見出し画像

オカヤマ・トライブの「創世記」をつくる / PLUG MAGAZINE vol.62 PROLOGUE


何にもなかった岡山の20年

 プラグマガジンはおかげさまで20周年を迎えることができました。刊行を続けてこられたのは、たくさんのご支援とご愛読あればこそ。何よりも先に、これまで関わってくださった全ての皆様に深く感謝を申し上げます。

 今号の制作を進めるにあたって、本誌を創刊した2004年から現在までの20年間に起こった社会的な出来事と共に、バックナンバーをパラパラと捲りながら「これまで」を振り返りました。政治、経済、スポーツ、流行...いろんなことがありましたが、クロニクルを追いながらあることに気付かされます。それは、20年が経過しても本質的には何も変わっていないということ。確かに、私たちのライフスタイルはがらりとシフトしました。しかし、新しいスターの登場に興奮したり、最新のガジェットやコンテンツに戯れる一方、自然災害や戦争によって理不尽に生活や命が奪われているように、良いことも悪いことも、「私たち」と「世の中」は似たようなことを繰り返し、同じようなことに向き合い続けているのではないでしょうか。世界は「変わっていない」のだと思います。

 では、我が岡山県はどうだったのか。激動するグローバルの流れや都会の様子を傍観しながら、世界のど真ん中からは無関係かのような時間の過ごし方をしてきたように思います。これは岡山に限ったことではなく、日本の地方都市のほとんどに共通していることかもしれません。地方は「フリーズ」したまま、やっぱり「変わっていない」ように思います。

 ただし、街の見え方には分かりやすい変化がありました。立派なビルやマンション、商業施設が新たに建ち並び、特に岡山の市内中心部は都会的な印象を強くしています。目まぐるしくお店や企業も入れ替わり、それぞれの界隈で影響力と存在感を発揮する顔ぶれも変わってきました。旧態依然としながらも、街とヒトの新陳代謝だけは今も繰り返されています。

 昔に比べて「無いもの」が少なくなり、この街での生活や娯楽は確かに充実しました。岡山県出身のアーティストや芸人、スポーツ選手の快進撃に沸いたこともあります。岡山弁の認知が拡がったり、地名のプレゼンスが高まったように感じたこともありました。面白いイベントや素敵なプロジェクトがあちこちで動き出しているのも知っています。

 しかし、岡山が良くなったのか、それとも悪くなったのか、私には分かりません。この20年で岡山の何かがドラスティックに変わった実感もなく、時代を画するような出来事があったかといえば、思い当たることがありません。きっと、私が期待するようなことは、岡山でまだ一度も起こったことがないのだと思います。

コンプレックスと歩んだ20年

 創刊からいままで、本誌の継続を支えたのは、国内外の超一流マガジンや都会へのルサンチマンを因縁とする、岡山で雑誌をつくることへのコンプレックスでした。それらは、企画を練る段階で制約となって表れ、取材や撮影の現場で突きつけられ、刷り上がった雑誌を見て徒労に帰すような思いにさせることもある、酷く厄介なものでもあります。

 雑誌やクリエイティブの高みにあるものがどんなものかは知っていて、岡山でもつくることはできるはずだ、という自負はあっても、それを実現するのはとても難しいことでした。自分たちの目指す「クオリティ」と「岡山で続けること」は頻繁にトレードオフの関係へと陥ります。残念ながら、この二つを上手く両立させるセンスや新機軸を提示するにはまだまだ力が及びません。褒め言葉として「地方誌には見えないね」と言われるたびに、ばつの悪いものを感じるのは、そういうものを作っているつもりがないからです。いつからか、侮ってくる人たちからの評価は甘んじて受け入れるべきだと諌めながら、「岡山だからしょうがない」と実力不足を開き直ることが常態化していました。岡山には、素晴らしい実力と感性を備えたフォトグラファーやデザイナー、ライターなど、優れたクリエイターが沢山います。いつも力を貸してくれる彼ら彼女らに、編集長が不甲斐ないせいで出来上がりを見せるのに気が重くなることもありました。

