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道草の家のWSマガジン - 2024年2月号


ゆき - カミジョーマルコ

白い影に ふと目をあげると
外は雪がふっていた

ふわりふわり ひらりひらり

隣のアパートで子どものはしゃぐ声がする
すごいね すごいね

お姉ちゃんと妹と
すごいね すごいね

その上の階に住む若い母親は きっと
産まれてまもない赤ん坊を抱いて
窓の外をみてる

はじめてみる白い世界を
赤ん坊にやさしく語りかけている

その先に一人で住んでるおばあさんは
カーテンを閉めながら きっと
ねこのことを考える

この雪の中
寒さに震えてるんじゃなかろうか、と
ねこのことを考える

そして
おじいさんの写真に語りかけながら
熱いお茶をのむ

当のねこときたら
私の家で 私のひざの上で
のどをならしている

雪のことなんてなんにも気にしない
いつもとかわらず のどをならす

ふわりふわり ひらりひらり

外は雪がふる


麻績日記「夢の中へ」 - なつめ

「どうして急に、そんな遠くへ? 何かその場所にゆかりでもあるんですか」と職場の人に尋ねられた。急に東京を離れ長野県に移住することを伝えると周りがざわざわとしていた。「いいえ、特になにも。ただ、なんとなく······」と私は答えた。周囲は不思議そうな顔をしていたが、私はただ、なんだか麻績村に住む流れにもう乗り始め、どうやら今、動き出す状況になり、自然のなりゆきでという感じで、「自分でもビックリです」と言うしかなかった。おだやかなこの職場を離れることは少しさみしかったが、それでも、今の私たちが住む場所は長野県の麻績村なのだろう、という静かな確信のようなものが日々芽生えていたのである。
 ずっと夢見ていた。10年ぐらい前からぼんやりと。自然豊かな長野県への移住に憧れていた。この度、その夢が叶ったことに、まだ実感はなかった。麻績村は私にとって本当にちょうどいい場所だ。私にとって「ちょうどいい」ポイントは、「無理なく、楽しく、心地よい」ということだ。東京で生活していた頃の私は、まだ小さな息子と一緒に願い事を願う色々な場面でいつも願っていた。願い事は、小さなことから大きなことまで色々あるほうで、叶ったものもあれば、なかなか叶わないものもあった。毎年の初詣で神社にお参りするときも、節分で恵方巻を吉方位に向かって食べるときも、幼稚園や近所の七夕の短冊に願い事を書く時も、私は長野県に移住したいという願い事は、その色々な願い事の中でもいつも願うことの一つであった。「念ずれば花開く」それは旧友から教わった言葉だ。ぼんやりとうっすらと願っていたことが、本当に叶うなんて思ってもみなかった。離職、離婚、転職、転校と、立て続けに変化があり、その願い事はいったんそれどころではなくなった。それらがいったん落ち着いた後、「そういえば、あの頃、願っていたよなぁ」と、いったん置き去りになり、自分でも忘れてしまっていた願い事が、絶妙なタイミングで叶う流れになったのだった。
 この度、ようやくその約10年という修行のような生活を経て、このタイミングでその夢が実現した。夢の異世界へ入った私は、夢が現実へと変わり、非日常だと思っていた世界が新しい日常の世界となったことがとにかくうれしかった。この住宅は車がないと不便だと言われた長野県でも、車がない私にも住むことができる快適な場所であった。雪は降るが、最初に希望していた地域より大雪にはならないことを聞き、長野県の冬を体験したことがなかった移住初心者で車もない私には、麻績村の村営住宅が最初に長野県に住んでみる場所として、ちょうどよかった。東京で元夫と住んでいた頃から約10年間、私は広くてきれいで安心できる家に住みたい、駅から近くて、山や自然があり、病院もスーパーも無理なく歩いて行ける場所に住みたい、そして、ときどき気軽に歩いて山にも登りたい、と心の中で思っていた。具体的に絵と文で紙に書いてみることもあった。この度移住した村営住宅は本当にそのような場所で、すぐそばに電車の線路があり、玄関を出れば、駅が見え、北アルプスも見えた。駅には歩いて5分以内で着く。ベランダからは素朴な野山が見え、すぐに自然を感じることができる。住宅は実家よりもきれいで、もともと私たちの物が少ない分、広々としていた。近所での道路工事の音も、家の中で父のラジオやテレビの大音量も聞こえてくることはなく、息子と二人で静かな安心感をたっぷりと感じることができた。村に一軒だけのスーパーも歩いて5分で行くことができ、病院も歩いて10分ぐらいのところにある。新たな職場となった小学校も歩いて5分ぐらいの場所で、私が生活するのに必要な場所には、すべて「無理なく、楽しく、心地よく」歩いて行くことができる。そして、近くの山にも歩いて行き、気軽に登ることもできるという本当に奇跡のような場所だった。「こんなに私にとってちょうどいい場所がここにあったんだ!」と思うぐらい、10年ぐらい前からことあるごとに、思い描いていた夢の場所に移住できたのである。山や畑に囲まれた自然だけを感じる道を、ただ歩いているだけで私は心地がよかった。私以外、近所の村人が歩いている姿を見かけることはほとんどなく、みなが車で通り過ぎて行くばかりだった。この長閑な風景の中を自分の足で歩き、東京から離れた遠くの知らない場所を今、私は歩いている。これが現実であることを一つ一つ確かめるように。
 縁もゆかりもなんにもない村にいよいよやってきた。離婚して半年ほど、実家暮らしだった私には、引っ越し業者にお願いするほどの大きな家具や、大きな荷物もなんにもない。そもそも実家には、自分の所有物として置ける大型家電や家具、物が置けるスペーもなく、私たちが使える部屋の広さは5.5畳ほどしかなかった。そこに息子と自分の必要最小限の物だけを置いて住んでいた。私は必然的に俗に言うミニマリストにならざるを得ない状況だったのだ。実家に、物を置けるスペースがなかったのだから、これといって私の大きな荷物など、そもそも存在などしなかった。この度、私たちはこの村へ来てようやく自分たちだけの広々とした空間に、自由にのびのびと物を置けるようになったのだ。そのため、新しく買う必要がある物も多かったが、やっと自由に物が置けることがとにかくうれしかった。引っ越したばかりの部屋はすっからかんだった。カーテンもなければ、電気もなく、本当になんにもない。外にも私が家具や電化製品などを歩いて買いに行けるお店もなんにもない。とにかく一つ一つの部屋が親子二人で住むにはもったいないぐらい広く感じた。この部屋の解放感と、ベランダから見える素朴で長閑な自然の風景によって得られる安心感。私は長年これを求めていたのだ。

