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大阪ミナミ⑬◆安倍晴明追って阿倍野へ!10年ぶりに住吉大社!【大阪ミナミシリーズ】

「#あべのハルカス美術館」で行われている『円空―旅して、彫って、祈って―』へ!明太子食べて!?阿倍野区にある安倍晴明巡りへ!時間余ったので住吉さんに行った!

この旅行記の神社仏閣は写真中心です。神社仏閣の詳細はもうひとつのNOTEを参照ください。
https://note.com/yanma_travel/

▼ルート

▼みどころ

▽2023年04月23日(土):京都市南区

★京都南③★しだれ梅×椿「城南宮/吉祥天満宮」道真生誕地は神社アトラクション|やんまあ@旅行記 (note.com)

▽2023年04月24日(日):

#あべのハルカス :大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1丁目1−43

#あべのハルカス美術館 」 で『 #円空 ―旅して、彫って、祈って―』が行われた。写真OKのところが多く、約160体の円空仏が大阪に大集合!!

#博多もつ鍋やまや 大阪あべの店:〒545-0052 大阪府大阪市阿倍野区阿倍野筋1丁目2−6

 11:15ぐらいに着いたが、待ち時間30分くらいだったな・・。認識ありますね~。米と明太子は食べ放題でした。

博多もつ鍋やまや 大阪あべの店【公式】 (owst.jp)
博多もつ鍋やまや 大阪あべの店 - 大阪阿部野橋/もつ鍋/ネット予約可 | 食べログ (tabelog.com)

#天王寺から東天下茶屋

#西教寺 :大阪府大阪市阿倍野区6

#廣臺寺 :大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町5−21

#安倍晴明神社 :大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9−4

 安倍晴明誕生地!一度なくなり復活!!そして京都へ
 南に行くと「阿倍王子神社」がある。安倍晴明神社は阿倍王子神社の末社です。京都「晴明神社」は安倍晴明の邸宅があった場所で、大阪の「安倍晴明神社」は生誕の地と伝えられている。一度なくなるも復活したことからも、口伝も含め言い伝えにより復活した数少ない神社といえようか。

 京都の「晴明神社」は次の通り。安倍晴明の末裔は土御門になり福井へ流れていく。福井県敦賀市の「晴明神社」、福井県福井市の「晴明神社」もいかが?

 詳細は次のNOTE参照。(2024年12月公開予定)

安倍晴明神社から阿倍王子神社途中の「 #印山寺 」に桂文枝の墓

#阿倍王子神社 :大阪府大阪市阿倍野区阿倍野元町9−4

 和歌山・熊野本宮、新宮、那智大社の末社で阿倍野王子と呼ばれた王子社としているが、熊野詣よりも先に阿倍氏が奈良の桜井より移住し、神社仏閣を建立した場所!!

 阿倍野区制80周年記念として、1962年の阿倍王子神社のお祭りの様子がyoutubeにアップされていますね。無断転載禁止のため、リンクを貼っておきます。

 詳細は次の『八咫烏!熊野詣!安倍晴明「阿倍王子神社」【大阪ミナミシリーズ】』参照。(2024年12月公開予定)

阿倍王子神社から阿部野神社「 #経塚 」「 #源正寺 」「 #北畠駅

他力本願です。「経塚 (fc2.com)」「阿倍野の塚・古墳(大阪市阿倍野区) (plala.or.jp)」参照で。

駅狭いな・・・京都の山ノ内駅並みですね・・

#阿部野神社 :大阪府大阪市阿倍野区北畠3丁目7−20

 安倍晴明かと思いきや、北畠家vs足利の場所であり、稲荷さんが主役だと思って、本殿裏行くと・・・(ノ・ω・)ノオオオォォォ-

安倍晴明の母親が祀られている「阿倍王子神社」、安倍晴明の生誕地「安倍晴明神社」とセット!この阿部野神社は安倍晴明の父!と言いたいところだが、北畠家の場所でした。ほお~三重などにも腰を下ろす北畠家は好きな人は好きなのかもな~。神社仏閣巡りで面白いのは、近くにあるので参拝すると歴史が点から線になるところかな。
 阿部野神社は、鎌倉時代末期から南北朝時代、南朝方について活躍した北畠顕家と父・北畠親房を御祭神として祀っている。

