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【つの版】ウマと人類史03・蛮人襲来

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 紀元前9世紀頃、シベリア南東部のミヌシンスク盆地に最初の騎馬遊牧民「スクダ」が出現しました。彼らは内陸ユーラシア各地へ拡散し、ソグド人やマッサゲタイ、スキタイなどと呼ばれました。さらにイラン高原には同じアーリヤ系のペルシア人やメディア人が現れます。彼らは騎射の技術を持つ騎兵であり、平地でしか運用できないチャリオットより山岳地帯で活躍できたため、アッシリアなど文明国でも騎兵の導入が始まりました。やがて騎馬遊牧民は南の文明国に侵攻し、帝国を建設することになるのです。

◆Conan◆

◆the Barbarian◆


南北対立

 騎馬遊牧民の拡散はユーラシア北部全体で起きており、東アジアにも大きな影響を与えていますが、今回は西アジア方面を見てみましょう。当時の西アジア(オリエント)世界において最強の軍事大国であったアッシリアの記録には、しばしば騎馬遊牧民との戦闘があったことが記されています。

 アッシリアが勢力を広げていた頃、これに対抗してアルメニア高原の諸部族は連合し、紀元前9世紀中頃にウラルトゥと呼ばれる王国を築きました。これは他称で、彼ら自身はビアインリ(ヴァン王国)とかハルディア(ハルディ神の国)と称していたようですが、ここではウラルトゥと呼びます。聖書でノアの方舟がとどまったというアララト山とはウラルトゥのことです。紀元前824年にアッシリア王シャルマネセル3世が崩御した後、アッシリアは王位継承争いや地方総督の半自立化などで弱まり、ウラルトゥはアッシリアに対する北の帝国として勢力を広げました。

 この王国はミタンニの支配層であったフルリ人を中核とし、クルド人の先祖など多様な部族集団から成っていましたが、アッシリアを脅かすため諸国と同盟を結び、東のウルミエ湖畔付近にいたマンナエという半農半牧の部族連合を支援しました。先進国の援助を受けてマンナエは急速に発展します。またペルシアやメディアなどイラン高原のアーリヤ人諸部族も、ウラルトゥやアッシリアに着いたり離れたりし、勢力を蓄えました。

 紀元前745年、アッシリア王ティグラト・ピレセル3世が即位します。反乱を起こして武力で王位を簒奪したとも推測されますが、彼は即位するや国政改革を断行し、衰退していたアッシリアを再び立て直しました。政治を壟断していた宦官の権力を制限し、属州を細分化して地方総督の勢力を削ぎ、常備軍を編成して軍備を整え、宿敵ウラルトゥへ繰り返し遠征します。さらにシリアやパレスチナ(イスラエル)、バビロニアへも遠征して外敵を叩き、アッシリアの覇権を回復したのです。続くシャルマネセル5世、サルゴン2世も彼の路線を引き継ぎ、ウラルトゥやマンナエを激しく叩きました。

 紀元前715年頃、ウラルトゥへ「ギミッル(Gimirru)」と呼ばれる集団が北方から襲来しました。ウラルトゥ王ルサは討伐に出陣しますが大敗を喫し、総司令官は捕虜になり、王は戦場から逃走します。これを聞いたサルゴン2世はウラルトゥへ遠征し、大勝利を収め、ルサは絶望のあまり自決したといいます。その後もウラルトゥは100年あまり存続しますが、ギミッルに圧迫されてアッシリアの属国となります。このギミッルとは、ギリシア語の史料でキンメリオイ(Kimmerioi,キンメリア人)と呼ばれる人々でした。

蛮人襲来

 ホメロスの英雄叙事詩『オデュッセイア』などによれば、キンメリア人はオケアノス(大海)の北の果てに住む部族です。またミレトスのヘカタイオス、ハリカルナッソスのヘロドトスなどによれば、彼らは黒海の北方に住んでいた民族で、東方から襲来したスキタイによって住処を追われ、カフカース山脈を越えて南へ移住したといいます。アッシリアの記録と突き合わせれば、キンメリア人の移動は紀元前8世紀末頃のこととなります。黒海北岸にはギリシア人(イオニア人)がこの頃に入植地を築いていました。

 ヘロドトスによると、キンメリア人の王族(貴族)は武装して侵略者と戦おうとしましたが、大多数の民衆は撤退を望みました。王族は逃げるのを拒んだ末に仲間同士で戦って全滅し、残りはタウリケ(クリミア半島)東方のキンメリア海峡(ケルチ海峡)を渡って黒海沿いに南下し、一部はアナトリア半島北部のシノペ(スィノプ)に到達したといいます。おそらくジョージアで二手に別れ、南へ向かった者はウラルトゥを脅かし、西へ向かった者はアナトリア半島に達したのでしょう。ストラボンによると、この頃アナトリアに向かったのはキンメリア人のトレレス族で、フリュギア王ミダス(アッシリアの記録ではムシュキの王ミタ)を自決に追い込んだといいます。触れたものを黄金に変える話や、ロバの耳が生えた話で有名な彼です。

