妄言、妄言、化けよ、あるいはゲンドウでいっぱいの海―(雑文)


*もしかしたら「シン・エヴァンゲリオン」の碇ゲンドウへの指摘があり、要するにネタバレになってしまう可能性があるテクストです。よろ。

 身辺雑記にはなるのだが、シン・エヴァと追いコンを公開した週の火曜と水曜立て続けに立ち向かって私は思った以上に消耗してしまった。同じサークルとゼミに所属し、無事公務員にもなっちゃっうらしい同級生Sくんは午前中にシン・エヴァ午後にサークル追いコンに参加していて、しかも昼飯のマックを私に奢ってさえくれた。さすが公務員、羽織がいいのかと羨ましいのや妬いているのかわからなぬが、彼はいちにちにこのダブルパンチを受けて平気だったのだろうか。
 まあ他人と比べるのは良くない。彼のエヴァ体験は二年前に一緒に行った合宿免許。最後の一週間、暇で休憩室で黙々とTV版を見ていた。誰も周りに寄り付かなくなっていたのはその教習所の民度が多様だったことを表しているのか知らないが時々間違えてもアニメの話題で盛り上がっているのはダサいという雰囲気があったことは覚えている。普段そんなにバリバリにアニオタのような真似をしない彼がイヤフォンをつけて多くの人間が入り乱れる中ただただエヴァを消化していった姿がとても異様に思えた。

 一方で私のエヴァ・エクスペリエンスは血の盛る中学二年の頃で、新劇場版Qが公開する際、金ローか何かで序破を見て、当時のクラスメイトの怒るとめんどくさいインキャの友達たちにレクチャーを受け、自身を葛城と名乗るミリオタと画力が学年ずば抜けている友と三人で地元のシネマに行き、放心状態になった。それから旧劇を見てさらにショックを受けて、以後陰鬱な影を目に入るものに投影していく病にかかる。アポカリプスの中途に起きる主人公たちの抵抗、勝利、自分の願うかたちが結果として他人やそれまであったもの全てを打ち砕いて瓦礫の山にしてしまったという一連の流れが自分にはあまりにも濃く残ってしまった。中3のころの失恋、高校に入ってから二つの部活でいわば村八分になったのも、この影響があったといえばそれも逃げだが、振り返ってみれば似たようなことを、真似をしていたように見える。
 フィクションに入れ込むかたちは人それぞれだが、フィクションの出来事を模倣するということはガキのやることで、幼児がテレビアニメや特撮で見たシーンを手元の玩具で再現することから始まる。完全に筋書きをなぞるものから複数のコンテンツを混ぜた独自の編集(リミックス)が行われるようになる。私はきっとこのガキの真似事をずっと続けてきた。エヴァのときだって、文学に対してだって、デヴィッド・リンチとかの映画にだって。

 悪くいえばフィクションと現実の差異がわかっていない、お子ちゃまだった。22歳児である。いまだに他人と触れ合うとき、他人が自分のことをどう思っているかと言うことは考えるけれど、どちらかと言うと他人がこう自分のことを思っている、自分が他人のことを都合よく解釈して自分に沿わせると言うことを気づいたらしてしまっていることがある。これは浅い仲の人間にはあまりしないが、調子に乗っている時とか、相手のことが好きで好きでたまんない時とか、自分のことが見えていない時とかにしがちであるが、このごろそれに気づいてしまい、冷静なトーンで何考えているんだ私と自分の思考回路を抑圧させようと働きかける。他人の像を都合よく想像するまでならまだしも、それを他人に押し付け始めてしまうともう危険である。他人のことをよく考えているかといえば、全くもって考えていないといえる。相手がこちらにそのような妄想を膨らませるほどに想像の余地を与えてくれているのか、むしろ自分には他人を見る目がないのかもしれない。そうなれば自分は一体何をしているんだ?自分の都合の良いように現実を歪曲して、自分の妄想するフィクションに逃走しているんじゃないか。