探すのをやめたとき
見つかることもよくある話で
踊りましょう夢の中へ
行って見たいと思いませんか

(井上陽水「夢の中へ」)

 傷き続けた心を癒やす時間と場所が、麻績村だった。いい意味で、縁もゆかりもなんにもないから安心できたのかもしれない。たまたま見つけた安心できる環境の麻績村にふと辿り着いたことは、決して偶然ではないような気がしていた。長年のつらく悲しい苦しい修行にがんばり過ぎて、傷つききってボロボロの状態だった私への、修行修了のプレゼントのようなできごとだった。ボロボロになった内側に蓋をして、隠していた悲しみの感情がゆるやかに解放され、日々癒やされていく。静かでゆっくりとした時間が流れている麻績村で、知らない人たちと出会い、今まで見たことがないものに感動するような生活が始まった。移住一ヶ月後、私は村の小学校の支援員として働き始めた。そして、蓋をしてなかったことにしていた私の様々な感情を、素直に外に出すということを、この村の素朴で元気でまっすぐな子どもたちと関わる支援員の仕事によって、一つ一つ学び直していくのであった。


おかあさんと私とわたし - 橘ぱぷか

 小さな子ども2人と朝昼夜と過ごす毎日は長いけれどあっという間。その不思議な時間軸の中、今日も細切れの時間を生きていて、思考が度々ぷつぷつと途切れる。
 あれ今なに話してた? なにをしようとしてた? の連続。考えを巡らせていても、おかあさーん! の呼び声で、うわーんの泣き声で、すべては振り出しに戻る。キリのいいところまで辿り着けず、散り散りになった思考のかけらはぐるぐるといつまでも、同じところを回り続けて止まれない。
 あれもしたいこれもしたい、やりたいことは山ほどある。なのにいざ空き時間ができるととにかく休みたい。そんな自分にほとほと嫌気が差してあれやこれやと手を出そうとしたものの、出してみたものの、やっぱりやりきれない。

