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【掌編小説】ワンダーアパート


 住むと出世する、というアパートの噂を聞いた。駆け出しの役者の俺は、当時、喉から手が出るほど売れたくて、場末の飲み屋で聞いた他愛のない話を真に受けた。ぜひともそこに住みたいと思った。知り合いの役者仲間のつてを辿って、閑静な住宅街の一画の、見るからに古そうな、木造のアパートを探し当てた。



 六畳一間。風呂なし、トイレは共同。そこまでは普通だが、一ヶ月の家賃の支払いに関しては、奇妙なルールを提示された。家賃は月五万円。毎月はじめに台本や衣装、家財一式が送られてきて、家で住む間、決められた時間に決められた台詞や立ち居振舞いをすると無料(タダ)になるというのだ。

 引越し直後、怪しさのあまり部屋をひっくり返して盗聴器を探したが、何もない。
 誰得?と思ったものの、俺の場合芸の肥やしにもなる。だんだん面白くなってきて、月日と共に色々な人を演じるようになった。

 俺が演じる役柄に共通していたのは、成功者の若く、ほろ苦い苦労時代のエピソードを演じることだ。医者を目指す苦学生、机一つで創業したベンチャー企業の社長、キャンバスを前にひたすらに絵を描く画家。間取りが狭いわりに大きな窓に向かって、それぞれの青春を演じた。よくもまあ世の中には、成功の前夜のような役柄やエピソードがごろごろとあるものだ、と感心したものだった。

 三年後、俺はそのアパートを後にした。日課の演技のおかげか、自分の役者としての力量に自信がついたのだ。普段出演している劇場の外でも、少しずつ名が売れてきた。俺は売れる。間違いなく売れる。俺は未来の自分に投資し、勝ち取ったのだ。そして、それは事実その通りになった。



 十年後。押しも押されぬ個性派俳優となった彼は、ある会員制のバーで、会社を経営している友人から、市場に出回らない低層型マンションを紹介された。住所を聞くと、以前彼が住んでいたあのアパートの真向かいだという。

 友人は続けた。
「お前、住む気はないか?」
「このマンションに住む奴は必ず出世する。なぜか?これが手が込んでることにオーナーが劇団を丸ごと雇っててさ。入居時にオーダーメイドで、借主が、人生で一番不遇だった時代をヒアリングする。そして演者をセットで向かいのアパートにつける。そしてそいつが一番思い出したくない時代を、向かいの役者が再現する。プライベートシアターみたいなもんで、窓の外を見れば、いつでもそいつの初心に戻れるシチュレーションが用意されてる」

「世の中、人並みに売れてからが本番だろ。今の時代、スキャンダルや不祥事で足をすくわれることも多い。だから、ひとたび人気が出ても奢らずにゴリゴリと成功し続けるための装置を備え付けてるってわけだ」

 ああ、こっちが本物か。頭をハンマーでかち割られた気がした。突き抜けて成功するために、過去に投資する物好きもいるのだ。

 彼がそのワンダーマンションに移り住んだ後、アカデミー助演男優賞に 輝くまでに、その日からそう年月は掛からなかったという。


(了)

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