珍しくちょっといい話。その2

うだるような暑さに目を覚ます。昼過ぎに起きる怠惰な生活にため息を一つ。あぁ今日は8月15日か。

起きてから一通りの準備を済ませると僕は護国神社へ向かった。毎年、終戦記念日のあたりで欠かさずにお参りをしている。理由はただ一つ。亡くなった祖母が毎年行っていたから、その想いを切らせたくないから、僕の中の恒例行事。

どこまでも続くような、澄みきった青空だった。空を揺蕩う白雲を眺めていると改めて平和のありがたさを感じる。晴れた日に穏やかな気持ちで空を見れる時代で良かったなと思う。

幼い頃の微かな思い出がある。祖母と叔母に連れられて護国神社にきた。おそらく例大祭だったと思う。そこで祖母から50年前に戦争があったことを聞かされた。そして、その戦争で僕とよく似た顔をしていた弟を亡くしたらしい。

九州の片田舎で育った祖母は、漁業の盛んな村で6人兄妹と両親とで平和に暮らしていた。しかし、戦争が始まると状況は変わったようだ。お国の為にと弟は志願兵となった、また祖母も看護婦となって戦地へ赴いた。他の家族がせめて平和に暮らせるようにと、祖母と弟さんは自らの意思で志願したらしい。

以前書いた「珍しくちょっといい話」と被るので省略して書くが、僕の祖父と祖母は戦地で出会った。負傷して片足を失った祖父の手術の時にその手を握っていた看護婦が祖母であったようだ。二人は戦地で怪我をして傷痍軍人として帰還して夫婦となった。しかし、祖母の弟は南方の戦地で命を落としてしまった。

その経緯から祖母は毎年必ず護国神社へお参りに来ていた。そして、弟のことを思い涙を流しながら手を合わせていた。

祖父も生前は必ず護国神社にお参りしてたらしい。祖父は僕が2歳の時に他界してしまったので直接の思い出はないが、戦友のほとんどを亡くした祖父もまた手を合わせて祈っていたことは容易に想像がつく。

10年ほど前に実家で親父の撮影した8ミリビデオを整理してた時に「おばあちゃん 靖国神社」という題名を見つけた。幼い頃の自分の運動会のビデオを見るつもりだったのに、僕は気が変わってそれを観ることにした。

それは生前の祖母が念願だった靖国神社にお参りに行く様子を親父がビデオに納めたものだった。祖母は泣いていた。今まで来れなくてごめんと弟さんへ手を合わせていた。そして、これからの日本の平和を心から願っていた。

祖母は天皇陛下がお通りになる時には国旗を振り、祝日には国旗を掲げる人だった。また近所の朝鮮人の家庭にもお惣菜などをお裾分けする人だし、世界中の貧困地域に赤十字を通して寄付もしていた。それだけじゃない、とにかく差別心が全くなくて、常に他人の気持ちに寄り添える人だった。

父から聞いた話だが、昔は祭りなどに傷痍軍人の人が包帯を巻き募金箱を下げて座っていたらしい。それを「国から恩給をもらってるのに、乞食みたいなことして恥ずかしくないのか」と祖父は毛嫌いしていたらしい。戦争で片足を失っても、自力で働いた祖父なりの矜持があったのだと思う。でも祖母は違った。祖母は祖父の目を盗んで、その人達に投げ銭をしていたらしい。祖母は分け隔てのない、心根の優しい人だったのだ。

そんなことを思い出した僕は、そのビデオを見た年から祖母の代わりに、毎年終戦記念日を目安に護国神社か、靖国神社にお参りをするようになった。祖母の純粋に平和を尊ぶ心を途絶えさせたくなかったからだ。

いつのまにか戦争から75年が経ったらしい。僕が祖母に戦争の話を聞いてから、もう四半世紀が過ぎてしまった。時間が経つに連れて忘れられてく記憶や、判明する事実や、婉曲されていく思想や、色々なことが起こった。

今の時代に戦争について少しでも話すとなぜか右か左のレッテルを貼られてしまう。ゆえに触らぬ神に祟りなしと言わんばかりに若者はこの話題を避ける。また学ぶことも許されない。熱心に過去の時代を知ろうとするだけで変わり者と思われてしまう。

僕はただ知りたかった。祖母の生きた時代に何があったのか、あの戦争はなんだったのか、ただ知りたくてこの20年近くたくさんの本を読み、たくさんのテレビの特集などを見てきた。

そして、30歳になり大学の日本文学科に入学した僕は、昭和初期の沢山の作品を読み、その時代の色々な作家の戦争体験の話を読んだ。

さらに大学で国際関係の授業も受けて、第一次世界大戦以前からの国際社会の流れを学んだ。世界の国がどう動き、どういう経緯が何に繋がったかを知った。そして、時代の流れは決して点ではなく線であると理解した。