 オオモノヌシではなく三輪大神と表記しているのは珍しい気がする。

 ここの本殿裏や境内右側の稲荷社は注目すべきところですね!それ以前から神社があったような気がするのだが。。

 詳細は次のNOTE『安倍晴明かと思いきや「阿部野神社/旗上稲荷社/芸能稲荷社」北畠家vs足利!稲荷さんが主役かも【大阪ミナミシリーズ】』参照。(2024年12月公開予定)

#天神ノ森天満宮 :大阪府大阪市西成区岸里東2丁目3−19

 安倍晴明神社・阿倍王子神社から阿部野神社に参拝し、住吉大社に行くためにこの神社横の駅へ。境内写真撮影禁止です!!!
 境内にある「子安石」は、秀吉なども願ったようで、古くから安産の神として信仰を集めており、別名に「天神森天満宮」、「天下茶屋天満宮」、「子安天満宮」、「紹鴎森天満宮」とも。

参拝する方はGoogleクチコミに目を通してから参拝ください。

 詳細は次のNOTE『良い神社だが参拝注意「天神ノ森天満宮」境内写真撮影禁止【大阪ミナミシリーズ】』参照。(2024年12月公開予定)

#住吉大社

古代より航海の守護神として崇敬を集め、浄化、海上安全、和歌・文学の神、現実に姿を現す神が「住吉大神」の本宮!!住吉神は三柱の総称です。住吉神が人の前に姿を現す時は1柱で、多くが老人の格好をしている。このことからタケノウチノスクネやサルタヒコなどとも繋がりを指摘する人もいたかと。

 「反橋」は最大傾斜が48度もあるようで、この橋を渡ると「祓い清められる」と信仰されるようだ。豊臣秀吉の側室・淀君が建設し、息子・豊臣秀頼の成長祈願の為に奉納したと伝えられている。また、川端康成の小説『反橋』の舞台でもある。

 住吉大社の代名詞「太鼓橋」は、横から見ると橋が水面に反射して見えるのが良い。

 誕生石は島津家の家紋がある。この「誕生石」は、源頼朝の寵愛をうけた丹後局が、北条政子から逃れてきた時に、不思議な狐火に導かれてたどり着いた場所で、丹後局はここで産気づき大石を抱きながら男の子を出産したとか。。。この時生まれた子が、後の薩摩藩「島津氏」の祖となった「島津忠久」であるため、島津家発祥の地なのだそうな。

 仏像で例えると御前立や狛犬、もしくは脇侍か・・。楯社は鹿島神宮・春日大社でお馴染みのタケミカヅチです。鉾じゃないんだ・・・。鉾社はタケミカヅチの相方である香取神宮・春日大社・石上神宮の祭神フツヌシですね。

 イザナギは黄泉の国から地上に戻り禊をする。その時に海中から「海の底」「海の中程」「海の表面」から生まれた神々で「住吉大神」と総称され、底筒男命、中筒男命、表筒男命の3柱。残りの一柱は神功皇后ですね。第一本宮と第三本宮は直列で、第二本宮と第四本宮は並列に並んでいる。

 住吉神は神功皇后の新羅遠征を守護したことから、航海、とくに外国航路の航海を護る神として信仰されている。また、和歌の神・農業の神・弓の神・相撲の神としても信仰されてきた。

  • 全国トップ10に入るほど、初詣の参拝客が多い神社
    →2010年前半に初詣に行ったが、もう絶対行かないと思った。それほどの激込みだった・・・

  • イザナギがイザナミがいる黄泉の国に会いに行き、この世に帰った時にイザナギは禊をしたときに生まれた神々

  • 海の底・中・表から底筒男命(ソコツツノオノミコト)・中筒男命(ナカツツノオノミコト)・表面から表筒男命(ウワツツノオノミコト)が出現し「住吉三神」とする

  • 『日本書紀』と『古事記』にとると、息長足姫こと神功皇后は住吉大神の助けを借りて新羅遠征をする

  • 『日本書紀』によると、神功皇后は遠征の帰路、お告げに従い住吉神の荒魂を穴門の山田邑(山口県下関・住吉神社(私のNOTE))に、和魂を大津の渟中倉の長狭に祀ったとあり、大津の渟中倉の長狭が住吉大社である

  • 200年、三韓征伐を行った神功皇后が七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道)に帰還した際、神託により住吉三神を祀ったことに始まる

