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ノイズをシグナルに変える turning noises into signals

我々が知らない外国語は我々にとっては意味をなさない雑音 noise である。なぜならば、それは我々がその意味 meaning をそこから読み取ることができないからである。すなわち、意味を読み取れないということがそれが我々にとって単なる音の連なりに過ぎないということなのである。また、雑音には価値 value も感じられない。なぜならば、雑音が雑音としてしか事実きこえず、それを直観的に〝粗雑〟な音だ、意図も無ければ何かの手がかりにもならない音だ(つまり情報的価値がない)と感じてしまうことはその音には値打ちが無いことも含まれるからである。

しかし、我々にとって価値のあるサイン、すなわちシグナルは隠されていることがある。例えば我々は既に知っているシグナル(例えば日本語)によって、「これこれのことを学べば、このノイズは実は重要なシグナルに変換できるのだ」と誰かから伝えられることがあるし、あるいは、実際目の前で自分とシグナルを共有している誰か(例えば同じ日本語ネイティブ)がノイズ(例えば英語)を操って外国人と会話し、何らかの成果を得ていることを目の当たりにすれば、我々にとってそのノイズは単なるノイズから、言わば暗号か宝箱のようなものへと変化する。なぜならば、暗号は解読できれば価値ある情報を提供するし、宝箱もそのカギを入手して開くことができれば財宝が手に入るという類(たぐい)のものだからである。

だが、それが実は価値のあるノイズなのだとわかったとしても、自分自身で読めない暗号、カギのない宝箱を抱え込んでいても仕方がない。もしそれらから価値を引き出したいならば、何かを学ぶ必要があるのだ。例えば、ジャズのような黒人音楽や女性の日常的所作、SFのガジェットは或る時期或る人々にとってはノイズであったりガラクタにみえたことだろう。なぜならば、その人々にとってはそれは耳目を引くものでもなく、それをどのように楽しむべきなのかもわからなかったからである。これは軽蔑するとか差別するとか以前にそもそも知らないというレベルであろう。

だから、その先の価値判断として軽蔑するのか尊重するのかはまた別として、それらの「ノイズ」について長時間かけてみつめること、視聴し続けることが求められる。なぜならば、確かにそうしたからといって必ずしもそれらの価値がわかるとは限らないのだが、少なくとも触れなければ理解できる可能性は生まれないからである。

例えば、シャンタル・アケルマンの映画「ジャンヌ・ディエルマン ブリュッセル1080、コメルス河畔通り23番地」(1975)では女性主人公の家事の様子が長回しで撮影されている。それは「退屈」なシーンである。退屈であるからして、それらは従来のエンターテイメントとしての映画では観客を退屈させ興行収入を減らす無価値なものとして完全にカットされるか、もしくは記号的に短く入れられるだけであった。しかし、女性が家事をすることをみつめる中で生じる些細な差異や反復をたとえ退屈さを感じても視聴し続けることによって、次第にそれが何を意味するのかをそれまでそれをノイズとしか感じていなかった我々の脳がディープラーニングし始めるのである。このことによって、女性の日常的所作が我々の中で再定義され、これまでとは異なった意味を持って読み替え可能となるのである。

言い換えれば、一般に語学とは既に習得した言語というシグナルからみればノイズをひたすら眺め、発声し、そのパターンを憶える退屈な作業を経由せざるを得ないかと思うが、そのような退屈さと同じことがここでは起こっている。退屈さに耐えながら目を見開き喉や手を動かさなければ、ノイズはシグナルに変わらない。例えば、英語はあなたにとってノイズかもしれない。フランス語もノイズかもしれない。中国語やタガログ語もそうかもしれない。ギリシア語やロシア文学もそうかもしれないし、法令の条文やロケットサイエンスや異性の不可解な態度もそうかもしれない。将棋や囲碁の指し手、障害者の話し方もそうかもしれない。仏像の手のかたちや、財務諸表に並んだ数字や株価のグラフもそうかもしれない。高等数学もそうかもしれない。それらは皆、あなたがたとえ意図的にみつめようとしても、眠気をもたらすだけかもしれない。もしそれらがマネタイズにつながるなら、あなたはもう少し興味を持つかもしれないが、それでもなぜこんなものが収益につながるのかは相変わらずわからないままだろう。

しかし、もし一定の退屈さを乗り越えて学ぶことができれば、あなたが認識するノイズの一部は除去され、それらがあったところにはシグナルが配置される。つまり、暗号は解読可能になり、宝箱のカギをみつけられたということだ。あなたはそれによって少々のおカネを稼げるようになったかもしれない。だがそれよりもっと重要なことはあなたの世界が文字通りそれで拡張されたということである。言い換えれば、あなたは新たな世界の扉を開き、新たな感受性を獲得したということでもある。それは幸運なことでもあるし、おカネで確実に買える種類のことでもない。貴重な言語能力の獲得であり、新しい体験の始まりである。

仮にそのような成功体験を何度かすれば、あなたは退屈という得体のしれない霧の向こうにも、ノイズの向こう側にも、これまで軽蔑していた人たちの会話方法の向こう側にも、実は何かしらのみえない世界が広がっているのではないか━━このように想像の翼を広げることができるようになっているだろう。そして、同時に、「ノイズ」と思われるような言葉を投げつけられても「売り言葉に買い言葉」することなく、それがなぜ自分にとって「ノイズ」に聞こえてしまうのかという自問自答をする余裕を身につけることができるだろう。新しい世界の扉はゆっくりと開くが、それを待つだけの忍耐力があなたにはすでに備わっているのだ。

(2,414字、2024.04.18)

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