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大学生のレポート:ビリー・アイリッシュの短編動画『私の責任ではない』(ジェンダー論)

2020年7月28日 火曜日 21:41

今回は、「既存の社会的規範をぶち破る」的な、僕の大好きな系統のトピックです。では、早速どうぞ!

はじめに

集英社の女性向けファッション雑誌のオンライン版に掲載されていた記事「ビリー・アイリッシュ、終わらぬ「体型批判」に抗議! パワフルメッセージが世界で波紋を呼ぶ」を選んだ[1]。

アメリカ合衆国の18歳のシンガーソングライター、ビリー・アイリッシュは『私の責任ではない』というタイトルの短編動画を2020年5月27日に公開した[2]。この動画の一部は、三月のマイアミでのワールドツアー公演で公開されていた。動画の全編は二か月後に公開された。

この動画の公開に至った理由は、ビリーの服装や身体に関しての否定的な意見の数々だ。ビキニ写真の投稿には「尻軽になったから、もう好きじゃない」タンクトップ姿には「性的な目で見られたくないのに、そんな格好をするのか」といったコメントが寄せられた。

身体の線が協調されないオーバーサイズの服を着る事で有名な彼女のイメージとの矛盾を指摘するかのようだ。

このような、身体や服装について中傷する人に対しての、抗議の意味がこの短編動画には込められている。動画では、彼女が下着まで服を脱ぎ、黒い液体の中へ沈みながら、メッセージを訴えている。その内容をいくつか抜粋する。

“nothing I do goes unseen”
(私のすることは常に人の目に留まる)

“we make assumptions about people”
(人は人のことを先入観で見る)

“I feel your stares, your disapproval”
(人からの視線を感じる、自分に対してのイヤな感じもわかる)

“if I shed the layers, I’m a slut?”
(肌の露出が多いと尻軽女?)

“is my value based only on your perception?”
(私の価値は「あなたが私をどう見るか」だけで決まるの?)

”is your opinion of me not my responsibility”
(あなたの私に対する意見は、私の責任じゃない)

この短編動画は大きな反響を呼んだ。自分の体系を気にしないでいい、自分のスタイルは他人には関係ない、といった前向きな考え方を人々に提供した。更に、「身体や服装への批判」について考え直す機会ともなった。

そもそもの話、妬み。

ジェンダー論は「そもそも論」ということを頭に置きながらこの出来事について考察する。彼女がスタイルについて批判されるのは、彼女のせいではなく社会に原因がある。

ハラスメントの定義は、被害者の判断に委ねられているように、「批判されている」というのも本人の受け取り方次第の曖昧なものだ。だが、有名アーティストで、しかも十代の彼女に対しての「アンチコメント」が増えるのは自然現象ともいえる。若くて成功している彼女への羨ましい気持ちが妬みに変わっていく。

定義が短絡的

彼女が毎度ハイブランドの新しい服を着て登場すれば、経済的に同じことをする余裕がない人は羨ましく思う。だが、これは普遍的に人々の脳内に刻み込まれた「豊かさや幸せの定義」が、経済力と強く紐づけられていることに起因する。別にお金があってハイブランドの服が買えて有名だからと言って、世界で一番豊かで幸せな暮らしができるとは限らない。それなのに、たった「一つの価値基準に過ぎない経済力や知名度に洗脳された人」は、若くして有名な彼女にやきもちを焼く。

そもそもの原因は社会でもなく、もっと根本的な「社会に流布された価値観」にある。社会的にもはや常識となってしまっている「理想の女性像」などといった、「~はこうあるべき」等の短絡的発想を軸に世の中は動いている。

政府ですらも「固定化された価値観」を押し付けてくる。授業に登場した例を借りると、日本政府だって、「家族」という「個人のグループ」を大前提に「世帯ごと」にマスクを配っている。

人間にとってはやはり、「わかりやすい枠組み」が心地よい。どんな馬鹿でも決めつけて物事を「〇〇=△△。そういうもん。」とすれば、理解に苦しむことはない。

決めつけの恐ろしさ

リップマンの言うように、人が情報を取り込む際の「フィルター(ステレオタイプ)」は強力で恐ろしい[3]。

彼女のビキニやタンクトップ姿に関してのアンチコメントをする人々は「オーバーサイズのファッションが象徴的な人=身体の線が出る服装をしない」という考え(決めつけ)をしているのだろう。

ビリー・アイリッシュは、「オーバーサイズで何枚も重ねた服装をすればジャッジされない」という趣旨の発言をしたことが複数回ある。だがそういった、発言は「明文化された宣言」のような性質は持たない。

朝ごはんにパンを食べるといった人が、ご飯を食べてはいけないといった決まりは存在しない。普段口から発すること全てに責任を持って、矛盾がないように生きていく必要はない。人はその状況によって考えが揺れ動く。歳を重ねれば、昔の自分のファッションがダサいと思うこともあるし、考え方がおかしいと思うこともある。それは有名人でも同じだ。

注目の的、制御不能

それでも彼女は「十代の超有名アーティストといえば、ビリー・アイリッシュ」だとか、「個性的なアーティストは皆と違う」などといった様々な偏見に富んだ視線を浴びる運命にある。いつでも注目されるのだ。だが、有名人だから凡人と同じ事をしてはいけないという事は決してない。

いい意味でも、悪い意味でも彼女は「代表」的立ち位置に立っている、あるいは立たされている。知らないうちに、発言に権威性が付与される。だが、彼女は決してこの権威を獲得しようとは志していない。

