マーク・ロスコとカフカの『変身』
朝、目が醒めて、自分が虫に変身していたとしたら、一日目は驚くかもしれないが、二日目、三日目と日が経つにつれて、案外、自分が虫であることを受け入れて、それっぽい振る舞いすら行い始めるのではないか。
人間の『自己』は自らが、自分らしい判断や振る舞い、容姿を実現しようとする不断の行為と認識の循環であり、一旦、その系(すじ)が切れてしまう、もしくは逸脱してしまえば、人はその系を捨てて、別の系へと移行するのではないか。
睡眠から覚醒とは、つまるところちょっとだけ死んで甦り、自分を見て、自分が自分であることを確認する行為である。例えば鏡を見るとか声を出すとか友人と挨拶するとか。そうした行為や社会との繋がり以前には、自分が自分であることを確定する為の方法を我々は持ち得ない。そして、もしそのことごとくで自分が虫であり、これから毎日虫であった場合、人は虫という『自己』を実現する行為と認識の循環の系に嵌り込んでしまうのではないか。守るべき『自己』などなく、あるのは『行為と認識の循環』だけ。かつての系を支えていたはずの欲望や情動も、いま与えられた身体や社会によって挫折させられてしまう。
グレゴール・ザムザはある日、虫になり、虫のように生き、虫のように扱われ、虫のように死んでゆく。その過程で彼は不自由さを感じはするが、自分の境遇を嘆きはしない。むしろ不自由さ、不愉快さを軽減させようと努力する。もちろんそれは虫のように生きる努力である。もはや彼は、彼の身体や社会によってすでに決定されてしまっている快楽しか欲望できない。
そこに低通するのは『虫』という現実である。
彼は虫として死んでゆく際にも自分の境遇を嘆きはしなかった。
小説の最後にザムザ夫婦はグレゴールの妹ザムザ嬢を見て、彼女がいつの間にか少女から美しい女性へと成長していることを見て(認識して)、彼女に縁談を準備して(行為して)やらねばと考える。彼女には『虫』ではなく『妙齢の女性』としての『自己』を受け入れる物語が準備されている。
彼女にこの物語を拒否することなどできるのであろうか。
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