 ここまで読んでいる方からすれば、ひどくネガティブで、鬱屈したメンタリティに感じられると思います。しかし、こうした気持ちが発刊を続けることのできた確たる原動力でもありました。もしかすると、単発的な「作品」としてなら地方でも納得のいくものが作れたかもしれませんが、それは自分たちが採るスタイルとは違います。あくまで商業誌としての不文律に則って「継続すること」がレジスタンスであり、「継続は力なり」を信じることが自己矛盾へのエクスキューズでした。わざと大げさに謙遜したり、悲観しているわけではなく、岡山にしてはそれなりのものを作れているという自信が、あるにはあります。ただ、むやみやたらによくわからない肩書きを名乗ったり、大したことのない実績を誇張してアピールしたり、本物を知らずして何かのプロフェッショナルを気取るような「裸の王様」になれるほど世間知らずでも無知でもないだけです。私たちは、「いや、自分らには無理だって」と思いながらも、岡山から世界の一流誌と肩を並べる雑誌をつくることを諦めてはいません。

原点に立ち戻った20年

 創刊した2004年頃、日本では雑誌の黄金期と呼べるような時期が続いていました。新しい雑誌が次から次へと創刊され、発行部数や広告出稿額で過去最高を記録するものも多かったと思います。クーポン誌や業界専門誌の地方版も隆盛を極めていました。しかし、スマートフォンの普及など、ライフスタイルの変化が進むにつれて、我々が羨望の眼差しで見ていた全国誌が徐々に休廃刊を余儀なくされ、主だった地方誌も姿を消していきました。全国の書店数はこの20年間で半減しており、雑誌を取り巻く環境は更に厳しさを増していくでしょう。既に本誌のようなカテゴリの地方誌は47都道府県を探しても他にはなかなか見つけることができません。

 なぜ、プラグマガジンは発刊を続けていられるのか。それは、出版事業をビジネスとは少しだけ離したところに位置付けているからです。私たちは、たとえ出版や広告で稼げなくても、雑誌をつくることをやめません。ほかの仕事で稼ぎながらでも、作り続ける覚悟で臨んでいます。ただし、だからといって事業として成立させる努力を放棄しているわけではありません。応援してくださるスポンサー、読者は本当に有難い存在で、全力で報いる対象であることに変わりないからです。しかし、願望として「雑誌はビジネスではない」と言いたい。それは、「いまや」であり、「もともと」そうであったからです。

 Twitterの創業者ジャック・ドーシーによる「世界初ツイートのNFT」が、「人類最初の壁画」の価値を超えることはおそらく無いでしょう。そういったフィジカルなものに対する絶対的なバリューを確信はしていますが、「この時代こそ」という枕詞のあと、ここで紙媒体の優位性や魅力をしつこく語るようなポジショントークはしません。文化や風俗を発掘して育てながら、時に社会や流行に対するカウンターとしての役割も果たしてきた雑誌の歴史や偉業に自分たちを重ねて存在意義を主張したいわけでもありません。

 この先、何もかもがすごいスピードで最適化・合理化されていくなかで、儲からなくなったものは容赦無く消えていきます。既に刊行を終えてしまった雑誌の大半は、採算の問題で継続を断念したのではないでしょうか。しかし、雑誌に限らず、誰かに何かを伝えたり、表現したり、保存する手段として媒体が生まれたのなら、本来それを作ろうとする動機は「儲けたいから」でも、「儲かるから」でもなかったはずです。

 まだ右も左も分からなかった創刊当初、10代20代の若者だった私たちは「岡山でカッコいい雑誌をつくろう!」と言って集まりました。始めた理由はたったそれだけです。そこにはマーケティングなど無く、ビジネスとして成功するんだというギラギラした野心もありません。あったのは「勢い」と「熱量」だけでした。

 あの頃の私たちと同じように、こういうものを作りたいという誰かの思いから誕生した雑誌という形態は、数多の企業の手により金儲けのフォーマットとして消費し尽くされ、時代のあだ花となりました。しかし、そんな憂き目に遭っても枯れることなく、雑誌は「文化」のフェーズへと移行を始めています。

