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葬儀に列席した

訃報をうかがい、身内の葬儀に列席した。故人の年齢が高く、参加者の年齢も高かった。例えば、未成年の子連れの人はいなかったことからもそれは察せられる。

このnoteでは何度も「待つ」ことについて書き並べている。なぜならば、それは思想家のローゼンツヴァイクという人が「待つことでわかる真理がある」(大意)と述べているのを聞いて、自分の人格には欠落している割には社会的に重要そう(処世術としても現象としても)だから、少し研究してみようと思ったからである。

実際に葬儀に列席してみると、喪主は多忙だが、ほとんどの時間は参加者全員で「待つ」ことになる。その待ち時間の中には静粛にすべきときもあるし、好き勝手にしゃべっていい時間もある。他の冠婚葬祭でも、例えば、学校の行事・式典でもそういうときは少なくないだろう。それはなぜかというと、集団で動かなければならないからでもある。

私は「待つ」ことに何か重要なものが潜伏していて、それを言語化してみたいと思うが、「待つ」ことは実際問題としてイライラする人もいるし、非効率で、ムダに感じることも否定はできない。実際、私は葬儀の進行が最新式の葬儀場で実にスムーズに執り行われていると感じると同時にYouTubeのように2倍速で再生できないかと思うぐらいじれったくなり、また退屈した。

なぜ退屈したのか? それは私の知能の中枢が電気信号で作動し、「次はなんだ?次はなんだ?」と普段から先走って考えているからである。詳しく推測すると、脳は電気信号で考えるから、言わば光の速さで信号が駆け抜けている。一方、脳以外の全身の神経や臓器や筋肉にまで或る事実(例えば肉親が死んだとか、卒業してこれまでの生活がガラッと変わるなど)をつかませるには、時間をかけた記憶の想起や化学反応や物理的な運動も必要になってくるだろう。だから、脳は先走って効率的に考えることができるのだが、冠婚葬祭では知能の先走りよりも身体全体に何かをわからせることが重要なのだ。言い換えれば、効率や勝利は冠婚葬祭では重要でなものではないのである。

また、退屈の理由は、私よりも高齢の人や身体的ハンデを抱えた方がいたからというのもあるだろう。冠婚葬祭には多様な年齢の方やハンデを抱えた人も出席する。高齢の方やハンデを抱えた方もきちんと参加できるように配慮すべきものだし、またそういうものだという共通了解もある。なぜならば、当然ながら冠婚葬祭はスポーツ大会、競技ではないからである。

したがって、「待つ」ことでどんな真理が得られるのか? という質問について、とりあえず私の小さな体験から答えるとすれば、(1)自分自身の身体で了解する真理と(2)他者の身体に思いを致す真理だということになる。

これらの体験的な真理についてもっと言葉を割きたいと思うが、今回はいったんここで記事を置いておくことにする。

(1,181字、2024.05.08)

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