賢くない人に賢さを売りつける商売 (千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読んで)

 年間読書人さんの千葉雅也「センスの哲学」のレビューを読みました。だろうな、というか、千葉雅也ってそういう感じなんだろうな、と思いました。
 
 私自身は千葉雅也や東浩紀といった人にそもそも興味を持てませんでした。(多分、偽物だろうな)という事でスルーしていました。世界には他に読むべき本がたくさんあるので、現代の偽物と付き合って時間を浪費する事もない、というスタンスでした。
 
 最近、意外だったのは、マルクス・ガブリエルという日本のメディアが持ち上げているドイツの哲学者が、私が想像していたよりも全然よくなかった事です。何よりその通俗的な文体にがっかりしました。(もっとも、ちゃんと読んでいないので、これから評価が変わるかもしれません)
 
 千葉雅也「センスの哲学」に関しては、タイトルの時点で興味がないというか、馬鹿馬鹿しいなとしか思いません。大体、年間読書人さんの言う通りなのだと思います。
 
 「左利き専用音読塾」という方の「センスの哲学」のレビューも読みました。するとそこには、「大きな意味を求めるのはやめろ」という主張が「センスの哲学」には盛られているという話がありました。
 
 これはポストモダン哲学なんでしょうが、(ああ、まだやってるんだ)と思いました。「大きな物語の意味を求めるのは無理だから、小さな事を趣味的に楽しめ」といったような事でしょう。私は村上春樹の小説の哲学を思い出しました。
 
 「できるだけ考えるな、ただ、自分が踏んでいるダンスのステップを正確に踏めばいい」。うろ覚えですが、こんな感じの哲学が「ダンス・ダンス・ダンス」では語られていたはずです。
 
 私としては、これらのすべてがもう遠い過去の話のように思えます。私は少なくとも、そんな哲学を馬鹿馬鹿しいと思えるような状況で生きています。
 
 ※
 千葉雅也を信奉している人には申し訳ないですが、私は多少なりとも知性や教養がある人が、千葉雅也を絶賛しているのを見た事がありません。
 
 はっきり言ってしまうと、「哲学」とか「アート」とかいうパッケージを、極めてわかりやすい形にして売りつけているその顧客というのは「哲学」や「アート」の本質には決して入り込まない素人です。
 
 こうした客は「哲学」や「アート」というものの雰囲気や、高級そうなイメージだけが必要で、本物の「哲学」や「アート」は全く必要としていません。彼らはその雰囲気や、「知的なものに触れて心が豊かになった」といった、あやふやなイメージだけが必要なのです。
 
 それで、そういう客に対して東大出身の、学歴が立派な"学者"が様々な哲学を単純化してわかりやすく教え込めば、客の方でも(これが哲学だ!)と喜ぶ、そういう仕組です。
 
 要約すれば、「賢くない人に対して自分は賢いと認めさせる人間は果たして本物の賢者か?」という事になります。
 
 賢くない人が持っている「賢い基準」に対して、「賢い」と認めさせる人は、本当に歴史的にも評価できる賢者なのでしょうか? そこが問題だと思います。
 
 まあ、それが少なくとも"商売"として成り立っているのは事実だと思います。当然ですが、賢い人と賢くない人を比べれば、後者の方が圧倒的に数が多い。だから、彼らにアピールする人の方が資本主義のこの世では勝利するのは当然です。
 
 逆に、少数の賢い人に評価される玄人好みの哲学者やらアーティストやらは、金銭的には大して儲かりません。プロになれるかどうかも危ういでしょう。それでも、そうした人はそういう道を進み続けるだろうか? ここには大衆の知らない一つの道があり、それは社会の裏側で起こっている一つの問題です。
 
 さて、ここまで書いて特に私が出したい答えはありません。ただ、いくら「大きな意味は求めなくてもいい」とアナウンスしたところで、格差は広がり、社会は不安定になってきており、「自らの生の意味は何か」という大きな意味を求める動きは大きくなっていくような気はしています。
 
 鎌倉時代の仏教思想が進展したのは、当時が乱世だった事が大きな理由だったのではないでしょうか。年間読書人さんの言うように、趣味的なものに耽溺していられるのは千葉雅也が恵まれた状況にいるからでしょう。
 
 そこにすがりつきたい人以外は、おそらくはそう遠くないうちには千葉雅也的なものから離れていくのではないかと思います。私としては、資本主義という神以外の神を見つけて、それに邁進する人の運命というものに注目しています。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?