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「振り返り」って何なんだ?

仕事柄、「振り返り」という言葉をよく使う。自分が考えるときもそうだし、人に向かってこの言葉を投げかけることも多い。

一方で、「振り返りって何なんだ?」というのをうまく人に伝えられてないなというもどかしさがずっとあった。

「振り返りが大事ですよ」と私が言い、相手が「そうですね」と答える。

そんなやりとりをしているとき、「ちゃんと伝えられてるのかな?」「ちゃんと伝わってるのかな?」というモヤモヤが消えない。


記録することで出会える自分

そうしていたら、あるとき、「あ、振り返りって要はこういうことかも」と感じさせてくれる一節に出会った。

私がしたいのは、記録なのです。「私」という人間は、自然のままに泳がせた場合、どんなふうに活動するのか。そういう記録が欲しいのです。

これは、感情を上手に取り扱う方法として、1行日記というものを紹介した文章の中のそれだ。

あれこれ思い悩む(感情に惑わされる)前に、とにかく自分がやっていることを、簡単でもいいので毎日記録する。その記録を見返すと、《「私」という人間は、自然のままに泳がせた場合、どんなふうに活動するのか》ということを目の当たりにする。すると、「思っていること」というのは多くの場合、「思い込み」であることに気づく、というのだ。

記録することによって、《「私」という人間は、自然のままに泳がせた場合、どんなふうに活動するのか》をまず知る。それを踏まえて考える/感じる。

振り返りは「考えちゃいけない」のかも

振り返りというと、内省という言葉からイメージされるように、なにかを「考える」行為だと捉えられがち。それは往々にして、「今回の原因」や「今後の改善策」を考えようとすることだったりする。自分もそんなイメージを持っていた。

でも、あの一節を目にしてからは、振り返りというのは「考えちゃいけない」んだろうな、と思うようになった。

考えるのではなく、知る。

何を知るのかというと、《「私」という人間は、自然のままに泳がせた場合、どんなふうに活動するのか》という「事実」だ。

「知る」を、具体的で目に見える行為にしたのが、「記録する」ということなんだと思う。

「なんでそうしたの?」(今回の原因)を「意識的に思い出そうとする」(考える)んじゃなくて、「記録を見返すことでありありと立ち上がってくる」(知る)状態をつくる。

振り返りの時点で何かを創造するんじゃなくて、当時の記録を通して、「いま」の自分が「あのとき」の自分と再会する。

そう気づいてから、振り返りの理論的基盤である経験学習の説明を読み返すと、ちゃんと書いてあった。私の今回の気づきもまた、創造ではなく再会なのだろう。

まず、第1に 「描写」 である。リフレクションを行うものは、自分が内省しようとする物事・出来事について、事実を「描写」することができなくてはならない。 (中略)最も難しいのは最初のプロセスの 「描写」 である。自己の経験・出来事であっても、それを詳細に想起し、外化することが最も難しい。個人にとって多くの出来事はすでに忘却されてしまっている場合が多く、一連の出来事を詳細に思い出すことはできない。

創造じゃなくて再会

冒頭の「振り返りって何なんだ?」という問いに、いま私はこう答えるようにしている。

「考えるんじゃなくて、記録するんだ」

記録を通して、徹底的に「知る」ことで、振り返りのほとんどは終わっている。「知る」ことをないがしろにして「考える」をしても、そこに新しいインプットは無い。結局は〈いままでの自分がいままでどうりに考えている〉状態を抜け出せない。

振り返りとは、頭を捻って「今回の原因」や「今後の改善策」を創造することじゃない。そうではなくて、当時の記録を通して、「いま」の自分が「あのとき」の自分と再会する。

「あのときの」自分とちゃんと再会できた「いま」の自分は、〈いままでの自分がいままでどうりに考えている〉のとは違う場所に立てているはず。そこから見える景色は、振り返りの目的である「新しい気づき」をもたらしてくれるんじゃないだろうか。

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