 文化とは、余計な手間がかかり、面倒で儲かりもしませんが、それでも人類がのちの世代に遺すべきもの。雑誌は、再び非合理的なモノに立ち返ることで、そうした文化としての機能と役割を十分に果たすことができます。ビジネスに魂を抜かれたマスメディア、スラム化が加速するドラッグのようなSNSとは一線を画す独立した存在であり、大衆に迎合しない気骨を宿したもの。ハイプ(熱狂)を起こす力は失っても、時代を超えるヘリテージになり得るのはそういうものではないでしょうか。信念ある雑誌は価値を失わない、私はそう信じています。

岡山を変えようとした20年

 たった一冊のローカル雑誌で、そうそう何かが大きく変わるはずもありません。それでも、私たちはこの雑誌で岡山を変えようと思ってやってきました。「カッコいい雑誌で岡山をもっと“イケてる”場所にしたい」という動機から始まった本誌は、取材を続ける中で生起した岡山への問題意識や社会課題など、その時々で副次的に発生したテーマも誌面に反映していくようになります。最近では、コロナ禍で起こった差別や偏見、国の在り方を見極めるため、ハンセン病療養所「長島愛生園(瀬戸内市)」の特集を組んだこともありました。

 雑誌づくりのほか、2006年に当時の地方では草分けとなったドレスアップイベント「プラグナイト」を企画します。都会に行かなくてもオシャレをめいっぱい楽しめる場所をつくることで、地域のカルチャーを複合的に底上げしようと始めたパーティーは、音楽やエンターテイメント性を高め、開催時には数千人を動員する規模に拡大しました。また、若手の起業家や経営者、活動家などを顕彰することで地域の成長を促そうと2010年に創設された「オカヤマアワード」に立ち上げから携わり、10年10回の開催で147名の受賞者を輩出します。岡山に互いを称え合う文化と、もっと切磋琢磨できる土壌をつくることに取り組みました。

 この他にも、新たなコンテンツや企画をたくさん実践してきましたが、共通するインセンティブは、それまで「岡山に無かったもの」であること。もしくは、オルタナティブであることです。地域に欠けていると思うものを具体的なアクションで補いながらメッセージを出すことが、岡山を「変えること」に繋がるはずだと考えていました。しかし、それぞれの背景にある意図や思いを伝えきることはできなかったように思います。それを痛感したのは、然るべき立場にある人からの「次の仕掛けを楽しみにしているよ」という主体性のない言葉でした。それを聞いた瞬間、「貴方に評価されたくてやっているんじゃない」、「趣味で娯楽を提供しているんじゃない」、「時間とお金に余裕があり、多くを動かせる立場にある貴方は何かしているのか」という怒りの感情が渦を巻きました。誰かに何かを押し付ける気などありませんが、伝えたいことが伝わらないまま、結局は空振りを続けてきたような気がします。

 これまでに、プラグマガジンを読んで人生が変わったという人がいることや、手がけたイベントが新たなムーブメントの萌芽となった例があることも知っています。わずかながらでも、岡山の人や街に影響を与えたこともあったでしょう。ただ、やっぱり自分たちが期待しているような変化は何一つとして起こすことができませんでした。この20年は、「岡山の何をどう変えたいのか」、自分たちが向き合っているものの正体を探り、それを学ぶ時間だったように思います。

まだ、「岡山」は世界に存在しない

 「岡山を変えたい」という気持ちは、地元に対する愛情と嫌悪の相克でもあります。それは、地方創生という言葉にすら、都会からの上から目線を感じる複雑なものでした。岡山には素晴らしい歴史や文化があり、地理的な好条件や美味しい食べ物もあるのだから、ありのままに自信を持てと言う人もいるでしょう。しかし、そんな風に老成して克服するには、まだ若すぎるのかもしれません。どう見ても岡山はネーミングや設定すら無い「モブキャラ」にしか思えないからです。手に入れたかったのは、強がりや薄っぺらい自己肯定ではなく、岡山の人間であるという本物の自信と誇り、世界を生き抜いていく武器となる揺るぎないアイデンティティでした。そのために、非連続的な転換点を生み出したいと取り組んだことの多くは、振り返ってみれば足りないものを埋めようとする行為にしか過ぎません。そもそも、岡山には「変えるものが無い」ことにすら、これまでずっと気付けずにきました。