 母になって、私の中身を話す機会が圧倒的に減ったなあと思う。
 同じ年頃の子どもがいるということしか共通点のない薄いまじわり。あの人は○○ちゃんのママで、この人は△△くんのママ。こんなに頻繁に顔を合わせているのに、目の前の人がどんなふうに生きてきてどんなものが好きなのか。そのほんのひとかけらすら私は何も知らない。相手もわたしをなにも知らない。
 おかあさんという役割だけがお互いを淡く結んで、ただそれだけだった。そのくらいがちょうどいいのかもしれないけれど。
 へらへらと笑顔を顔にはりつけて、自分が正しく笑えているのかさえよくわからなくなって、一体わたしはどこに行ったんだろう。「おかあさん」ってだけでひとくくりにされがちだけど全然そんなことはなくて、家庭環境も育った環境も経済状況も、体質も性格も子どもの個性もぜんぜん違うのに、みんなと分かり合えるわけなんかない。
 そんなことばかりを考えると深みに沈みこんでしまいそうだからもう一度、笑顔をはりつけてあらゆる言葉を呑み込んで、私はおかあさんを続ける。やがてわたしという形はぐにゃぐにゃになって、ほどけていって、でも消えずにしこりとなって喉の奥に張り付いて時折ずきりと疼く。忘れたくないし忘れちゃいけないんだけれど毎日の中でどんどん希釈されていって、色もにおいも失って、このままだとなくなってしまうかもしれない。だから私は、わたしを保つための努力をしなきゃいけない。


 いつかの私が書き残した感情のかたまり。うわあこんなことを考えていたのか、と衝撃を受けると同時に、当時の気持ちや風景がよみがえる。甘くて優しくて楽しくて苦しい。
 走っていってそのときの自分を抱きしめて、大丈夫だよと伝えたい。大丈夫大丈夫、私はわたしだから大丈夫。目を離さないでいたらちゃんと自分は戻ってくるよ。「おかあさん」だけじゃないわたしもちゃんと残ってるよ。だから安心して過ごしたらいいよ。かわいこちゃんたちと自分をたくさん抱きしめたらいいよ。
 いつだって未来のわたしは過去の私に寛容で、慈愛の心に満ちている。同じように今の私も、今のわたしのことをちゃんと大切にしてあげたい。


挿絵・矢口文「Awaking」


年賀状が来ない - スズキヒロミ

 取引先へ配達をしていて、お客さまの一人から、こんな声を聞いた。
「今年は年賀状が来なかったのよ」
 私は最初、自分宛の年賀状が減った話か、と思って聴いていたら仕事の話で、取引先からの年賀状印刷注文が、去年はさっぱり来なかったのだという。
「女の人はさ、好きなことなら独りでもやるじゃない。男の人はさ、周りを見てみんなやってると思ったらやるし、やってないと思ったらやめちゃうの。企業は男の人ばっかりでしょ」
 その辺はどうでしょうねえ、と思いながら、男女ではなく、主体的に好きでやっているのか、それとも周りがやっているから自分もやっているのか、という動機の問題として聴けば確かに、とも思った。年賀状を作るのがお互いに楽しいと分かっている間柄であれば、それは続くだろうと思う。企業の場合だと義理ではあるし、目に見える形での利益が分かりにくいこともあるしで、潮が引くような事になるだろうという気がする。
 そういえば去年の暮れ近く、私宛に「以後年賀状をよします」というお知らせを複数いただいた。理由はそれぞれで、黙ってやめて下さっても良いところを知らせて下さった事にお礼をしたいと思い、それぞれの方に返信を送った。するとお一人から、「やめるつもりだったけどスズキさんちにはこれからも送ります」とまたお葉書をいただいた。また別のある方からは、こちらから送った絵葉書を気に入ってくださって、故人となった方のお仏壇に備えてくださった、という丁寧な返信をいただいた。
 私としては、「やめてもいいんだけど、今やめるのももったいないなあ、返事が来る来ないとかはともかくも」といった感じで、この年末もたぶん年賀状を作るのだろうと思う。


