無題0

個人と自由の関係はじめ、教育者が近代パラダイムを盲信してる形である場合の罪(実質を損なった教育による子どもへの影響)を認め、現状を変革しましょう

2019-6-005

個人が理念化されて以来、

内在や外在の性質について、
それらの代替不可能な固有性のみを引き受ける有り様
(場の本質にしか応じさせない有り様)でなく、

(尊厳等の保障的意味でも、宗教からの分離と言う時の分離の意味でも、)
内在不問外在軽視な自由観(内と外に上下を見るパラダイム)と、

結び付けて個人や個性が語られてきた。


その結果、

井の中の蛙による対象(自己や局面も含む)規定の形を、
薄めているいないを見ない、

当然、認識に際する立ち位置の確からしさ(通用領域)を問題にしない、

そんな教育も許されてきた、

(土台に問題があればその上に構築したものにもその影響がある、
教育者にこの理解がないわけないのに、)

と捉えるべきでしょう。



思うに、
個人と結び付いてるのが、
先の前者(内外の価値対等下で得られる最大限の自由)である場合、

抽象物と具体化条件に相当するそれぞれについて、

代替不可能要素の抽出度(具体形パターンの網羅程度等)による、

個々人の有り様への評価が、対個人に付随するわけですが、


理解もまた、
対象に関する、抽象と具体の関係構造把握についての、
確立できた感である事を考えると、

両者は部分と全体の関係であり、
(知性の実質を備えた)理解作業が自由を齎す、

そう解するべきかもしれません。



また、
条件が満たされているいない等の、
通用が領域に行き渡っているいないに厳格である結果、

断定ができない事態に置かれていたとしても、

局面事情(現実的事情)次第では確定的に扱う、


この処理(特に、実在非実在に関しては対デカルト的に重要)も

抽象化(具体化に際して加わったと目される全要素の削ぎ落とし)と、
具体化条件割り出し、

両者の精度が焦点(処理の妥当性に関わる)と言えます。



また、
能動性や主体性に重きを置く教育は、
確かに理解を深めはするでしょうが、

いらぬ特化(特に、資質や環境の、代替不可能要素からの乖離)を、
避ける処理能力の獲得を付随させないと、
大した理由なく右しか見てない的いらぬ死角(いらぬ通用領域限定)を齎す、

という有害性を持ちます。

そして、その処理能力は、

相互依存である、
抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究と、
その場その場の代替不可能な固有性と次元設定(着目無視)との合致配慮、

この二つから成ってると思われます。



つまり、
国が教育に対して、質の高い理解を謳っていようとも、

想定してる個人像や自由像の内実が先の後者である限り、

いらぬ限界を抱えた理解しか、教育は与える事ができない、

そう推測する事ができるわけです。


なので、教育者は、

個々の理解への検討を通し、論理飛躍の除去の重要性を提起した、
ソクラテスへの回答に当たる、いらぬ飛躍の除去の原理(知の実質)を、

抽象化と具体化条件割り出しの最大限追究と定め、

それと整合的な個人像や自由像や教育像へと、
近代以来の枠組みを転換するべきです。



ところで、
個人が国の為に犠牲になる事について批判する場合、

役回りや損得の妥当な割り振りと言える言えないとは無関係なら、

反動でしかありません。

しかし、実際には、
盲信的な愛国心を盲信的に批判してる等の例は珍しくないわけです。


これは結局、対国での批判が前提にすべき原理を持ち合わせていない、

教育関連でも、
国民国家教育なり、人権主権対立構図なり、
社会契約論等の、
近代の産物から手持ちの質が変わってない事によると思われます。



競走能力の差異を取り出す場であれば、
大会運営にはその差異を取り出す振る舞いが期待されるわけで、

先の合致配慮を基盤とする、
場の本質を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力が、

場の管理ポジションの要件であり、

管理者が持つそのように組み上げる責任が、

管理側、被管理側共に、権利行使の根拠である。


この理解を教育関係者にも持ってもらいましょう。

(生きる力のような類の理念を、その能力に置き換えてもらったり、

理系文系を、
同種の他との差異要素の捨象と共通要素の捨象の、
局面に合わせた使い分けとしての、その組み上げ能力と、
結び付けてもらいましょう。)



つまり、
被管理者にはそのように組み上げるよう、
場(内面世界や自国社会や国際社会も、無数にある局面も含む)の、
管理者に要求する権利があるし、

ドーピング選手の参加阻止要請に相当する
(アンフェア主体への失格扱いは、経済等で現実的でない)、

フェア尊重(場の本質に即した扱いへの支持)を導く教育の実施要請は、

個々事情を場の性質に直接反映させるシステムである、市場や民主制の、

機能不全最小化にも繋がる、極めて重要な働きかけでもあるわけです。



内在と外在の、代替不可能要素のみ引き受ける有り様とは無関係な、
アイデンティティや義理は紛い物(通用が行き渡ってない)ですし、

場の本質に即した扱い(着目無視や損得の割り振り)への支持と無関係な、
道徳や社会性は、マニュアル同様、
現実の複雑さに対応できない段階(局面)での次善の策です。


愛国心醸成や道徳教育も、理解に関しても、
実質を損なったまま打ち出されてる、というこの現実を変革する為にも、

実質を回復する方向に修正する力を持たないにもかかわらず、
教育者を自負してる人達に、

近代の枠組みを盲信してる形である事、あった事の罪をまず認めてもらいましょう。

ご支援の程よろしくお願い致します。