第一次世界大戦が世界を変えて、世界恐慌や、植民地支配の流れがあり、ソビエトが出来て、アメリカの参戦があり、全てが複雑に絡み合ってあの時代は加速していった。

責任の所在は複雑に絡み合っていた。その一部の点を取れば何が悪いかは一目瞭然だが、その点と点のそれまでの繋がりや、それから先の点への繋がりを考えると悪の所在は不透明になっていく。学ぶほどに僕は分からないことが増えていく感覚だった。

僕は戦後の三世の世代になる。戦争体験した世代が一世で、その子供の代の戦争を知らない世代が二世である。世代ごとに違う経験をしているから、考え方に違いが出ることを知った。

戦後の日本は、GHQ支配のもとに完全に戦争が悪と教えられた時代があり、日本は徹底的に反戦の動きが加速した。それは素晴らしいことだと思う反面、戦争反対と戦争の非検証は全く別物だと僕は思った。

声高に、脊髄反射的に、反戦を叫んでしまうことで、その歴史を考えることや、検証することを否定してしまうのは本当に正しいことなのかと僕は困惑した。

何かにつけて、政権は戦争を起こそうとしてる!○○は軍国主義者だ!私たちは戦争反対で平和を愛してる!という文言を叫ぶ勢力に考えなしに投票してしまう人がいることは、とても危ないことだと思う。

事実として起きた戦争のことを⚪︎か×のイデオロギーに分けてしまうのはおかしい、ましてや、そのフォーマット化された思想にプロパガンダされてしまうこと自体が、過去に戦争を招いた原因ではないかとすら思ってしまう。

ユヴァルノアハラリや、エマニュエルトッドの著書を読むと、今後は人類が世界大戦を起こす確率はだいぶ低いらしい。戦争をする利点がだいぶ薄まっていることと、抑止力としての核兵器の効果があるからだ。世界は過ちの歴史を検証して、同じ過ちを繰り返さないように前に進んでいる。

そういった経緯を理解せずに反戦を叫び、平和を叫ぶことの方が、よっぽどテロリストに近いのではないか?

イスラム国の問題にしても、アルカイダにしても、さらに遡るとロヒンギャやポルポトの虐殺など、全ての悲劇の根底には個人の無知がある。そして、ここからは僕の意見だけど、第二次世界大戦に突き進んだ日本も、その根底には国民の無知があったと思う。

無知こそが最大の罪なのだ。無知こそが悲劇の根底であり、無知ゆえに人々は多大なものを失ってきた。

いつのまにか学ぶことを放棄して、戦争や平和の問題を俯瞰的に嘲笑する文化こそが、この問題を他人事にして、この問題を腐敗させている。僕たちはいつの間にか75年前に流した涙を自ら反故にしている。そんなことを考えると僕は胸が痛くて仕方ない。

戦争という負の歴史は、時間の洗礼を受けた客観期な検証と、公正な判断がなされるべきなのだ。そこに恣意的な思想や、民族的な遺恨はナンセンスであって、人類の負の歴史は人類の公正な未来のために生かされるべきだと思う。

戦争世代が口をつぐみ、戦後の二世の世代が反戦を叫んできた。それだからこそ戦後三世の僕らの世代が公正な検証をして、戦後の四世以降に平和の尊さを示さねばならないと思う。

僕らは過去を学べて、未来を作れる世代である。それなのにそこに遺恨や、思想を持ち込むなんて馬鹿げている。僕らは未来を作れる、そしてこれからの世代に平和の尊さを伝えられるのだ。

年号が令和に変わり、日本国民の総意として平和を望んでいる。それなのにいつのまにか白か黒かのイデオロギーが形成され、それにアジテーションされた人々が無意味な運動を続けてることは異常だと思う。政治に思想はいらないとさえ思う。セーフティーネットとしての機能以上の政治があるから人々は争ってしまうのではないのか?

僕は護国神社にお参りに行くたびに強く思い直す。豊かな時代に生きている僕らは多くの犠牲の上になりたっている。好きなことをしたくても出来なかった祖母の時代、そして現在だって世界のどこかで祖母の時代以上の苦しみを生きている人たちがいる。たまたま今の時代に生まれは僕はラッキーで、厳しい時代や場所に生まれた人はアンラッキーなのだろうか。もし立場が逆で僕が辛い境遇に生まれていたら、僕はそれをただのアンラッキーで済ませられるのか。

平和ボケというありきたりな言葉に麻痺している僕らは、いつのまにか加害者になっていたり、加害者に加担してしまっているのではないか、護国神社で手を合わせるたびに僕は考える。

今年はコロナの影響で終戦記念日の護国神社は人もまばらだった。それでも、鳥居の前で頭を下げて、神妙な顔つきで神社の敷地に入り、境内にて背筋を伸ばしてお参りをする人は沢山いた。

別にここを訪れることが、そこまで大切だとは思わないけど、ここに来る人はきっとこの空間にいる時だけは、心の底から平和を尊べると思う。

人は死ぬとどこに行くのだろうか?