犬飼愛生の「そんなことありますか?」⑮

そこのけそこのけ、あたしが通る。ドジとハプニングの神に愛された詩人のそんな日常。

「メキシコ人」
 先日、詩の講演会の依頼をいただいた。学生向けの講演である。特に詩に興味がないであろう大多数の学生にとって、全く知らない詩人の話を聞かされるだなんて、想像するだけでつまらなさそう。そこで私はワークショップ型の講演会をすることを提案した。しかしこの依頼があった時点ですでに本番まで1か月半ほどしかない。ちょっと急すぎないかしら? 若干の違和感が発生する。
 講演先が遠方だったこともあり、打ち合わせはすべてZoomで行った。担当の先生の名は仮にA先生としておこう。A先生はとても純粋な方で生徒思いの先生だと思う。少なくとも、詩という決してメジャーな文芸とはいえないものに注目し、どこかから私の作品を知り、読んで、生徒たち向けに講演会をしてほしいとわざわざご依頼をくださったのだ。なんとかして生徒たちに詩というものへのハードルを下げたいという気持ちが伝わってくる。ありがたい。何度かZoomで打ち合わせを重ねたが、講演会まで2週間を切ってもまだ全体像がぼんやりしている。若干の焦りが発生してきた。
 A先生が作ったレジュメとスライドがメールで届く。この時、講演まで1週間を切っている。確認して修正箇所を依頼する。「最終的な訂正を前日22時ぐらいに送ります」と言われて待っていたが結果的には50分遅れでやってきた。つまり前日22時50分に最終の訂正が反映された。若干眠いが気のせいだろう。
 学校への取材と打ち合わせのために前日入りが決まっていたので、新幹線で学校へ向かう。実際にお会いしたA先生は画面の向こうと同じく、笑顔が素敵な生徒思いの先生だった。校内を案内してもらっているあいだにもたくさんの生徒に声をかけている。愛情深い。応接室に戻ってA先生と打ち合わせをしていると急にA先生が「あっ!? 〇〇先生も打ち合わせに来るんだったの?」とスマホの画面を見て大声を出している。慌てて別の先生に連絡を入れている。若干の困惑が発生したが気のせいだろう。この日はA先生が懇親会を企画してお店を予約してくれていた。いったん応接室を出ていったA先生がなかなか戻ってこないのでもう一人の担当者であるB先生が様子を見に行くと、明日の講演会で使う横断幕の印刷ができないのだという。というか、この時前日の18時半である。横断幕が会社員だったら残業だ。働き方改革かもしれない。懇親会のお店の予約時間が迫っているのでB先生と先にお店に向かうことにする。B先生が言う。「A先生って、いつもあんな感じなんですよね、すいません。メキシコ人だと思ってください。悪い人ではないんですよ」と。メキシコ人······会ったことはないけれど、なんとなく陽気で明るくおおらかなイメージ。細かいことは気にしないドンタコス。フレンドリーで寛容なドンタコス、Ola! あぁ、そうかもなあ、メキシコ人かもなあ。
私とB先生がトボトボとお店へと歩いていると電話が入る。「印刷はあきらめて、お店に向かいますね!」。20分くらい歩いてお店に到着すると、先に車で到着していたA先生がお店の大将と談笑している。ズッコケそうになったけど細かいことは気にしないドンタコス。もう明日の講演会の横断幕はないけれど、酒を飲もう。Ola! テキーラ持ってこい! 3時間半ほど懇親会をしたあと、A先生は代行運転で帰って行った。ちなみにだが、私はこのあと日中に学校で行った取材をもとに大急ぎで翌朝の講演会ための詩作をすることになっていた。解散22時半。降りてこい! Ola! オラ! 詩の神! ハバネロみたいに痺れる詩を書かせておくれ。アミーゴ! ホテルの部屋をぐるぐる歩き回って詩を作った。午前2時までかかって4時間睡眠で起床。
 フラフラになって講演会当日。朝の打ち合わせでメキシコ名物サボテントゲトゲ殺傷ワードがアミーゴする。A先生「すいません、講演料なのですが、ちょっと予算が通らなくて減額になってしまいます······」。読者のみなさん、ここでタイトル回収です。「そんなことありますか?」。ツッコミどころいっぱいあると思いますけど、「陽気で明るくおおらかで細かいことは気にしないドンタコス、テキーラ、ハバネロ先生」と思えば、そんなこともあるだろうと思えてくる不思議。

