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福田恆存に学ぶ

 最近、福田恆存を読んでいますが、面白くて、色々と勉強になっています。
 
 福田の感想については後に置いておくとして、まず自分が思ったのは(これを今の自称保守が読むのは無理だな)という事です。福田恆存と言えば「保守主義者」のレッテルが貼られていますが、その関連で読んでも、さっぱりわからないだろうと思います。
 
 私からすれば、福田恆存は「保守主義者」である以上に、「近代文学者」です。日本近代文学の文学者の一人であって、それ故に日本と西欧の板挟みになるという、漱石・鴎外以来の伝統を背負っています。
 
 そこからの彼の歩みには確かに、保守主義的なものはみられますが、これもどういうものか、説明するのは難しい。福田恆存は天皇制についても批判的で、日本の伝統というものを安易に信じてはいません。
 
 まず間違いないのは、福田恆存が生きていたら、今の自称保守を忌み嫌ったであろう、という事です。福田恆存のような人は、「保守主義者」というレッテルで自分を理解しようとする人間に対する戦いそれ自体が彼の思想的戦いでもあるので、福田恆存は、彼を「保守主義者」という範疇で理解しようとする人間を嫌っただろうと思います。
 
 今は何でも簡単に理解しようとする人が多いので日本と言えば「天皇制」であり、福田恆存と言えば「保守主義」、小林秀雄も「保守主義」の括りに入れてしまって、概念に当てはめて安心しようとする。私は小林秀雄も福田恆存も好きですが、あえて言うなら、そうした括りから出たところに彼らの思想の大切な部分があります。
 
 ですが、これを言っても仕方ないだろうなとも思います。もう何を言ってもしかたない人々の群れというものが厳然と存在して、そういう人達が過去の天才の死骸を担いで、あっちこっちに政治運動しているだけです。
 
 ※
 福田に学んだ部分は色々あります。例えば、小林秀雄はジェイムズ・ジョイスのような現代に近い作家については本格的に論じませんでした。
 
 福田にはジョイスについて論じた文章があり、私はそういうのを読んで自分の知識の欠落が埋まった気がします。それとサルトルの「嘔吐」という小説について論じた文章も同様に面白かったです。
 
 どういう知識の欠落が埋まったかと言うと、近代文学の解体過程というものを、ジョイスとかサルトルとかいう人が体現していた、という事です。
 
 福田はサルトルの「嘔吐」においては、現実世界が意味欠落して、全てが無機質で灰色な世界になった点を強調しています。これはおおまかに言えば「神なき世界」というやつですが、意味というものが欠如してしまった世界を直視しようとしたのが、近代と現代の間くらいの作家がやろうとした事、と大雑把に言えば言えるかと思います。
 
 フランスの作家のアンドレ・ジッドは、ジョイスに対して苦言を呈したそうです。福田はその事について書いていました。ジッドはジョイスより少し前の作家です。
 
 ジッドはジョイスの作品の中に、非ー倫理的な要素を認め、そ苦言を呈したそうです。ですが、そのジッド自体は、反倫理的な小説を意図的に書いています。
 
 要するにジッドは、神なき世界において、モラルへの反逆というテーマを持っていたわけですが、それは後から考えると、反倫理ではありますが、同時に倫理的なものと言えたわけです。
 
 どういう事かと言うと、「神は死んだ」といったニーチェも、実際にはキリスト教への極めて深い愛着があり、それに対する反発から、ああした哲学になったわけで、広い視野で見ればニーチェの哲学も「キリスト教的」と言えない事はないのです。
 
 ジッドの哲学は深くは知らないのですが、福田によると、ニーチェの影響を受けているそうです。ジッドの小説もニーチェと同じく、反倫理的であっても、それは「反」という形で倫理と繋がっています。そしてここで言う倫理とは旧時代的な、キリスト教的なものです。
 
 それに比べると、ジョイスは非倫理的だった、つまりそこには「反」すら消えていた。倫理に対する戦いすら消えていた。そこがジッドの気に触ったポイントだったそうです。
 
 私はどちらが正しいかという優劣を決めるつもりはありませんが、こうした事が書かれているジョイス論を読んで、近代文学から現代文学への移行というのがなんとなくイメージされました。
 
 更に言うと、ジョイスの後にはベケットがいますから、ベケットまで行くと、もはや解体現象がサルトルの「嘔吐」のように、「描かれた世界の解体」ではなく、「描こうとする言語の解体」にまで至っています。
 
 現代文学は順をおって、何かを語ろうとするその言語それ自体の解体にまでたどり着いてしまった、という事だと思いますが、そこまで来ると、もうかつてのようなフィクションとしての強度は消えてしまいます。
 
 フィクションとしての強度という事で何が言いたいかと言うと、かつての文学作家、バルザックだとかフローベールとか、ドストエフスキーとかは、文学作品でもあると同時に通俗性も兼ね備えたも面白おかしい作品だとも言える、という事です。要するに普通の小説として体裁もしっかり保有しています。
 
