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【つの版】度量衡比較・貨幣68

 ドーモ、三宅つのです。度量衡比較の続きです。

 1542-43年頃、ポルトガル人によって火縄銃が日本の種子島にもたらされると、たちまち畿内に伝わって量産化が開始されます。これに続いて、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えることになります。

◆Francisco◆

◆Xavier◆

呂宋到達

 1542年5月、ポルトガルの首都リスボンからインドのゴアに到来したザビエルは、ここを拠点として各地で布教伝道を行いました。1545年9月にはマラッカに、1546年1月にはその東のモルッカ諸島(香料諸島)にまで赴きます。しかし東南アジア島嶼部各地ではイスラム教徒による反ポルトガル運動が起き、キリスト教徒は侵略者として迫害されるようになります。

 こうした頃、ザビエルはモルッカ諸島で一人のスペイン人と出会います。彼はコスメ・デ・トーレスといい、1510年にバレンシア地方で生まれ、司祭に叙階されてメキシコに派遣された人物です。ポルトガルのシマである香料諸島になぜ彼がいるかというと、メキシコから太平洋を渡って来たのです。

 1542年、スペインのヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)副王であるメンドーサは、探検家ビリャロボスを太平洋の彼方に派遣し、東インド諸島(インド亜大陸の東方にある島々)の調査を行うよう命じました。モルッカ諸島はポルトガルのシマですが、その北方のマゼランが到達した島々にはまだポルトガルの手が伸びておらず、1529年に定めたサラゴサ条約には背くとしてもたぶん大丈夫だろうという目論見でした。

 メキシコ西海岸から出航したビリャロボスらは、太平洋を横断していくつかの島々を通過し、1543年にセブ島の北のルソン島南岸に到達しました。さらにその南のサマール島、レイテ島を探索し、スペインの皇太子フェリペ(カルロスの子)にちなんで「ラス・イスラス・フェリピナス(フェリペの島々)」と名付けました。すなわち現在のフィリピン諸島です。

 しかし「フィリピン諸島」にはキリスト教徒への敵意に満ちた先住民が大勢住んでおり、ビリャロボスは征服も叶わず追い出され、南のミンダナオ島を経てモルッカ諸島へ向かいますが、当然ポルトガル人の攻撃を受けます。ビリャロボスは捕虜となり、1544年にアンボン島の獄中で死にますが、生き残りの一人がトーレスでした。そして1546年、彼はこの地でザビエルと出会ったのです。ザビエルに心酔したトーレスはイエズス会に入りたいと願い、ともにマラッカを経てゴアに向かうことになりました。

遇弥次郎

 1547年、マラッカに着いたザビエルとトーレスは、ヤジロウ(弥次郎)という同世代の日本人と出会います。記録によれば、彼は薩摩ないし大隅の出身で、貿易に従事していた商人でした。若い頃に殺人を犯したと告白していますし、バハン(八幡、海賊)であるとの記録もありますから、いわゆる倭寇の仲間だったのでしょう。彼は1546年に薩摩半島南端の山川(現鹿児島県指宿市山川)にやって来たポルトガル船の船長ジョルジュ・アルヴァレスの船に同乗し、マラッカへ赴いたというのです。

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 薩摩や大隅は日本列島の南西端で、京都など中央政府から見れば辺境ですが、東シナ海や太平洋に面した海外交易の要衝です。北は五島・平戸・対馬・朝鮮に通じ、南は種子島・奄美・琉球に通じ、西に海を渡れば寧波に達し、東に向かえば南海道を経て畿内・関東へも通じます。マラッカに達したポルトガル人が最初に接触した「日本人」は、この薩摩や大隅を拠点として活動する倭寇たちでした。

 アルヴァレスの紹介でヤジロウと出会ったザビエルたちは大いに喜び、日本についての情報を詳しく訊き出します。それによれば、日本はヒンドゥー教徒めいた偶像崇拝者の国ではあっても、少なくともイスラム教徒ではないようです。キリスト教(カトリック)を伝道して改宗させれば、ポルトガルやスペインの友好国とすることができますし、日本を足がかりにして東インド諸島やチャイナをも服属……とまではいかずとも、友好・交易関係を結ぶことができるかも知れません。これは大きなビジネスチャンスです。

 ヤジロウは「あなたはアンジェロ(天使)だ」と歓迎され、ザビエルらとともにゴアへ赴いて、1548年にキリスト教の洗礼を受けます。パウロ・デ・サンタフェ(聖なる信仰のパウロ)の洗礼名を授かったヤジロウは、ゴアでポルトガル語やキリスト教の神学を学び、通訳・宣教師として鍛えられました。またトーレスも正式にイエズス会士となり、日本伝道を目論みます。

日本上陸

 1549年(天文18年)4月、ザビエルはトーレス、ヤジロウらを率いてゴアを出発し、日本を目指しました。同乗者にはコルドバ出身の修道士フアン・フェルナンデス、ヤジロウとともに洗礼を受けた二人の日本人、インド人やチャイニーズのキリスト教徒もおり、国際色豊かでした。一行は明国の上川島(現広東省江門市台山)を経て、薩摩半島の国際貿易港・坊津ぼうのつに入港、上陸します。