では今月もご唱和ください。「本当にドジとハプニングの神は私を愛している」。


犬猫をみならう - maripeace

無事? にコロンビアのメデジンに着いて一週間くらいが経ちました。
時差ぼけのせいなのか、軽い躁だからなのか夜長く眠れず昼間だるくて寝てばかりいます。もうすぐ夜中の2時です。

部屋を貸してくださってる方が動物たちと暮らしてるので、広めのベッドにその子たちと寝ています。家の中で日本語で暮らし、日本語のSNSを眺めていると、ふとここはどこだっけと思うくらい、地球の反対側に来た実感はありません。広告がすべてスペイン語になるとか、youtubeのおすすめがスペイン語になるとか、門の外に気軽に出られない(と思ってる)、道を歩くとき歩きスマホしたら後ろからバイク強盗に狙われる危険性を意識する、とかそういうことを思い出すと、ああ、私は外国にきたんだなと思い出すのですが。あとおととい行ったショッピングモールでは、スリッパが5000円(セール品は3000円)か500円という選択肢でした。同じ中国製でも日本の100円ショップのクオリティの高さと品揃えはすごいんだなと実感しました。

さて、毎日日中眠いので、思っていたことの10分の1くらいしかできていません。
これまでにできたことを振り返ってみます。まず母に見送られてギリギリの時間に手荷物検査を受けて搭乗口に行き、飛行機に12時間乗ってメキシコシティにつきました。重たいリュックを背負って二つの重たいスーツケースを押し、事前に調べたエアポートホテルを探し出しました。ホテルのフロントで思っていたのの2倍もする値段を提示され、ロビーのふかふかのソファに座ったときは思わずその値段を払ってでも今すぐに休みたい、と思いましたが、また重い体とスーツケースをなんとか運んで、空港に戻ってスタバで仕切り直しをしました。(日本ではほとんど行かないスタバの存在に初めて感謝をしました)

さらに飛行機を乗り継いでコロンビアに着くまでには、3日間でそれはそれは色々なことがあったのですが、もう夜中なのであと5分でこの原稿を切り上げようと思います。

せっかく来たのだから、と欲張らず、いま一緒に寝ている犬猫たちのように、気が向いたら遊んだりご飯を食べたりして、あとらゴロゴロするくらいでも良いのかなと思うのですが、そんなにのんびりできる性分でもなく、やっぱりそれなりに頑張って動いてます。できればどんどん怠けてあきらめる方向に行きたいのですが。

いつも相談しているお坊さんには、この土地に足をつけただけでもうクリアなので、あとはおまけを楽しんでくださいと言われています。頑張ってがんばらないのはなんだか難しいので、ほんの少しだけそこを意識して過ごすつもりです。



2月 - のりまき放送

三人を起こさないように寝室からそっと出た。隣室へ移動する。昨日の夜、置きっぱなしにしたカップを手に取る。喉を流れていく液体が鉛のように重たい。キッチンで温かいお茶を淹れてくれば良かった。しかし、下まで行くのが億劫でやめた。カップの底で緑色の濁りがゆらりと円を描く。暖房のスイッチを押す。ピッ。接触が悪いのか、三回目でようやく機械が唸り声をあげる。ピッ。ピッ。ブウゥーン。10年ぐらい前だろうか? 朝活にはまり、毎朝早起きして都内へ通った。朝一番に予定を入れて一日を充実させよう。その頃、手に取った自己啓発本を馬鹿正直に信じた。キラキラした何かに生まれ変わりたかった。早朝カフェ勉強会。朝読書会。ビジネス書を見せられ、「これは絶対に読まないと······」と熱心に薦められた。
外用のスウェットに着替えて、近所のコンビニまで歩く。シェービングクリームが切れていた。洗面台に旅行用のシェービングジェルはあったが、ジェルはあまり好きではない。何かこう、しっくりこないというか。まずはATM。残高は減り続ける。勤務先からの給料の振り込みは今月が最後。早く仕事を見つけないと。三年前、帰国してからの生活でも同じような経験をした。妊娠中の奥さんにお金のことは相談できず、貯金を切り崩した。「あー、またか」と思うが、今の仕事の雇用条件をしっかり確認していなかった自分が悪い。面接が進んでいることがせめてもの救いか。買い物かごをレジに持っていく。「お待たせしました」と店員さんが笑顔で迎えてくれた。
家に戻った後、お風呂にお湯をはる。身体を洗わずに湯船に飛び込む。縮こまっていた足をぐいっと伸ばす。しばらくお湯に浸かってから髭を剃る。シェービングクリームの缶からシュッーと出た泡がもこもこと膨らんでいく。鼻の下。頬。顎。顎下。順番に泡を塗る。湯船で温めておいた剃刀を左頬にあてる。スッと剃刀をひく。白い泡に小さな黒い毛が混ざる。顎下がまだチクチクしている。泡をもう一度塗り、剃刀を滑らす。締めに冷水シャワーを浴びる。思わず、「ひゃあっ」という声とともにステップを踏んでしまった。