 「最初に、私たちは《道具》を作り上げる。次に、《道具》が私たちを作る」。これは、「メディア論」でも著名な文明批評家マーシャル・マクルーハンの言葉です。私は、この言葉にある《道具》の代わりに、『岡山』を充てて考えてみました。どんな場所で、どんな人がいて、どこに向かっているのか、岡山には誰もが知るような明確なパブリックイメージはまだありません。また、私たち自身も岡山県人のセルフイメージを明らかにできていないように思います。多様性や個人を認めることは大切ですが、それはバラバラで良いということにはなりません。変革を求める前に、私たちはもっとまとまって「オカヤマ」をつくることから始めるべきなのだと思います。

 それは、ただ与えられた環境によって形成された県民性や先人から受け継いだレガシーのことではありません。スイスやオーストリアの「永世中立国」というはっきりしたスタンスであったり、国民総幸福量という独自の考え方を国家の指標として打ち出したブータンの価値観であったり、世界最先端ともいえる電子政府を実現したエストニアのように自分たちで選択した未来のことです。災害時に略奪が起きない、スポーツ観戦後はゴミ拾いをして帰るといった日本人の品行方正が海外のニュースで話題になったことがありますが、これは逆ステレオタイプとして私たち日本人がモラルを省みた経験でもあったかと思います。いまを生きる私たちがこうありたいと思う「オカヤマ」を創り、積極的に外に向かって発信すること。それが、私たちの意識と行動を変え、一人ひとりを輝かせる土台にもなるはずです。

100年後の読者へ

 マクルーハンは「宇宙船地球号には乗客はおらず、乗務員だけ」とも言っています。そうした連帯感と当事者意識、主体性を高めるには、我々の行き着く先がどこにあるのかも明示しなければなりません。きっと、その目的地は、すべての活動や営みの先にある最大のテーマ、世界の愛と平和だと思います。

 インターネットの登場以降、世界はとても近くなりました。戦争や飢餓、圧政に苦しんでいる人たちの様子もリアルタイムで届けられますが、私たちは個人の幸せや人生を充実させることばかりに意識が向いてしまっています。ロシアの政治活動家アレクセイ・ナワリヌイ氏や香港の民主活動家アグネス・チョウ氏のように、いまだに自由や人権のために命を懸ける人がいる一方で、日本には今日の晩御飯のことしか頭にないような人が少なくありません。国のトップでさえ、検討を加速したり減速させたりしながら揺蕩うばかりです。我欲や保身にかまけて「あの時、何もしなかった人たち」では、次の世代に顔向けできません。より良い未来を遺すのは、いまを生きる私たちに課せられた共通のミッションだと思います。

 今号では、「オカヤマ・トライブ」と題した巻頭特集を企画しました。トライブとは、「同一の血統を持ち、族長が存在する部族」が語源ですが、共通の興味・関心やライフスタイルを持った集団を指す言葉でもあります。ここでは、岡山に縁(「えにし」と「よすが」)あるひとたちをトライブという言葉で括りました。本誌が選んだ各業界を代表する方々に、それぞれの岡山に対するイメージを尋ねながら、最後にオカヤマ・トライブが世界のラブ・アンド・ピースのためにできることは何か、考えを訊いています。

 私の答えは、「岡山が世界の主役になること」です。これは、地域がまとまるために、小さな利権や面子による内輪揉めと決別するためのスローガンでもあります。モブキャラ同士が悶着していては世界は変えられません。その上で、経済と文化、両面での実力と影響力を高めながら、世界に置ける存在感と発言力を手にしようと立ち上がること。岡山のビジネスや政治、芸術や文化活動など、その全てが最終的には世界の愛と平和に繋がるものかどうか、よく考えてから行われるようになること。そして、岡山的・新人文主義のような独自の主張を持つこと、だと考えました。皆さんなら、今号の特集インタビューにどう答えるか、ぜひ考えてみてもらえると嬉しいです。

 「最初に、私たちは『オカヤマ』を作り上げる。次に、『オカヤマ』が私たちを作る。それは、世界の“Love and Peace”のために」。これが、岡山に向き合い続けてきた本誌20年目のサジェスチョンです。

 プラグマガジンは、地方誌のジャンヌダルクを気取りながら、これからも岡山で果敢に出版を続けます。ずっと先の時代を生きる人たちにも読んでもらえることを期待して。

プラグマガジン編集長 YAMAMON


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?