 坊津はリアス式海岸の入江をもつ天然の良港で、古来遣唐使船(南島路)の寄港地として栄え、755年には鑑真が渡来しています。886年には当地の寺が紀州の真言宗根来寺別院となって一乗院の称号を受けました。また関白近衛家の荘園となり、宋など異国の貿易船に対して入関税が課せられ、大いに富をもたらしています。室町時代には倭寇や遣明船(日明貿易)の拠点ともなり、筑前の博多津、伊勢の安濃津とともに「日本三津」のひとつに数えられました。徐福が渡来したとの伝説もあり、紀州の熊野権現が徐福だというのはそうしたつながりでしょう。

 ザビエル一行は領主・島津氏の許可を得て坊津から鹿児島湾に入り、1549年(天文18年)陽暦8月15日、稲荷川の河口部(現鹿児島市祇園之洲町)に上陸しました。この日はカトリックの聖日「聖母被昇天の日」にあたり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げたといいます。

 時の島津氏当主は貴久といい、1514年生まれの35歳でザビエルより8歳年下にあたり、島津中興の祖・日新斎忠良の嫡男でした。島津氏は鎌倉時代より薩摩・大隅・日向三国の守護をつとめてきましたが、南北朝時代から室町時代前期には内紛が続き、分家同士が相争う状態に陥っていました。忠良は分家の伊作家出身でしたが、島津宗家に貴久を養嗣子として送り込み、自分は出家して後見人となり、島津領再統一を目指して激しく戦っていました。ザビエルたちが来る頃にはようやく薩摩南部を平定したばかりです。

 1549年5月、ザビエルたちが到来する直前には、貴久の家臣・伊集院忠朗が大隅国加治木城を攻め、日本で初めて火縄銃(鉄炮)を実戦に投入したといいます(1554年の岩剣城攻めの時とも)。また鉄炮は堺を介して畿内に届けられており、幕府管領・細川晴元は近江国国友村で鉄炮を作成させ、1550年(天文19年)には三好長慶との戦闘で実戦に投入しています。これより国友村は根来・堺と並ぶ鉄炮鍛冶の中心地となりましたが、長慶は細川政権を下剋上で打倒し、自ら管領となって三好政権を築きました。島津氏がザビエルらを歓迎したのは、彼らを介して鉄炮や大砲などを導入し、戦争を有利に進めるためであったことは大いに考えられます。

 1549年9月、ザビエル一行は薩摩半島内陸の伊集院城(一宇治城、現日置市伊集院町)で島津貴久に謁見し、宣教の許可を得ました。彼らは島津宗家の菩提寺である福昌寺(曹洞宗)を宿舎とし、ザビエルは住職の忍室と宗教論争を行って友人になったりしています。薩摩で最初に洗礼を受けたのはベルナルドという洗礼名の人物で、のちヨーロッパに渡っています。しかし貴久は仏僧の助言を聞き入れて禁教に傾き(彼の父・日新斎はまだ存命で実権を握っていました)、ザビエルらは1550年(天文19年)8月に薩摩を去って肥前国平戸へ向かいます。

 平戸は九州本島と五島・壱岐を結ぶ交通の要衝で、複雑な入江をねじろとして古来「松浦党」と呼ばれる海賊武士団が蟠踞しており、倭寇の本拠地のひとつでした。チャイナ系倭寇の親玉の王直も松浦氏に招かれて五島・平戸に渡り、密貿易に従事していたほどです。当時平戸を治めていたのは松浦隆信といい、山口と博多を支配する大内氏の当主・大内義隆には偏諱を受けた(名前の一字を授かる)仲でした。根来・堺・細川氏と結んで南海貿易を行っていた島津氏とは商売敵ですから、南蛮船が来るなら大歓迎です。

 平戸で宣教許可をもらったザビエルらは、平戸にトーレスを残して周防国山口へ赴き、大内義隆に謁見します。彼は1528年に逝去した元天下人・義興の息子で、盛んに北九州に出兵して少弐氏・渋川氏を滅ぼし、朝廷から大宰大弐(太宰府長官)に任官されていました。また出雲国の大名・尼子氏とも激しく争い、1542年には出雲に遠征して居城を包囲しましたが、大敗を喫して撤退しています。このため家臣団は動揺し、下剋上に動き出しています。

 こうした時に謁見したザビエルは「ろくな進物も持たず、汚れた旅装のままで来るとは何事か」と叱責されます。これに対しザビエルはキリスト教のあらましを伝えて仏教の僧侶の堕落ぶりを指摘し(キリスト教徒もだいぶ堕落していますが)、特に男色(稚児)の風習を非難したため、男色家だった義隆の怒りを買ってしまいました。やむなくザビエルは同年12月に周防を立ち去り、「日本国王」が住むという首都・京都を目指すことにします。

◆Santa Maria◆

◆strela do dia◆

【続く】

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