 前節のようなことをバイトの休憩中に私の話を笑いながら聞いてくれる年上の社員さんにつらつらと話してしまったが____決まって口ぶりが太宰治の人間失格のような、自嘲しつつも笑い話にしていこうとする道化っぷりというか____その人には頼りたい時に人に頼ればいいと思いますけどねとあたたかい言葉を戴いた。いいのかね、そんなんで、さんざんぬるま湯に浸ってきた私が!と叫びたくなるがあまりにも他人という離乳食から卒業できないでいる。それは距離の問題であるが、前にも書いたかも知らない、私は他人との距離の詰め方がおかしい。虚妄の範疇と現実の範疇が明確でありながらもその境目をちゃいちゃ〜〜いと渡り合い、双方を混濁させる。幼少期から母親に聞かされ続けてきたB'zの楽曲にわたしを歌ったのか?と思わせるモノがあるのだが、出だしの「いらない!なにも!捨ててしまおう!」が断捨離にお勧めだとかで、わりとヒューチャーされる気がする、その曲「LOVE PHANTOM」の一説を引用したい。ラスサビの前最後の一節だ。

https://youtu.be/f88kR1EBWu0

「欲しい気持ちが成長しすぎて/愛することも忘れて/万能の君の幻を/僕の中に作ってた」
 欲しい気持ちは言い過ぎだが他人を欲求するという意味合いに噛み砕いていただければわかりやすい。ライブでは稲葉浩志がこの個所からラスサビを歌い終えると、衣装替えをステージで行い、ワイヤーでつるされ、ステージ上部の屋根を駆ける。松本孝弘のギターから発せられる光線に追い回される。長いギターソロの末、黄緑色の光線に貫かれた稲葉は飛び降りる……

 まー、他人に求めてばっかな状態が続いている気がするが、そんな求めた通りの他人が居たかと言ったら居たわけではないってもんで、ないものねだりばっかしてるようなもんなんだけど、てっきりあるかと思い込んであれこれして日々をやり過ごしている。この記事を書き散らしているうちにも、サークルにも顔を出したり、追いコンの次の週にあった学位授与式もイヤイヤ行ったりして、他人と触れ合う機会はあったにはあったが、例えばサークルではほとんど話したこともなかった子たちが卒業の門出を祝う会を開いてくれたり、あるいはもっと仲良くなってみたかった子が、素敵な袴姿できっちりとしてしまっていて、思わず写真一緒に撮って欲しいなあなんて思ったけどそこまでの仲ではないからひとことふたこと社交辞令のようなことを言うまでにとどめたりした。サークルの後輩で寂しがりやちゃんが一人いて、格好の餌に思えてしまったけど、こちらから誘惑しておきながら、まるで自戒するように「人はどうしようとも孤独なんだよ、死ぬ時は一人なんだよ」と冷たい一言を浴びせてみたりもした。授与式の素敵な晴れ姿だった彼女だって、もっと動けば在学中に進展があったわけで、卒業の場になってもその程度の距離感ならずっと何も進展も望めないだろうし、こっちが望む必要なんてきっとないかもしれない、顔見知り程度で、挨拶がわりにちょっとふざけたことを言って作り笑いするような表層的な面で済んでいるくらいがちょうどいい関係。自分は距離感をバグらせているから、ド近眼だから……
 そんなこんなで、エヴァによる卒業式、数少ない所属していた共同体であるサークルの卒業式、そして大学の卒業を済ませてしまった自分は空虚な心地を抱いたまま、秒読みの日々をすり減らしている。その最中に庵野秀明「式日」を見た。

https://youtu.be/32WdNraeZwE

舞台はあの宇部新川、映画監督の主人公(演者は「スワロウテイル」や「花とアリス」の岩井俊二)が故郷に帰り、仕事への不満からの羽休めのために過ごしていた。そんなところへ儀式を行なっているという若い女と出会う。不思議ちゃんとまあ見た人間は一番最初にそう感じるような雰囲気のこの女の子と過ごすようになるというのが雑なあらすじ説明だが、主人公は(エヴァの成功と不本意な需要のされ方など庵野秀明の私小説的側面)虚構から逃れるために現実を映す→実写映画を撮ってみたいと考える、しかし映像も現実を切り取った虚構であると考える、一方で若い女は「明日何の日か知ってる?」と確認作業を毎日するように、明日が来ないようにその前日を反復する→現実から虚構への逃避を行い続ける。ふたりのこのズレが指摘された場面は比較的中盤だったかと思うけど、だんだんとこれがうやむやになっていく。若い女の妄想は彼女の見えている世界であって、本当は存命の人間も彼女の前では死んでいる。

