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【つの版】ウマと人類史17・匈奴分裂

 ドーモ、三宅つのです。前回の続きです。

 前87年、恐るべき絶対君主であった漢の武帝は、半世紀を超える治世の末に崩御しました。彼は漢の領土を大きく広げたものの、繰り返された大遠征で国内外は大きなダメージを受けていました。匈奴でも単于が代替わりし、両国の間には和解ムードが漂い始めます。

『史記』を書き記した司馬遷はこの頃に逝去しており、史記の記述も武帝の晩年までで終わっています。ここからは後漢前期に編纂された『漢書』匈奴伝などを参照し、その後の匈奴について見ていきましょう。

◆Falling◆

◆Apart◆

匈奴大弱

 前85年、新たに即位した壺衍鞮単于は、彼を擁立した母親や在匈漢人の衛律らの意見を聞き入れ、漢との和親を進めることにします。しかし単于位継承争いで負けた異母兄弟の左賢王と叔父の右谷蠡王はしばしば逆らい、国内は分裂し始めました。衛律は19年間匈奴に勾留されていた蘇武ら漢の使者を帰還させて和親を図りますが、前81年頃に逝去します。彼の支持者で単于の同母弟の左谷蠡王も翌年逝去し、匈奴は連年漢へ侵攻するようになります。単于も和親を諦め、代から酒泉にかけての辺境は戦乱の巷と化しました。

 前79年、東胡の残党の烏桓が匈奴に背いて侵攻し、歴代単于の墓を暴きました。怒った匈奴は烏桓を攻撃しますが、漢の実権を握る大将軍の霍光はこの情報を得ると、范明友を度遼将軍に任命し、3万の騎兵を率いさせ遼東郡から出陣させました。しかし匈奴はもう撤退した後で、烏桓は戦に敗れて疲れ切っていたので、范明友は烏桓を攻撃して散々に撃破し、3人の王の首をとって凱旋します。漁夫の利というやつですが、これで漢の勢力は烏桓にまで及び、匈奴は恐れて東へ向かえなくなります。

 そこで西へ目を向け烏孫へ侵攻したので、烏孫は漢へ救援を要請します。この頃漢では昭帝が崩御し(前74年)、宣帝が即位していましたが、霍光が実権を握る体制は変わりません。前72年、漢は烏孫とともに大軍を派遣して匈奴を攻撃し、匈奴は恐れをなして北方へ逃走します。さらに冬になると大雪が襲い、烏孫、烏桓、北方の丁令(テュルク)がこれに乗じて攻撃したので、匈奴は大いに弱体化してしまいます。前68年、壺衍鞮単于は失意のうちに世を去り、弟の左賢王が即位して虚閭権渠単于となりました。

 同年、漢では霍光が逝去します。宣帝は専横を極めた彼の一族を皆殺しにして実権を取り返すと、国制改革に取り組んで漢を建て直しました。一方、匈奴は周辺諸国の離反や自然災害でボロボロになっており、漢へ侵攻することも困難な有様でした。追い詰められた匈奴は漢と和親を求めますが、反単于派はかえって漢に降伏し、ますます匈奴は弱まっていきます。漢側の記録なので誇張はあるかも知れませんが、スキティアのように豊かな農地や交易ルートが確保できないと、騎馬遊牧民の部族連合はこうなってしまいます。

 前60年、虚閭権渠単于は病死し、単于位を巡って争いが起きます。右賢王の屠耆堂は烏維単于の耳孫(玄孫の子)という遠縁の王族でしたが、単于の前妻と私通して根回しを行い、前単于の子らを差し置いて擁立されました。これが握衍朐鞮単于です。彼は反対派を粛清して自分の派閥に入れ替え、前単于の子の稽侯珊は西域の小国・烏禅幕へ亡命し、先賢撣ら反単于派の一部は漢へ亡命します。前58年、烏桓は混乱する匈奴の東方領土を攻撃し、多くの人民を略取しました。怒った単于は東方へ進軍しますが、途中で反乱に遭って敗走し、追い詰められた末に自決しました。