  • 211年ごろに創建

  • 神功皇后摂政11年にあたる卯の年・卯の月・卯の日に鎮座

  • 「すみよっさん」という愛称がある

  • 住吉(すみのえ)から「墨江」とも記されたときがあり、「清江」とされた時期もあるそうな

  • 9世紀まで、最寄りの難波津は、中国との貿易や外交 の出発点で、難波は大阪と日本の北部を結ぶ国内の交易路の始点でもあり終点でもあった

  • 住吉高灯篭は船乗りの目印であり、古図から存在し明治時代までここまで海だった

  • 灯篭は海運業者が奉納したもの

  • 西大鳥居をくぐると太鼓橋「反橋」がある

  • 珍しい角鳥居がある

  • 本殿は4つあり、幣殿と拝殿がセットで「住吉造」という様式で国宝

  • 本殿は1810年に建築

  • 摂社・大海神社も住吉造で、1709年に建築された重要文化財

  • 「月の初めの辰の日」は「初辰まいり」をされ、4社巡りをする

  • 4社巡りの順番は、「種貸社」、「楠䚯社」「浅澤社」「大歳社」で「みのりまいり」とする

  • 「初辰まいり」の「楠䚯社」は48回すると良く、招き猫がもらえるようだ

  • 巫女の頭の飾り「神楽女(かぐらめ)」は、「松」と「白鷺」と「鏡」のデザイン

  • 昔は、松の名所だった名残のようだ

  • 「白鷺」は神功皇后が参拝したときに、三羽の白鷺を住吉三神の使いだと思ったそうな

  • 749年より、伊勢神宮と同じく20年に一度の式年遷宮が開始される

  • 遣隋使・遣唐使の守護神として崇敬される

  • 970年、多田源氏の祖・源満仲は、住吉大社に参籠し、神託により摂津国多田(兵庫県川西市多田)にある多田神社(私のNOTE)を本拠地としている

  • 1000年、一条天皇の生母・藤原詮子が石清水八幡宮(私のNOTE)と四天王寺(私のNOTE)とともに参詣

  • 1003年、詮子の弟・藤原道長が参詣

  • 1031年、道長の娘・藤原彰子は華やかな行列を組んで石清水八幡宮と四天王寺とともに参詣している

  • 1185年、住吉大社で平家追討の祈願が行われ、深夜になって本殿より神鏑が西方を指して飛び去ったのだという。それから間もなく、源義経が屋島に拠る平家を奇襲、翌3月24日には、壇ノ浦で滅亡させた。(『吾妻鏡』より)

  • 1195年、東大寺の大仏殿落慶供養参列のため上洛していた源頼朝は、流鏑馬を奉納したと伝えられている(『吾妻鏡』より)

  • 1209年、鎌倉幕府三代将軍・源実朝は、夢のお告げを受けて、藤原定家の門弟・内藤知親を使者として住吉大社に和歌二十首を奉納(『吾妻鏡』より)

  • 2011年、修繕を施して49回目の遷宮「御鎮座1800年記念大祭」が行われた

  • 4つ本殿は、1810年に造営されたもので国宝

  • 「住吉造(すみよしづくり)」は、神社建築で最も古い様式

  • 本宮は 20 年ごとに建て替えられていたが、16 世紀の内乱で中断し、19 世紀初頭には完全になくなった

  • 下関の「住吉神社(私のNOTE)」と、博多の「住吉神社」とともに「日本三大住吉」とする

  • 奈良・天野香久山に毎年使者が遺わされ、神武東征時の祭祀を行っている。これは『住吉大社神代記』では神功皇后の時代に住吉大神が告げたとする

  • 『土佐日記』では、紀貫之の一行が、任地の土佐国から帰京の船旅の折り、突風が吹いて進めなくなった。船頭が「住吉明神が何かを欲しがっている」というので、幣を奉納させが、波はますます荒れた。船頭は「弊では満足できていないため、もっと喜ぶような品を奉納しなさい」というので、鏡を海に奉納すると、たちまち海はに静まったとか

 「五」「大」「力」と書かれた石が混ざっており、その3石を見つけて御守りにすると願いが叶うとか。叶った後に石を返すときは、同じような小石に感謝の気持ちを込めて「五」「大」「力」と書いたものを用意し、五所御前で拾った石と一緒に倍返しだ!!


 詳細は次のNOTE『2300社総本社「住吉大社」一寸法師「すみよっさん」摂津一宮4つの本殿』参照。(2024年12月公開予定)

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