 このような虚構が現実を逃避するための手段になってしまったという考えを踏襲するなら、エヴァンゲリオンにはまった人間が、いわばオタクが制作側にフィクションの成り行きに文句を言ったり、改変や考察などの行動の置き換えかもしれない。エヴァにしても今回の式日にしても投影先が多重に考えられてしまう、その隙間があって、私みたいな庵野秀明作品は変化球で投げられる私小説だという見解も起きる余裕を作品が持ちうる。「欲しい気持ちが成長しすぎて/愛することも忘れて/万能の君の幻を/僕の中に作ってた」この詩にもあるように、ここに必ずしも「欲しい」という明確な、そしてあまりにも単純な要素があるのではなく、フィクションの受け手はただただ純粋にコンテンツを楽しむべきなのか。空想とは本来独りよがりの妄想である。個人が感じ取ったこと、日常、その人の目に映る風景、あるいは五感の情報によって作用する心の揺れ動きが空想に影響する。それを物象化し、コンテンツ化することがクリエイティブなのかどうかはさておいて、受け手である消費者にどこまで共有されるのか、そこに空想が作品と化す境目がある。この大きな亀裂の間を庵野作品はラクラクと跳躍し続ける。情報量、含ませた謎、意味深な伏線、実験的な手法、におわせである。受け手は延々と庵野秀明の掌で踊らされるのである。書き手は100パーセント受け手に伝えきらなくても良い。受け手も100パーセント読み取れないからである。こういうことを誤配なんて言うのだろうけど、フィクションに対してだけでなく、対人関係間でも平気で起こりうる。ほんとうに共同幻想なんてあるのかな? なんて思う。同じものを見ていたとして違うことをいうのはあるけど、実際他人が見たものと自分が見たもののずれが、対象物の輪郭をぼやけさせてしまう。そのずれに他人を引き込むことで帳尻を合わせるのか、他人のほうに合わせてやり過ごすのか、まあそういう風にも見えるよね、でも私にはこう見てたから、それもありだよねとどちらも否定しないでいくかで物事の受け取り方は全然変化する。一つ目にこれは再三経験としていわゆる「他人に意見を押し付ける」ということなのだが、大の大人でもしてしまうことだってある。ゼミの卒論で鴻池留衣「ナイス・エイジ」を扱った際、教授がこれはミステリー小説の範疇に過ぎないんじゃないかという意見をさも当たり前のように言い放ってきたように受けっとてしまい、大変腹を立てたことがあったが、これもまた他人の意見を押し付けられているという誤配なのだが、このように要するに回りくどい言い方を並べたが他人と分かり合うことはおそろしく難しい。A.T.フィールドが心の壁だがなんだかでここで引き合いにして話すつもりはないが、他人と分かり合う回路を持たねば、妄言は一向に募るばかりで、ロジックに固執することになる。最たる例を挙げれば碇ゲンドウだ。アニメ版および旧劇で深く描かれていなかったように記憶しているが(もちろん記憶違いなのだろうが)少なくとも「シン・エヴァ」では碇ゲンドウの心情が―なぜ人類補完計画を遂行するのか、なぜ碇(=綾波)ユイに会いたいのかが―明らかにされるのだが、それまでは他人と分かり合えなかった人間が一度深く分かり合えた人間を喪失したこと、喪失し対象にとらわれる。喪失したものにあれこれ言いがかりをつけて、万能の君の幻にする。ビッチにおぼれて捨てられた経験がある人なら似たような気持ちかもしれない(言い過ぎ)ともあれ分かり合えた人間を都合よく解釈する=わかった気でいることが、果たしてどこまで浅はかで愚かなのか、私には図りかねるが、これは受け手である側がどう消化するか、その立ち位置にとどまらず、いまこのテクストに綴るようにまた放出することで、何かが変わるのか。その吐き出された妄言が、まだ別の他人の内面に届くとき、それは化ける。エヴァの終局に毎度あるのは主人公との対話であり、和解である。他者は無数に在る。このテクストを読む他者はいわばゲンドウでいっぱいの海なのだ……書き手は、この妄言を吐き出し、次のアクションを静かに待つ……来るかもわからない、フィクションか現実かなんて問題は度外視に、誤配にまみれた場で、私はその返答(リアクション)を待ち望むために書く……



*跋*

NHK「プロフェッショナル」の庵野秀明の回は自宅にテレビがないことで見逃した。それだけ。なおこのテクストは断続的にお酒を飲んで書きました。お見苦しいところだらけです。(直せよ)



この記事が参加している募集

子どもの成長記録

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?