 考古学的には、キンメリア人と思われる集団がウクライナに現れるのは紀元前850年頃からで、確かに前700年頃からスキタイ系の文化に取って代わられています。彼らも初期の騎馬遊牧民ではあったようですが、スキタイの武力には敵わなかったのでしょう。しかし南方の諸国にとって恐るべき侵略者であることには変わりありません。そしてキンメリア人に続き、やがてスキタイも南方へ攻め込んで来るのです。

 前705年にサルゴン2世が崩御した後、跡を継いだセンナケリブは北方の防御を属国化したウラルトゥに委ね、バビロニアやシリア、パレスチナの反乱を鎮圧するために飛び回りました。前681年にセンナケリブは王子らに暗殺され、犯人がウラルトゥへ逃げ込みます。王子のひとりエサルハドンが王位を継ぎますが、この混乱に乗じてウラルトゥは勢力を回復し、マンナエ、メディア、キンメリアなどと結んで反アッシリアの兵を挙げました。

 前679年、エサルハドンは6年に及ぶ北伐を開始します。キリキア地方でキンメリア王テウシュパを破り、メディアの市長カシュタリトゥ(フラオルテス)を服属させ、マンナエと戦い、ウラルトゥ本国へ圧力をかけます。この時、アシュグザーヤ(スキタイ)の王イシュパカがアッシリアに味方し、マンナエの族長グテイを討ち取ったといいます。スキタイはキンメリア人を駆逐して北カフカースや黒海北岸を制圧したのち、ついにカフカースを越えてイラン高原北西部に侵入したのです。

 イシュパカ(Ishpaka)はギリシア語形にするとアスパコス(Aspakos)で、イラン諸語aspa(ウマ)に関係する名前でしょうか。彼は紀元前675年頃、アッシリアとも戦いますが戦死しています。しかし同じ頃、エサルハドンはスキタイを味方につけるため、その王バルタトゥア(Bartatua)に自らの王女を娶らせています。イシュパカとは別系の王でしょう。ギリシア語形はプロトテュエス(Protothyes)で、ヘロドトスによればメディアの王フラオルテスを倒し、28年間メディアを支配したといいます。スキタイの支配は横暴で、住民に人頭税を課したうえ、各地を巡回して貢物を掠奪したとヘロドトスは書いていますが、支配されたメディア人やペルシア人の伝承でしょうから多少差っ引いて考えたがよさそうです。

 こうしてメディア地方がスキタイの支配下に入ると、アッシリアはこれを同盟国とし、彼らを傭兵として軍事技術を学び、遠征に用いました。前670年にはついにエジプトを征服しています。キンメリア人はウラルトゥやスキタイ、アッシリアに圧迫されて西へ動き、フリュギアやリュディア、キリキアなど小アジア各地に住み着きました。特にカッパドキア地方はペルシア語で「美しいウマの地(kapatuk)」を意味するとされ、キンメリア人が定着したことから後世のアルメニア人はGamir-k'と呼んでいます。土着勢力は侵入に抵抗し、アッシリアに助けを求めました。

 前669年、エサルハドンが崩御し、その子アッシュルバニパルが即位すると、前666年にルッディ王グッグ(リュディア王ギュゲス)が救援を要請して来ました。アッシリアは援軍を派遣し、キンメリア人を撃退しています。しかし前652年、アッシュルバニパルの兄シャマシュ・シュム・ウキンがバビロニアで反乱を起こすと、ギュゲスはアッシリアへの貢納を打ち切り、エジプトで自立したプサムテク1世らと同盟を結びました。

 アッシリアは、キンメリア人の王ドゥグダンメ(Dugdamme/Lygdamis)および彼の子サンダクシャトル(Sandaksatru)と手を組み、北方の反乱者を攻撃させました。キンメリア軍はウラルトゥ、フリュギア、リュディアを次々と撃破し、リュディアの首都サルディスを陥落させてギュゲスを殺し、西はエーゲ海に面したエフェソスまで到達しました。ギュゲスの子アルデュスはアッシリアとキンメリア人に服属して王位を継承しています。

 勝ち誇ったドゥグダンメは、前644年に自らもアッシリアに背き、バビロニアと手を組みます。彼は「サカ(スキタイ)とグティ(クルド)の王」と呼ばれ、自ら「キシュ(メソポタミア、天下)の王」と称したといいます。アッシリアはメディアを治めていたスキタイの王マデュエス(Madyes、メディア人の意)と結んでキンメリア人を攻めました。前675年から30年ほど経過していますから、マデュエスはプロトテュエスとエサルハドンの王女の子で、アッシュルバニパルの甥にあたるのでしょう。

