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忘れてきた帽子


ガラスの舌を噛み砕きながら、僕は大変苛立っていた。

この照り付ける痛いほどの日差しの中、忘れて来てしまったのだ、帽子を。こうして焼けたアスファルトの上を歩いている時も、燦々と降り注いでくる眩しいほどの殺人的太陽光線。

こうなってしまうと、暫く、屋根のある場で、あの日差しをやり過ごすより他ない。僕はゆっくりと路地を抜けて、小さな喫茶店へ入った。
古い匂いと、藍色と焦げ茶の空気が心地よかった。
 
「いらっしゃいませ」

と声をかけてきた老女に、「すみません、アイスコーヒーを」と頼む。太陽毒に侵された脳味噌にはアイスコーヒーが1番効くのだ。

そうして、店内、もとい、目の前のテーブルを見るとそれは、僕が忘れてきてしまった帽子とよく似た色をしていた、キャメルと焦げ茶のあいの子みたいな曖昧な色の帽子。

そんなことを考えていたら、老店主が、おぼつかない足取りでアイスコーヒーを持ってきてくれた。ありがとう、とだけ返し、また帽子へ想いを馳せる。

帽子、帽子、帽子

昨晩は頭のないトルソーの、首の部分にひっかけてあった帽子、今朝、忘れないようにと玄関に置いておいて、そのまま忘れてきてしまった帽子。
明るくも暗くもない色味で、少しザラついた素材で、ほどほどにつばが広く、中折れの具合も撫ぜるのに丁度いい形をした帽子。

あまりにそれの事ばかりを考えるもんだから、アイスコーヒーは1ミリも味がしなかったし、ついには机から帽子浮かび上がってくるような気にすらなった。

そろそろ日差しは和らいだだろうか。
そっと窓を見て確認する。
どうやら多少は大丈夫そうなので、覚悟を決めて外へ出る準備をする。

空になったグラスを下げにきた老店主に、お会計をと声をかける。

そうして、身支度を整え、意を決して外に出ようとする。と、
「お客さん、忘れ物ですよ」
と、背後から老店主の声がした。

はいと言って振り向くと、僕の座っていた席に、間違い無く、僕が今朝忘れた帽子が載っていたのだ。
まるでテーブルから浮かび上がったかのように、首のないトルソーにかけられている時と、全くおんなじ色合いで、本当に僕のものかを少し触って確かめる。中折れの具合、ツバの広さ、ザラついたその身体。間違いなく僕のものであった。

僕は困惑して、老夫婦に問うた。
「これは、本当に僕のものですかね?実は、僕、今朝帽子を忘れてきているんです。なのに、間違い無く僕のものだ、としか思えない帽子が、何故かここにある」

老夫婦は、よくある事と言わんばかりの余裕の笑みを浮かべながら
「そういうこと、も、ね、たまには有るんじゃないですかね」

と言った。

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