東西分裂

 反乱軍は稽侯珊を招いて単于に擁立し、呼韓邪単于と称します。しかし匈奴の他の部族らは各々単于を擁立し、五人の単于が相争う異常事態となりました。呼韓邪単于は他の単于らを次々と撃破して統一を進めますが、西方には兄の呼屠吾斯が自立して郅支単于と名乗り、前54年までにはこの二大勢力が東西に割拠することとなります。同年兄に敗れて単于庭を奪われると、呼韓邪単于は漢に息子を送って救援を要請し、郅支単于も子を漢へ送り承認を求めます。そこで前51年、呼韓邪単于は自ら漢の宮廷を訪問し、宣帝に謁見しました。片割れとはいえ匈奴の単于が漢に入朝するのは史上初です。

 喜んだ宣帝は、単于を諸侯王より上に位置する者とし、臣と称しても名を言わなくても良いと定め、兵と食糧を提供して彼を支援しました。これにより呼韓邪単于の政権は勢力を盛り返し、前43年には単于庭へ帰還して西の郅支単于と対立します。郅支単于はこの頃西方へ勢力を広げて烏孫を攻撃し、烏掲・堅昆・丁令を併合して、北西の堅昆に単于庭を遷しています。

800px-匈奴帝国

 堅昆とはクルグズ(キルギス、クルク・ウズ=40の部族)の音写ですが、今のキルギス共和国ではなく南シベリアのエニセイ川上流域にいた人々で、現在のハカス共和国に住むハカス人の祖ともされます。すなわちモンゴル高原の北西、かつて「スクダ」がいたミヌシンスク盆地で、西はバイカル湖、南はアルタイ山脈、東はカザフスタンに通じています。丁令(テュルク)はバイカル湖周辺にいた部族、烏掲/呼掲(ウイグル)はカザフスタン北東部、烏孫の北にいた部族です。随分遠くまで移動したものですが、歴史上この匈奴を「西匈奴」とも呼び、呼韓邪単于のほうを「東匈奴」とも呼びます。

 郅支単于はまた烏孫と戦うため、西の康居(タシケント)から要請を受けて同盟しました。単于は康居へ向かって移動しますが、道中で大寒波に遭って多くの民衆が凍死し、辿り着いたのは3000人だけでした。康居の王は娘を単于に娶らせ、単于も娘を王に娶らせて同盟は成立し、烏孫に戦争を挑みます。単于は康居の軍勢を率いて大いに烏孫を打ち破り、首都の赤谷城付近まで侵入しますが、おごり高ぶって康居王と対立します。ついには康居の王女や貴人、人民数百人を殺戮し、死体を都頼水(タラス川)に棄て、そのほとりに都を築いて住まいました。現キルギス・カザフ国境の街タラス/タラズです。また単于は大宛など周辺諸国を服属させ、貢納させました。

 前36年秋、西域諸国の要請を受けた漢は、兵を派遣して郅支単于を攻撃します。この頃、漢軍は西域に拠点都市を築いて諸国を監視しており、武帝の頃のように長安から出兵する必要はありません。西域諸国の軍勢も合わさった漢軍は郅支単于を討ち取り、その一族を殺戮して西匈奴を滅ぼします。ここに匈奴は呼韓邪単于のもと再統一され、漢の従属国となったのです。

昭君行胡

 前33年、呼韓邪単于は再び漢に入朝し、元帝(在位:前48-前33)に謁見して感謝します。また単于は漢の婿になることを願い、公主を嫁がせることを求めましたが、元帝は宮中の女官であった王昭君を賜り、公主は与えませんでした。同年に元帝は崩御して年若い成帝劉驁が即位し、前31年に呼韓邪単于は在位28年で世を去ります。呼韓邪単于には五人の妻と二十人以上の子がおり、うち五人が次々と単于の位に着きました。王昭君はレビラト婚により、義理の子の雕陶莫皋(復株累若鞮単于)と再婚することになります。

 匈奴は漢に従属することになったものの、漢から絹などの物資が再び入るようになり、交易も再開されたので、経済的には活況を呈します。漢は単于を皇帝の娘婿として優遇し、「匈奴単于」の璽綬を授け、国境地帯を防衛して安泰ならしめるようにしました。漢も匈奴もWIN-WIN関係となり、ようやく平和が訪れたのです。烏孫や烏桓など周辺諸国が匈奴をナメて攻撃しても、両国が協力して撃退すればいいわけです。かくて数十年が過ぎました。

