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『いわゆる鎖国』とは?

近年、日本史の教科書から様々な用語や人物名が変わっていっています。

例えば「聖徳太子」→「厩戸皇子」 源頼朝が鎌倉幕府を開いたのは「1192年(良い国)」だったのが「1185年(良い箱)」になど。僕たちが学生時代に覚えた歴史は古い知識になりつつあります。中でも分かりづらく変わったのが「鎖国」→「いわゆる鎖国」だと思います。


今までの「鎖国」について皆さんが知っているザックリした説明は「江戸時代の日本は海外との交流を絶っていた。」こんな感じだと思います。では何故、「いわゆる」という言葉がつくようになったかのか?

日本誌と鎖国論

そもそも「鎖国」という言葉は誰が最初に言い始めたか知っていますか?と聞かれてもパッと答えられる人は少ないと思います。「鎖国」という言葉は江戸時代中期の長崎の蘭学者・志筑忠雄(1760〜1806)によって造られた言葉です。

長崎の出島にあったオランダ商館に勤務していたドイツ人医師 エンゲルベルト・ケンペル(1651〜1716)が日本について執筆した「日本誌」の一部を志筑が翻訳して題名をつけた「鎖国論」が始まりと言われています。ですが当時は「鎖国」という言葉は一般的に使われておらず、使われるようになったのは明治時代以降になってからでした。

もうすでに分かったかもしれませんが「いわゆる」がついた理由、それは日本が完全に外国との交流を絶っていなかったからです。長崎の出島にあったオランダ商館と言ってる時点で外国と交流していたんです。そもそもオランダと関係を持っていなければ蘭学者もいるわけありません。

いわゆる鎖国とキリスト教

幕府が「いわゆる鎖国」体制を始めた大きな理由としてキリスト教の布教活動をさせないためというのが挙げられます。前まで日本に出入りしていたポルトガル船にはキリスト教の宣教師が乗っており、日本での布教活動を始めキリシタンが増えていました。一般の人に限らず大名にまでキリシタンがいたほどです。

中でも百姓などの社会的に弱い立場にいる人たちに広まっていき、やがて集団を作り幕府に抵抗するようになります。江戸時代初期に起きた島原の乱がそうです。島原の乱はキリシタンの間でカリスマ的人気があった天草四郎時貞をリーダーとする一揆軍が幕府軍相手に戦った日本史史上最大規模の一揆でなんとか鎮圧できたものの幕府軍は約8000人の兵が命を落とし幕府軍の指揮官だった板倉重昌も戦死するほどでした。

一揆軍が強かったのには浪人が含まれていたのもありますが、やはりキリシタン達の「死を恐れない」戦い方があったためでした。島原の乱の後、ポルトガルは日本から追放され、ここから始まったのが「いわゆる鎖国」です。

では何故、幕府はキリスト教徒の多いオランダとは貿易をしていたのでしょう。それはオランダが「布教活動はしない」と幕府に約束したからです。オランダはポルトガルがした「布教」というミスを利用して布教活動はしないという条件で日本との関係を続け、幕府にとってもポルトガルを締め出したのでヨーロッパの情報や物資を入手するためにオランダと関係を続けるのは都合が良いので、オランダ以外のキリスト教徒の多い国とは関わらないことにしました。



海外に開かれていた窓

オランダの他にも朝鮮と中国さらに当時は外国と似た扱いだった蝦夷地(現在の北海道)に住んでいたアイヌ人や琉球王国(現在の沖縄)とも交流をしていました。

詳しく説明するとオランダは長崎、朝鮮は対馬藩、アイヌは松前藩、琉球は薩摩藩と交易をしていました。

15世紀に尚氏によって統一された琉球王国は、東南アジアと交流し、輸入したものを加工・製造して再輸出する中継貿易で繁栄していましたが慶長十四年に薩摩藩に侵略され(琉球侵攻)以後、薩摩藩の支配を受けることになります。薩摩藩は琉球のサトウキビから作られる黒糖を独占しこれを売って収入にしていました。これと同じように蝦夷地では松前藩がアイヌとの交易を行い富を得ていました。



ここまで説明してきたように江戸時代の日本は完全に「鎖国」していたわけではなく、必要最低限に外国との交流を抑えていた「いわゆる鎖国」状態でした。こうした外国との付き合い方のおかげで200年以上の平和を守れ、独自の文化を育めたんだと思います。


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