無題0

弁神論的な話を、現行の資本主義や民主主義の改善動機に繋げてみる

2019-11-006

有限性(内外境界の存在)を与件とし、そこでの内在性質が外在性質と合わさる前後(現象化の前後)を、
場に置かれる前後(場に合わせた加工を受ける前後、具体化される前後)と捉え直すとして、
対象が認識者に認知される前後(観念獲得の前後含む)も、対象にとっては場に置かれる前後です。

例えば、主語(個物)は、主語として捉えられた局面でも、述語として一側面を切り出される局面でも、
場に合わせた加工が生じていて、
場に置かれる前後の関係正常化の問題が我々にはあるだけ(対神であろうと)と言えるように思えます。
そこの正常化(場の本質にしか応じさせない処理、場に合わせる合わさないの相対絶対の振り子の脱却)に、
失敗した結果が厳密な意味での悪の発生(選民緩和だけでは外界断絶的絶対性に対し不十分)と思われます。

認識に際して我々は、通用領域の広狭と確からしさの相関、より確からしいものが取って代わる運動性、
この二つから成る第一原理(善人悪人、強者弱者によらず前提)を、
今問われるべき確からしさ(足の速さの差異など)を取り出すに相応しい次元設定(着目無視)の下で、
具体化(場に合わせた加工)させる事で、対象が加工される場を作ってるだけとも言えます。
(便宜的に言語準拠で言うと)主語特定であれ述語化であれ、その帰結の確からしさを検討する局面では、
仮説(帰結)の通用性を高めるべく、実証結果(通用してる程度)をフィードバックさせる事で、
その精度はともかくも、上の運動性を満たす働き(抽象と具体の行き来)を利用してるわけですから、
場に置かれる前後という構造、つまり、有限性は第一原理の要請との仮説も可能なはずです。

その第一原理を確からしさそのものである無限者(上の運動性を内包してる時点で常に自己足る)と見れば、
第一原理が置かれる場を最大限代替不可能化する(場の性質把握の確からしさへの問いを機能させる)事で、
理想を犠牲にする程度を条件上の最小に抑えつつ現実を成り立たせてる形、
つまり、有限者が無限者を持ち出すに際する、無限と有限の関係正常化(信仰の実質)を果たせます。
(この場合、歴史は絶対者の自己実現でなく、少なくとも、有限者の自己責任な側面を持つと言えるはず。)
これまでは信仰の有無によらず、問われるべき事を違えない為に必要な処理(本来の対悪)、
つまり、場の本質にしか応じさせないという、いらぬ飛躍の除去が実質、論点でないというミス故に、
信仰者であろうと、倫理を形骸としてしか持てない、つまり、場の本質と着目無視との合致配慮
(防ぐべき不当な扱いを受けてる者、その対象拡張の帰結として得られる倫理の実質)を欠いてただけです。

また、有限性は与件、代替不可能な有限性は引き受ける以外ない、現条件上の代替不可能と見なせるまで、
有限性を縮小させてる(理想が割り引かれる程度の最小化)かが有限者における論点、
以上を認め、有限性に振り回される程度を縮小させていた、例えば、資質と環境、それぞれの、
最大限抽出された代替不可能な要素のみ引き受ける有り様を長期的に追求する事で、
能力のどうせ避けられない有限性(偏りや限界)を、真っ当な根拠の有る特化の現れに変えていたとしても、
その人が割り振られる損得やポジションがその人にとって、
都合の良いものとなるか、どこまで都合の良いものになるかは有限性の事情であり、別問題です。

その場その場の本質(問われるべき事)を損なわないように形式や帰結を組み上げる能力を、
場(内面や局面含む)の管理者が有しており、機能させてれば、妥当な帰結が期待できるというだけなので、
信仰の実質と都合の良い割り振りとは直接関係がなく、
場の本質に即した扱いへの支持(フェア)を越えては助けない、という救済の倫理化が、
自己に対する神にも言える形です(信仰者が望めるのは信仰の実質と矛盾しない、割り振り適正化だけ)。

ここで、市場や民主制は、場の構成者の個々事情を直接、場の性質把握に反映できる為、システムとして、
精度の高い把握(具体形パターンの網羅としての確からしさ)が可能という意味で優れてはいますが、
反映される個々事情がフェアなもの(場への通用という存在要件の追求が質を有してる)とは限りません。

レースの結果を正確に導出できたところで、ドーピング選手が多く参加してる程、結果は茶番なわけで、
現行の資本主義や民主主義は正にその、問われるべき事が設定次元となってない状態です。
とはいえ、レースと違って、アンフェア主体を市場や民主制から全員追い出すのは現実的ではありませんし、
市場や民主制に反動したところで、そこの不一致が増しになるとは限らず、悪化も十分あり得ます。
なので、信仰者は、信仰の実質と支持する制度(許容してる制度)との間の矛盾を避けるべく、
場の本質に即した扱いへの支持を教育に組み込むよう、国(自国社会の管理者)に要求すべきでしょう。

思うに、その組み込みは、倫理教育の実施というより、知性教育の修正です。
小学生でも算数の文章問題や理科の実験では、必要な着目無視(次元設定)の保持(対負荷)を発揮します。
問題は、世界標準の知性(欧米的な知性観や理性観、論理観)が、
同種の他との差異要素の捨象に特化してる形、同種の他との共通要素の捨象を埋没させてる形である点です。

現行教育は、局面の要請に合わせて捨象のタイプを使い分ける能力を育成しないので、
教育を受けた結果、第一原理の置かれる場の設定を上手にはできない人間が育ってしまうわけです。
本質抽出の能力にいらぬ限界を与えてる現行教育(信仰の実質と矛盾)の有り様を改めない限り、
フェアを促す教育を為そうとも形骸化は必至です。
信仰者には是非、ここを修正した知性教育を求めるところまで含めて、神への弁護の実践としてほしいです。
制度や教育の世界的な改善は、信仰者のそうした有り様にかかってるのではないかと考えます。

ご支援の程よろしくお願い致します。