やわらかい器 - 下窪俊哉

 よく覚えているつもりのことでも、そのことを知る人に話すと、お互いの記憶には多少のズレがあることに気づく。他人の記憶によると、あるとき、自分が思いもよらない場所にいたりもする。
 過去をふり返ったときに、まったく思い出せないことがあるのは、残念な気もする。なぜかそのとき、その光景のなかで見た、あの人の微笑だけは脳裏に焼き付いているのだが。

 記憶とは断片、カケラの詰め合わせであり、それはどう編んでもよい、その人の自由だ。記憶は過去のものではない、常に現在のものであり、いつも揺れ動いている。

 忘れたくないから、人は記録を残すのだろうか。記録が残せるから、自分は忘れないと信じているのだろうか。しかし実際のところ、私たちは、多くのことを忘れて生きている。
 残された記録から、私たちは何かを思い出す。それは未来において何かを知るための根拠になろう、しかし過去の事実そのものではない。

 書くことも、記録の一形態である。嘘は書きたくないが、しかし何が嘘で、何が本当なのかは誰にもわからない。記憶と、残された記録から想像が生まれ、溢れ出てくる。そこにフィクションが立ち上がる。ただのつくり話ではないのである。そこには書き手の身体感覚が大きく作用している。
 ことばにも肉体がある。それがないと、記憶という土を耕すことが出来ない。
 思い出すことのなかには、歓びも、快楽もあるし、苦しみや、痛みもある。なるほど、忘れるということは、生きてゆくうえでこんなにも大切なことだったんだ、と感じるかもしれない。
 ただ記憶こそが、私を、私にしている水源でもある。だからどんなに苦しくても、それを手放すことは出来ない。いつもどこかに潜んでいて、生きている限り、再び見出されるのを待っている。

 私たちはいつも何かを思い出している。それを〈書く〉という営みに落とし込んでゆくことで、現在の自分を支える。頑丈なつっかえ棒のようになって支えるのではない。やわらかく支える。
 書くことは凶器にもなるけれど、自分を入れておける大きな、やわらかい器のようにもなれる。

(私の創作論⑩)


表紙画・矢口文「みっつの関係」


ひとこと - 矢口文

今月は家のリフォームで部屋を片付けたり、バタバタしていて、伯母や母の分骨の納骨が重なり何気に忙しく、さらにアトリエを移動しなければならず、キャンバスに絵の具で描く制作ができませんでした。
私の表紙画としては初めてのデジタル作品です。ふだんからよく使っている手書きメモタブレットのreMarkableを使って描き、スクリーンショットを写真アプリで編集したりしました。描画アプリにはないような味が出たかと思います。


巻末の独り言 - 晴海三太郎

● 2月です。こちら関東地方には今週、久しぶりの雪が降りました。今月も、WSマガジンをお届けします。● 少し休んでいて、戻ってこられた人。毎月、書き続けている人。いま、ちょっと書けなくて、休まれるのかな? という人。たまに、送ってこられる方。などなど、各々のペースが感じられてきました。● このWSマガジンの参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月!


道草の家のWSマガジン vol.15(2024年2月号)
2024年2月10日発行

表紙画と挿絵 - 矢口文

ことば - 犬飼愛生/カミジョーマルコ/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/なつめ/のりまき放送/maripeace/晴海三太郎

工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - 長期休暇中
読書 - 遅読推進会議
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎々 - 卵が空っぽになると、どうなる?
音楽 - ハミング愛好会
出前 - カレーかラーメンか寿司
配達 - 一輪車便
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会

企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎

提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房

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