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あなたの興味はタダじゃない

先日、ある人から「人は興味を抱くものにしかお金を払わないよね」と、ごく当たり前だけれど、考えるきっかけになるテーマを投げかけてもらいました。逆にすると「お金になるのは人の興味」だし、もうすこし踏み込めば「人の興味はタダじゃない」とも言えるかな、と思いました。


私は昔から着物に興味がありました。着物を着ている女性は美しいなと憧れていたし、身につけることで所作が美しくなったり、それを着られる自分に自信を持ったりできそうで、いつか着物を着てみたいと心のどこかで思っていたのです。

昨年の夏の出来事です。私は夏祭りに自前の浴衣を着つけていこうと、数年ぶりにクロゼットから浴衣を出したものの、断捨離のときに下駄を手離してしまっていたことに気付きました。せっかくだし下駄もそろえたいと、近場の総合ショッピングモールに入っている和服専門店に行くことに。

店員の方からとても丁寧な接客を受け、浴衣に似合う下駄を選んでもらいました。とても心地のいい購入体験で、いい気分だったのを覚えています。そこに「実は今月の週末に着物の展示会があるんです」と店員の方の一声がかかりました。有名な職人がわざわざ京都から来る珍しい会で、ふだんなら目にしないような和服も展示される、という内容です。

私は昔から抱いていた着物への興味と、直前の下駄購入の心地よさが相まって、「たぶん参加しても買えないけれど」と念を押したうえでその展示会に行くことに決めました。

当日、確かに職人の方がいらっしゃいました。着付けの先生という方にも挨拶され、名刺を渡されました。壁一面に並ぶ反物を眺める間もなく、店員さんに促されるまま職人の方との対話が始まり、「あなたに似合いそう」「どの色が好きですか」とさまざまな反物を体に合わせられ、いつの間にか私の周りを職人さん、着付けの先生、店員さんがぐるりと囲むような状況になりました。

にこやかに接しながらも「この会でしか値引きはできません」という言葉を重ねられ、「あなたが着物に対して興味を持っていること、とても嬉しいです!」と輝く目に縛られ、結局私はNOと言えない圧力に屈していきました。どんな場においても、しっかりNOと言えばいい。その通りなのですが、その状況、人に囲まれている圧、誰もが私の購入を迫っているという空気に、私は折れてしまいました。もともとNOと言うのが苦手だから。

結局、私はそれなりに高額な着物を購入してしまいました。その着物自体にはまったく非がないし、デザインも気に入っていましたから、「これも何かの縁ということで」と自分に言い聞かせていたのですが、翌日からその和服専門店からの営業電話がひっきりなしに来るようになったのです。

「次の展示会が〇日にあります」「そこでは入場者プレゼントもありますから」「新作もありますよ」と畳みかけられる電話が来るうちに、私が着物に対して抱いていた憧れが、泥のついた土足で踏みにじられていくような感覚がじわじわと心を痛めつけていきました。

私が着物に長年抱いてきた興味は、和服専門店にとって「チョロいカモ」というコードに変換されたのです。こういう書き方をしていますが、自分が被害者だとは思っていません。実際私は、「チョロいカモ」そのものです。ただ、自分の興味がタダではないことへの自覚がなさすぎたこと、それが自分のなかで育まれた「憧れ」というポジティブな感情を踏みにじる結果につながったことが、悔やまれてならなかったのです。

その店の電話番号を拒否登録して、郵送されるDMにも拒否申請をして、私は未開封の着物をそのままクロゼットにしまうことになりました。心が回復して、あたたかい季節がやってきたら、この着物を着ることを純粋に楽しめるといいんだけれど。


芸能人のゴシップネタをどこまでも追い続ける週刊誌にSNSで怒りの声を浴びせる人たちを傍目で見ながら、そのゴシップネタに興味を持つ人が絶えなければ、きっとゴシップビジネスはなくならないだろう、と私はひとり肩を落としています。

ある酒場で呑んでいるとき、「最近の若者は何事にも興味を示さない」と憂いている中年男性がいました。私は年齢的にその中年男性に近しい身であるものの、若者たちの気持ちも想像してしまいます。これほど人々の興味を搾取してビジネスにしようという意志が強く働く社会で、自分のことを守ろうとすれば、最終的には一切の出来事に興味を抱かないのがベストだと判断してもおかしくはないだろう、と。

多くの人が興味を抱くところには、お金を稼ぎたいたくさんの人たちが集まってきて、大きなインパクトが生まれてしまう。たとえ少ない人が興味を抱くところでも、一人ひとりの興味の熱量が高ければ、高額商品を売れる商機だと狙いを定めてくる人たちもいる。どうあがいたって、何を対象にしたって、私たちの興味はタダじゃないのです。

一方で、何かに興味を抱く心の動きは、自分自身を理解する大切なヒントにもなるものです。もしも何にも興味を示さないよう心を押し殺してしまったら、自分がどう生きていきたいのかわからなくなってしまう。そうすると誰かの意見に流されてしまって、興味を外部から操作されてしまいかねません。だから「すべてに興味を示さない」という守りは、あまり持続的じゃないと私は考えています。


じゃあ、どうすればいいのか。

私は自分自身の失敗経験を改めて振り返って、「興味ってすごく価値があるものなんだ」と胸に刻むことから始めるべきだと思いました。何に興味を抱いて、何にお金を支払い、何に言及するのか。そのすべてが、自分自身の理解を深めるための一歩になっていて、同時に社会の潮流を変えるほんのわずかな一端を担っているのですから。

知らず知らずのうちに外部の刺激を受けて過敏に反応してしまう「興味」と、自分のなかで静かに熟成させてきた「興味」。そういう「興味」の区分も、自分のなかで丁寧に整理していくと良いかもしれません。

興味は目に見えるものではないので、その価値を実感したり種類を分別したりするのは、なかなか難しいことです。だけど、一人ひとりが自分の興味に対して真摯であれば、社会的な意義の低いビジネスや、誰かの想いを搾取するような構造は、生まれづらくなるんじゃないか、と思います。

政治をよくするために国民ができることは投票。と同じような感覚で、商品や情報の質を全体的に高めていくために一人ひとりができることは、興味の価値を自分で定義すること。と胸に刻んで、生きていきたいな、と思いました。

そういう心が自分のなかでしっかり育ったら、改めて買った着物をしゃんと着こなせる気がする。

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