 この時代(紀元前後)の匈奴の遺跡のひとつが、ウランバートル北方のトゥブ県にあるノイン・ウラ(ノヨン・オール)古墳群です。古墳はほとんどが方墳で、絹織物などチャイナからの物品が多数副葬品とされています。一方で絨毯などのデザインは古来のスキタイ(サルマタイ)風であり、広くユーラシア内陸との交流があったことを推測させます。

降奴服于

 しかし、漢ではこの頃外戚の王氏(王昭君とは別)が実権を握り、皇帝を傀儡にして政治を牛耳っていました。その一人・王莽は儒教系オカルト思想にハマり、匈奴を「蛮夷」として見下します。西暦8年には帝位を禅譲されて皇帝となり、新都侯であったことから国号を「新」と改めました。彼は匈奴へ使者を派遣して漢新交替を告げ、漢の時代の璽綬を差し出して新の印綬を受けるよう命じました。呼韓邪単于の子・烏珠留若鞮単于は渋々交換しますが、新しい印綬には「匈奴単于」と刻まれており、漢代の璽よりランクダウンしていた上、新に服属することが明記されていたのです。

 西暦10年、怒った単于は西域からの亡命者を受け入れ、西域諸国へ侵入しては匈奴につくよう誘い込みます。これに対し、王莽は呼韓邪単于の他の子らを呼び集め、二人の単于を任命して烏珠留若鞮単于に歯向かわせました。呼韓邪単于以来続いた和平関係は決裂し、匈奴は連年新に侵攻して殺戮や掠奪を行います。また王莽の高圧的な対外政策は周辺諸国にもムカつかれ、諸国はこぞって匈奴に味方し、新に対抗しました。

 西暦12年、王莽は匈奴討伐のため高句驪/高句麗(濊貊系の部族連合、当時の中心地は現遼寧省本渓市)に援軍を要請しますが、高句麗侯の騶はこれを拒否した末、脅迫されて無理やり出兵したものの戦わずに逃亡しました。王莽は怒って騶を処刑し、高句麗を貶めて下句麗と呼んだといいます。

 西暦13年に烏珠留若鞮単于が逝去すると、王莽が建てた単于の一人である烏累若鞮単于(孝単于、咸)が親新派に擁立されて跡を継ぎます。しかし王莽は彼の子の登を処刑したため、単于は激怒して新を攻撃しました。王莽は使者を派遣して宥め、国号を「奴」、君主号を「于」と改めるよう命じて、新たに印綬を授けました。コトダマの力で匈奴の侵略を抑えようとしたのかも知れませんが、アホらしく思った単于は金品だけ受け取って命令を無視し、引き続き新を攻撃します。怒った王莽は「于」と呼ぶようにしましたが、特に効果はありませんでした。

 単于咸は西暦18年に世を去り、弟の輿が立って呼都而尸道皋若鞮単于となります。長いので単于輿とも言います。王莽はこれに対し匈奴貴族の須卜当を長安で単于に任命しますが、匈奴はますます怒って新を攻めます。またこの頃、新の東方では赤眉・緑林と呼ばれる反政府勢力が各地で武装蜂起し、西暦23年には漢の皇族である劉玄が天子・皇帝に擁立されます(更始帝)。王莽は軍を派遣して鎮圧にかかりますが大敗し、首都長安を攻め落とされて殺されました。ここに新は建国から15年で滅亡し、漢が復活したのです。

北漢廬芳

 更始帝は匈奴と友好関係を結ぶべく使者を派遣し、漢代と同じ璽綬を授けますが、単于は「漢が復興したのは俺のおかげではないか」と驕り高ぶります。西暦25年には更始帝が赤眉軍に敗れて殺され、東方では景帝の末裔の劉秀が帝位に擁立されます(後漢の光武帝)が、天下には群雄割拠して各々天子や王を名乗り、誰が天下を統一するか予断を許さぬ状況でした。

 この頃、涼州安定郡三水県(現・寧夏回族自治区呉忠市同心県)には更始帝の騎都尉であった盧芳という者がおり、武帝の曾孫の劉文伯を自称していました。彼は更始帝の死後に匈奴によって漢の皇帝に擁立され、東西に別の皇帝が立つことになります。また西暦27年には漁陽太守の彭寵が光武帝から自立して燕王を名乗り、匈奴と手を組んでいます。光武帝は騎兵を派遣してこれを撃破し、西暦29年に一族郎党皆殺しにします。