僕は時々そんなことを考える。いや、こんなことは僕だけじゃなくて全ての人が考えるし、先の時代に生まれた僕より賢い人がとっくに考え尽くしてることだ。

人は死んだら終わりであるけど、その死んだ人の心や気持ちを継いだ人がその先も生きていく。

そうやって何年も、何千年も、いや何万年も人は生きてきた。だから人は人を求めるし、亡くなった人を偲ぶし、生まれてくる命を喜ぶのだ。

祖母は死んでしまったけど、僕の中に祖母の思いは残っている。だから、僕は護国神社へのお参りを今後も続けると思う。戦地で亡くなった顔も知らない祖母の弟さんに手を合わせて、彼らの憧れた平和な時代を生きている責任を果たしながら、未来へその思いを届けなくてはいけないから。

いつの間にかこの国に蔓延してしまった、若者が政治や戦争を語ることがナンセンスだという風潮。反戦の皮を被った絶叫という思考の停止。思想に染まったリアリティのない軍国思想。

ほとんどの人間が平和を求めている。でもほとんどの人間が平和でいる為の小さな侵略と戦争は常に起きているという事実。解決ができないことに目を背けるのではなく、小さな我慢と、解決に向けた改善はきっと出来るはずなのに。

そして、これは誰のせいでもなく、この問題の当事者は常に僕らなのだと思う。当事者が無関心でいる限り問題は少しずつ膨れてしまう。その膨れていく問題の影響が自分のもとに起きた時に慌てても遅いのだ。

だから僕は僕の出来ることをこれからも続けていこうと思う。今、世界で何が起きてるのかを知ろうとすること、過去に世界に何が起きたかを学ぶということ、未来に何が出来るかを考えるということ。そして、最後に僕の中にある祖母の思いをこれからも誰かに伝えると言うこと。


僕がまだ5歳か6歳だった頃、僕は調子に乗って足の悪かった祖母の電動三輪車にのって遊んでいた。そして、案の定ドブに前タイヤを落として電動三輪車を壊してしまった。

ことの重大さを十分理解できてた僕は顔面蒼白だった。このままじゃ完全な怒られると思ったけど、壊れた三輪車を隠蔽できるはずもなかった。そして、また親父に殴られる…と、この世の終わりぐらい落ち込みながら壊れた前輪を弄っていたら祖母に見つかってしまった。

僕は、もはや半泣きで恐る恐る事情を祖母に話した。すると祖母は僕に怪我がなくて良かったと笑った。そして、父ちゃんにバレるとあんたが叱られちゃうから、これはお婆ちゃんが責任持って直しとくから大丈夫だよと言ってくれた。僕は涙が止まらなかった。

祖母はそのまま、前方がぐっシャリ凹んだ電動三輪車で自分の家に帰っていった。そして、その次にまたウチに来たとき、その電動三輪車はすっかり綺麗に直っていた。その様子をみてホッとしてる僕に気づいた祖母は、優しく笑いかけて頭を撫でてくれた。僕と祖母だけの秘密の出来事だった。

そんな突き抜けるように優しくて、いつも柔和に笑っている祖母のことが僕は大好きだった。だからこそ、この人が生きていたこと、そして願っていたことを忘れてはいけないと強く思う。

34歳にもなって、酒浸りで、仕事をほったらかして大学に通ってたり、結婚もせずに女遊びばかりしてる全てが中途半端な僕だけど、これだけは忘れずにいるようにしているつもりだ。でも、やっぱり根が悲しいほど馬鹿だし、軽薄だからついつい忘れてしまいそうな時がある。

だからこそ毎年8月15日に護国神社にお参りにいって思い出すようにしている。

そして、願ったり祈ったりするばかりじゃなくて、いつか祖母の願った平和のために少しでも何かできる人間になりたいと思っている。

もし祖母が生きていてこの文章を読んだら、きっとこう言うと思う。

そんなに頑張らなくてもいいよ。あんたは優しい子だから、無理しなくていいんだよ。って

でも、言葉では優しくても本気で僕が何かをやろうとしたら必ず背中を押してくる人でもあった。僕の中にその優しいおばあちゃんの想いもあるから、僕は今勝手に背中を押されてる気になっている。

僕は今大学で文学を学んでいる。そして、自分の全てを出し尽くす文章の為の勉強をしている。最近、ようやくその形が見えてきた。

この時代に生まれて、この時代の中でやがて消えてしまう僕ではあるけど、子供も残せそうもないし、何かを誰かに残せそうもないけど、せめて今の時代に生きた自分の文学を書きたいと思っている。

本当はそれをお婆ちゃんにも読んでもらいたかったけどそれは出来ないから…、だから僕の書き残したものは名前も顔も知らない遥か未来の誰かに読んでもらえたら嬉しいと思ってる。

そして、このnoteを読んでくれている名前も顔も知らない人の心に、少しでも僕の思いが伝わればと思っている。

文章を書くのって本当に難しいし奥が深い。


おわり

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?