白い。(小沢健二、うさぎを読んで)
続きの話。オザケン、うさぎ。
小沢健二の『企業的な社会、セラピー的な社会』について、続きを書いてみたいと思う。
うさぎは、優しい言葉だけれども、核心をつく問題をいくつも取り上げている。
私たちが考えていることは、本当はどこまで考えているのか。
ウサギを読んでみると、何度も考えさせられる。
新卒で入った会社で、部長さんがマネジメント研究が終わった瞬間に、新入社員に「SWAT分析」とか「ABC分析」とか、様々な経営用語をこれみよがしに話していたことが忘れられない。
もちろん、このような経営のフレームワーク(あ、またカタカナ語だ)は、会社で働く上で知っていても損はないことだと思う。
けれども、当時の自分はどうしても、カタカナ語万歳みたいな姿勢に違和感があって、話を聴きながら、どこかふに落ちないところがいつもあった。
難しいふりして生きる
冒頭のオザケンの言葉は、その違和感をまさに言い表しているのかもしれない。難しい言葉は、使った気になることができる。
なんだか全てを理解しているような気がする。
マネジメント、フレームワーク、ワークショップ・・・。
なんだか仕事ができるような、なんだか社会でいけている人になっているかのような錯覚に陥ったこともあった。
ただ、その言葉を理解して使っている人は何人いるだろうか?
例えば、マネジメントという言葉。この語源はどこにあるのだろうか?
簡単に言うと、人間に使われていた言葉ではなくて、馬を馴らすことに使われていた言葉。それがマネジメントだ。
こうやって考えると、マネージされることが、あんまり気分がよくないのも納得する。手綱をつけられて、人に馴らされることが、マネージメントの語源だったのだ。
こんなふうに、語源をみてみると、いかに言葉を理解して使っていないことに気づかされる。
Life is short time(人生は短い)
言葉は自分の思考の範囲を決める。
言葉を制限されてしまうと、考え方の幅は相当減ってしまう。
オザケンは、名曲ラブリーで、Life is short time(人生は短い)と歌った。
この短い人生を味わうためには、自分の言葉をどれだけ、自分の言葉として使えるかが結構鍵になっているのではないか。そんなふうに思うのです。
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