 この間、廬芳は匈奴の支援を受けて幷州(山西省からオルドス)の群雄に迎えられ、五原郡九原県(内モンゴル包頭市九原区)を根拠地とし、五原、朔方、雲中、定襄、雁門の五郡を占領して北方に割拠しました。本拠地は寧夏ですから、そこからバヤンノール・包頭・フフホト・朔州にまたがる領域です。なお三国志の猛将・呂布は五原郡九原県の出身で、張遼ともども漢の最前線で生まれ育っています。

 光武帝は匈奴へ使者を送り、漢と匈奴のかつての和親関係を復活させようと申し出ますが、単于は自らを冒頓単于になぞらえて傲慢無礼な態度を崩さず、盧芳を支援して北から漢を脅かします。匈奴の侵略は日増しに激しくなり、迎撃に出た漢軍も撃退され、首都洛陽の北、河東郡にまで匈奴が侵入しました。西暦40年、盧芳は漢に投降し、光武帝は彼を代王に封じます。しかし彼はまもなく反乱して匈奴に逃れ、十年余り後に死んだといいます。

南北分裂

 西暦46年、単于輿は在位28年で世を去りました。太子の烏達鞮侯が即位しますが同年逝去し、その弟の蒲奴が即位します。匈奴は連年漢に侵攻し、かつてのように漢を屈服させるべく脅しをかけますが、漢にとっては幸いにも再び匈奴は分裂します。烏珠留若鞮単于の子・は、西暦18年に右薁鞬日逐王に任じられ、南部国境地帯と烏桓を統治していましたが、単于になれなかったことを恨み、密かに漢に降ろうと企んでいました。

 時に匈奴では旱魃と蝗害が相次ぎ、草木が枯れて荒地が広がり、国民の3分の2が餓死するという大飢饉に見舞われます。蒲奴は漢へ和親を求め、救援物資を要請しますが、比は密かに漢へ使者を送り降伏を申し出ます。怒った単于は兵を派遣して比を攻撃したものの、比は先に多数の軍勢を集めており、単于の軍はやむなく引き返しました。西暦48年、比は匈奴南辺八部族の大人(族長)に推戴され、祖父にあやかり「呼韓邪単于」と称し、「漢の防壁となって北胡を防ぎたい」と申し出ます。これが醢落尸逐鞮単于です。

 光武帝はこれを歓迎し、ここに匈奴は南北に分裂しました。かつて呼韓邪単于が漢に服属して強国となったのを再現しようとしたわけです。南匈奴は北単于を撃ち破って人畜を奪い取り、仲間を呼び寄せて帰伏させ、雲中郡を経て西河郡美稷県(内モンゴルのオルドス市)に遷りました。北匈奴は漠北(外モンゴル)に逃走し、南匈奴や烏桓・鮮卑・丁令、漢軍にしばしば撃ち破られ、衰弱していきます。

 西暦56年に南単于が逝去し、翌年光武帝も崩御しますが、漢(後漢)と南匈奴の友好関係は継続しました。北匈奴は西暦70年代から90年代にかけて漢の大遠征を受け、2世紀中頃には西方へ遷り、もとの烏孫の地に入ります。ほかは南匈奴や烏桓・鮮卑に吸収され、かつての匈奴帝国の面影はなくなりました。ほぼ空白となったモンゴル高原には東方から鮮卑が進出し、やがて匈奴に匹敵する大帝国を築くことになるのです。

◆Black◆

◆Out◆

 しかし、匈奴が滅んだわけではありません。南匈奴はかつてより縮んだとはいえ侮れない勢力で、後漢とともに生きながらえ、魏晋の頃にも存続しています。やがて晋が内戦で崩壊すると、南匈奴は独立して漢を名乗り、「五胡」の筆頭として華北を蹂躙するのです。また西方へ去った匈奴の一部は、おそらく「フン」や「エフタル」と呼ばれる勢力となり、インド・イラン・ヨーロッパを揺るがすことになりました。

【続く】

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