 つまり、言葉でもって現実に近い空間を作り出して、登場人物を動かし、色々な事を体験させる、という小説の基本をかつての文豪は守っていたわけです。だから、そうした作家の作品は通俗的な要素を多く含んでいます。
 
 しかしサルトル、ジョイス、プルースト、カフカらを経てベケットにまでたどり着くと、もはや普通の小説を読みたい人には何が何だかわからない難解な作品となってしまう。
 
 これを文学の頂点とみなすか、文学の堕落とみなすかは人それぞれですが、そうしたあたりになって、一般の人が思うような「文学」というものが難解だというイメージが形成されたのではないかと思います。
 
 ただ、これは文学そのものにとっては必然的な歩みでしたし、文学そのものは、二十世紀を通じて、自らの必然的な歩みを経て、とうとう自己自身の解体(文学の自殺)というところにたどり着いてしまったのかもしれません。もちろん、その背後には、文学という孤立した精神の営みをそのような孤城に追いやった、現実社会の変化があります。
 
 ※
 福田を読んで色々勉強になった事はたくさんあります。例えば「一匹と九十九匹と」という政治と文学についての文章です。
 
 これはキリストの言葉を福田が自分なりに解釈したところから話がスタートしています。また、福田が述べている哲学はイギリスの作家ロレンスの影響を受けています。
 
 「一匹と九十九匹と」では、「一匹=文学」「九十九匹=政治」という風に考えられています。そして九十九匹が救われたとしても、救われなかった一匹に固執するのが文学だと言っています。
 
 これは非常に大切なポイントですが、私は福田のこの言葉はほとんどの人には伝わらないような気がしています。この社会においては、例えば「個人は大切です」と言ったところで、すぐにそれは「個人は大切だ」という集団運動になります。
 
 福田が政治と文学を対立させ、文学の重要性を語っている時、人はおそらく「文学は大切だという政治的イデーを福田は語っている」という風に読むでしょう。しかし、私はそうではないと思います。
 
 ここには政治に還元されない文学というものの要素があるのです。それを福田は「一匹と九十九匹」という言葉で現しています。
 
 福田はこの論文の中でも、政治と文学とは相反するものであり、むしろ相反しなければならない、と主張しています。ここで言う矛盾とは、政治と文学とは、違う方向に歩いていかなければならない、という事です。
 
 ですが、人は、次のようにイメージするのではないでしょうか。
 
 「政治  ←→  文学」
 
 しかしこうなると、これは政治党派における「左・右」と同じような括りです。福田が文学を大切にするのは、彼が個人だからです。ですが、そういう主張の人が集まって「個人を大切にしろ!」と言えばそれはすぐに政治になります。
 
 「文学は大切だから国はもっと文学を大切にしなきゃならん!」というのは、政治的意見であって、文学ではありません。それでは文学とは何でしょうか。
 
 福田恆存の文章には繰り返し「孤独」という問題が出てきます。孤独、個人というものが重要視されています。私は福田自身、孤独な人だったし、孤独を愛する人だったと思います。端的に言うと、彼が文学者だったのは孤独だったから、だと思います。
 
 しかしこの孤独は、他者との関係がうまくできない、という意味の孤独とはやや違います。むしろ、ロレンスがそうであったように、あるいは福田が漱石の中に見たように、徹底的に孤独である人間だけが、その孤独を埋める為に「真の愛」といったものを求めて、さまよい歩く事が「できる」のではないでしょうか。そしてそういうものが近代文学だったのではないでしょうか。
 
 私には福田恆存もまたそうした文学者の一人だったような気がします。孤独から解放されている人、自分の人間関係にすっかり満足している人、自己の実存的寂しさを感じない人は、自己という欠落を埋める「旅」に出る事ができません。彼は愛し、愛されていると思っているので「真の愛」とは無関係な存在です。
 
 もちろん、「真の愛」というのは虚妄であり、フィクションに過ぎません。ですが、この嘘を本当にしようとするところに、近代文学の苦悩があったのではないかと思います。私はそのような探求を懐かしく思っています。そして福田恆存もそうしたものを探し求めた文学者の一人だった気がしています。
 
 福田の「一匹と九十九匹と」には「ひとつの反時代的考察」という副題がついています。福田は自分が言っている事が十分伝わらないという直感があったのだと思います。だからこそ「反時代的」とわざわざつけているのでしょう。そしてこれは「左翼には自分の保守思想はわからない」といったような、右左の考え方ではありません。
 
 個人というもの、孤独というものが徹底的に抹殺された世界、政治と社会だけが神となった時代において、あえてもう一度文学を、という時、その言説は人には容易に伝わらないだろう、福田はそう考えていた故に「反時代的」という副題をつけたのではないでしょうか。

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