見出し画像

最近 アニメで鬼が多すぎる?

このお正月 
コロナかインフルのどちらかに 感染したようで
どこにも出かけられずに 
撮りためたアニメやドラマをひたすら見てました

そこで思ったのが・・・
このところ アニメやドラマに 鬼が増えてないか?

昭和世代のアニメと現代の違い

そもそも
私の認識では
日本のアニメの凄いところは 絶対悪を表現する形ではなく
ドラゴンボールやワンピースのように
死んでも生き返ったり 
戦っても死ぬところまでいかなかったり
敵だったものが 味方になり仲間になる  
その人間関係に満足感を得ていたようにも感じる
しかし
最近は 初めから分かりやすく
鬼が出てくるものが増えている
そして 鬼は負ければ消滅するのだ(のように思う)

例えば
鬼滅の刃
約束のネバーランド
呪術廻戦
葬送のフリーレン(これは魔族だけど角がある) など
それは何で?と思ってしまう

鬼の歴史

日本の鬼の概念は古く、
八岐大蛇(やまたのおろち)
日本神話に登場する大蛇で、その姿勢や特異な存在から、
一部の解釈では鬼のような要素を持っているとされている

桃太郎は鬼伝説のひとつで 平安時代に成立したものである
仏教の影響もあって、鬼は悪霊や邪悪な存在として描かれる
また節分や 死後の世界でも登場する
鬼は払いたいもの、罪を犯した者たちの象徴としても捉えられてきた
江戸時代の末期には 交渉に来た外国人の意図がわからない状況において
怖くなって 赤鬼的扱いをしていたこともあった

また鬼嫁なる言葉も頻繁に出てくる
鬼夫とはなかなか言わない
論語にも「女子と小人とは養い難し」とあるように
昔から 扱いにくい嫁を 鬼嫁と言ってるように思う

古来から 鬼は 日本人の心の闇の象徴であったようにも思える
得たいが知れなくて 避けたいものを 遠ざけたいものを
鬼としてきたように感じる

将棋とチェスの違い

以前どこかで 
日本の将棋とチェスの違いについて読んだことがある
2者の大きな違いとは

日本の将棋は 
取った相手の駒を自分の味方として活用できる
つまり 捕虜になったら寝返るのだ
だから 使える駒は延々と減らない
だれも死なないのだ

一方でチェスは
取られた駒は それでおしまい 使いまわしが効かない
取られたらそこで終わりであり 活用できない
戦えば 戦うほど 駒は減っていき
消耗戦となる

したがって、鬼が出てくる 最近の作品は 
チェス的な世界観の様に思う

鬼の概念が増えた要因は?

では 鬼の登場回数が 日本のアニメで増えた原因はどこにあるのか
自分なりに考えてみた
 
①鬼滅の刃が人気を得たから 
鬼というわかりやすい概念が受け入れられたため
製作者側が 意図して 鬼を多用するようになったのかもしれない
また、他の作品との差別化をより明確にするために
マンガの世界観にオリジナリティーが求められる
世界観の繊細な設定を 味わってもらうために
敵と味方は わかりやすくしておいた方が
読者には スゥ~っと入りやすくなる
そのための 鬼なのかもしれない

②人の多様性
現代はインターネットが普及し
多様な考え方が あふれている
そうなると あまりにも理解の範囲を超えた言動を目にする場合がある
そのような発言をする人は近づきたくないし
関わらないようにしたい 
多様性の社会であるからこそ 
別のコミュニティーに転向すれば避けることができるし
衝突しなくても済むようになる

また多様性社会の結果
パワハラ セクハラの線引きも 個人の見解にゆだねられている
したがって 実生活では 
人との衝突をなるべく避ける生き方を迫られている
しかし そのような生活はストレスもたまる
だからこそせめて娯楽の世界では そのあたり悩まなくて済むよう
わかりやすく「鬼」としておいてほしくなるのかもしれない

他にも、人が介在しなくても 生活に支障がなくなってきている
ネットがあるから モノが買えるし 
暇を持て余せれば テレビやネット youtube など
あらゆる媒体にアクセスできる
なので 他者を理解しようという 動機も減ってきている

その結果 不快に思った相手は わかりやすく「鬼」としたくなり
頑張っている主人公が
バッサバッサと たたき切ってもらえたとき
その姿勢に同調でき 達成感を感じ
ストレス発散の 娯楽になっているのかもしれない

③弁証法的には
私の心の師匠、田坂広志氏も 弁証法で語るように
時代の流れによって 流行は現れる
右に進み 進み切ればまた左にいく そしてまた右にもどっていく
今は 敵味方をわかりやすくする 
そのような時代の 流れなのかもしれない
そして右に進み切れば また左に 戻っていくのかもしれない



この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?