 前640年にドゥグダンメはキリキアで死に、子のサンダクシャトルが跡を継ぎました。ストラボンはマデュエスが「トレレスの長コボス」を倒したと記しています。その後キンメリア人はアッシリアに再び服属し、カッパドキアを終の棲家として対外戦争をやめました。

 キンメリアの語源は不詳で、彼らがどんな言語を用いたのかも定かでありません。人名からすると支配層はアーリヤ系とも思われますが、カフカースの諸部族やトラキア人など多くの部族の混成だったのでしょう。ユトランド半島付近にいたゲルマン系のキンブリ族(Kimbrioi)や、ウェールズ人の自称カムリ(Cymry,同胞の意)と結びつける説もありますが、定かではありません。あるいは「沿岸/辺境(kimme)の民」ほどの意味でしょうか。故地のクリミア半島(タウリケ)に残った者たちはタウロイと呼ばれ、のちにスキタイと融合してタウロスキタイと呼ばれました。

 旧約聖書『創世記』ではゴメル(Gomer)と記され、ノアの第三子ヤペテの子らのひとりとされます。彼はマゴグ、ティラス、ヤワン(イオニア=ギリシア人)、メセク(カッパドキア)、トゥバル、マダイ(メディア)の兄弟にあたり、アシュケナズ(スキタイ)、リパテ、トガルマを儲けたといいます。このためヨーロッパ人は「ケルト人やゲルマン人はゴメルの子孫でキンメリア人だ」との神話を近代まで持っており、『キンメリアのコナン』といった幻想文学もこの種の神話に属しています。

帝国滅亡

 紀元前631年頃、大王アッシュルバニパルが崩御すると、アッシリア帝国は急速に崩壊し始めました。王位継承争いの混乱の中、バビロニアやメディア、エジプトで反乱が起きます。メディアを支配していたマデュエスらは、キュアクサレス2世の策略によって酒宴に招かれたところを暗殺され、スキタイの支配は終わりを告げました。前625年頃まで28年間とすると統治開始は前653年頃からですが、前675年頃から28年間支配したのはプロトテュエスで、マデュエスは前647年頃から王位にあったのでしょうか。二世代半世紀に及んだスキタイの支配下にあって、メディア人はスキタイの戦法や統治方法を学び、アッシリアの次を狙う国として勃興します。

 ヘロドトスらによると、この頃スキタイの一派が混乱に乗じてシリアやパレスチナへ侵入し、エジプトに迫りました。プサムテク1世は黄金を贈って彼らを買収し、エジプトへの侵入を防ぎましたが、スキタイはペリシテ人の街アシュケロンなどを攻撃しました。この時アフロディテ・ウラニア(天の女神アスタルテ)の神殿を荒らした者たちは、神罰を受けて子々孫々まで「女になる病(インポテンツ)」に罹り、エナレスという聖職者階級を形成したといいます。本当かどうか定かではありません。去勢技術は牧畜民なら心得ていますから、宦官のたぐいでしょうか。

 スキタイの残党はアッシリア側につき、メディアやバビロニアと戦いました。これに対してキュアクサレスはバビロニア王ナボポラッサルと同盟し、娘を彼の息子ネブカドネザル2世に嫁がせました。前612年にはアッシリアの首都ニネヴェが陥落し、前609年には残党が立てこもるハッラーンも陥落、アッシリアは完全に滅亡したのです。

 キュアクサレスはアッシリア本土やシリア・パレスチナの攻略をバビロニアに任せ、自らはウラルトゥへの遠征を行います。前590年にウラルトゥを滅ぼすと、前585年にはアナトリア半島へ侵攻、スキタイの亡命者を匿ったとしてリュディア王アリュアッテスとハリュス川(クズルウルマク川)を挟んで対峙します。このとき日食が起きて停戦となり、両国はハリュス川を国境と定め、婚姻関係を結んで同盟することを約束したといいます。

 ヘロドトスによると、このスキタイらはカフカース以北の本国で反乱を起こした者たちで、メディア王国へ亡命していました。キュアクサレスは彼らを歓迎して面倒を見てやり、王子たちを預けて言葉や弓術を学ばせました。スキタイらも狩猟で獲た獣の肉などを献上したので王は喜びましたが、ある時獲物が獲れなかったというので彼らを侮辱します。怒ったスキタイらは、王子の一人を殺して料理し、獲物でござると偽って王に食べさせたあと、リュディアへ亡命したというのです。本当かどうか定かではありません。ウラルトゥについたスキタイの残党がリュディアへ逃げ込んだのでしょうか。

 こうしてアッシリアが滅び、メディア人がイラン高原とアルメニア高原を支配するようになると、残ったスキタイはメディアなどの諸王国に傭兵として仕えるか、カフカースの北へ戻るしかなくなります。キンメリア人を駆逐して獲得したこれらの領土は肥沃であり、騎馬遊牧民が活動するには非常に適していました。スキタイはキンメリア改めスキティアの地に強力な部族連合を形成し、南方の諸王国と対峙することになるのです。

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【続く】

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