人の人生は、主体性があるように見えるが、外的要因による偶然の積み重ねで成り立っている部分が多い。人間には、「被投性」がつき纏っており、自分で人生を切り開けてなどいないのかも知れない[4]。

女性として生まれ、構造的に弱い立場に置かれるのも、完全に外的要因によるものだ。偶然、そして勝手に、頼んでもいないのに強まる彼女の発言の持つ影響力は、間違いなく彼女を傷つける事にも繋がる。

笠井康弘が、YouTubeで「他の人に口出しされたくない」と訴える動画を出したとしても、数えられるくらいの人が視聴し、数えられるくらいの高評価・低評価・コメント・アンチコメントがついて終わるはずだ。

だが、彼女の場合そんなくらいで終わるわけがない。記事で取り上げられていた動画には、現在250万の高評価と6.5万の低評価に加えてたくさんのコメントがついている。

有名人は、社会の「少数派」

笠井康弘が【「一般人・凡人」という名の「マジョリティ」】であるならば、ビリー・アイリッシュは【「有名人」という名の「マイノリティ」】ではないだろうか。世界を見渡した時の【圧倒的少数派の「スーパースター」】として人生を歩んでいる。

人と会話していた内容が引用される気持ちを想像すると、息が詰まりそうになる。頼んでもいないのに、口から発する一語一句がみんなに聞かれている感覚なのだろう。人々の憧れでありながらも、多くの苦悩も抱え込まなければならないのが、有名になるという事の本質だ。

なぜ花開いたのか?

では、なぜ彼女は有名で、ある意味では「マイノリティ」の女性になったのだろうか。彼女の創造性、音楽・芸術的センス等が理由としては思い浮かぶ。しかし、それらの才能が花開いたのは、俳優の父と作曲家の母が選んだホームスクールという選択肢があったからではないだろうか。また、児童合唱団に八歳から入って歌と触れ合う環境があったからではないだろうか。そして、身近な存在である兄がバンドで作曲、演奏、プロデュースをしていたからではないだろうか。

メディアの意図

そしてそれらに加え、メディアによる報道も、彼女が有名になっていく事を後押しした一因だ[5]。メディアの報道の目的は、基本的に金儲けだ。政治などの状況を正しく人々に伝えるという性格も持ち合わせているが、こういった正義と金を天秤にかけたときに、金をとる傾向にある。

わかりやすい例は、オリンピック委員会とテレビ局の関係だ。オリンピックの資金源となっているテレビ局の都合に合わせ、スポーツ選手の最高のパフォーマンスには悪影響とわかっている時間に競技を開催するオリンピック委員会の脳裏には金しか見えない。このように、のため、すなわち視聴率のためならば正義に反する事でもしてしまう報道側は、多くの人が見てくれそうな報道に価値を見出す。

その点で、若手で急成長中のビリー・アイリッシュは非常に魅力的だ。彼女の持ち合わせた才能、そしてそれが開花するのに十分な環境が揃って、一気に知名度が上昇している中、メディアが更にそれを支える構図だ。

音楽が世界中で人気な有名人に記事を書けば、そこら辺の平凡な少女の記事とは比べ物にならない程の注目が簡単に集められる。だからメディアは報道で「偉い人」「人気のある人」を優先的に取り上げる傾向にある。平たく言えば影響力があればあるほど好都合という訳だ。

発言力や発信力

今や彼女は、その意味では間違いなく影響力の塊だ。一連の流れは、まさに「構造的な発言力格差」を助長している。一部の経済的に豊かな人間が、資本だけではなく、発言力までをも占有してしまっていると言える。

国連での拒否権をはじめとする発言権の格差、そしてIMFでの加重投票制にもみられる、普遍的な人類の課題が浮き彫りとなっている。

そして更に残酷なのは、先ほども述べたように、「発言力を握る者」は、必ずしも自ら希望してその力を手に入れてはいないという点だ。まさにこれは世界の闇だ。

ここでもう一度「そもそも論」に立ち返る。この報道記事自体の論調から受ける印象は、「自分のスタイルにケチをつけてくる人たちに物申すビリー・アイリッシュ」だった。そもそも、「物申している」のではなくて「社会変革を生み出そうとしているビリー・アイリッシュ」とは捉えられないだろうか。

メディアの論調は、「有名アーティストになる事の代償」にばかり注目していて、有名アーティストだからこその特権の部分を上手く拾い上げられていない。ここで一つビリー・アイリッシュの言葉を紹介する。

“In the public eye, girls and women with strong perspectives are hated. If you’re a girl with an opinion, people just hate you. There are still people who are afraid of successful women, and that’s so lame.”

(世間一般で、主張の強い女性は嫌われる。世間はしっかりした意見を持つ女を嫌う。でもそういう人は、成功している女性にビビっているだけで、すごくダサい。)

— Billie Eilish [6]

この引用文で述べられている通り、世の中で女性は、確かに不当な扱いを受ける。だが、彼女は、特権的な発信力(これも「報道」の力かも知れない)を幸運にも(不運にも)持ち合わせている。その力を使って、この世界に埋め込まれた非常に厄介な固定概念を覆すために行動を起こすことが出来る。

全ての人が平等には享受できない権利を持った彼女は、ある意味、世界中の人々の思いの代弁者だ。そんな期待を背負っているとも捉えられる彼女が、さらに自分らしく輝く事は、現状の打開に繋がる。

彼女のファンを介して、世界中の人々に、彼女のメッセージは波及していく。ビリー・アイリッシュは、女性というだけで決めつけられる、不条理な世の中を変えていくことができるのではないだろうか。

さいごに

「そもそも」を大事にすることで新しい道が開ける感覚をこの期末レポートを通して実感できました。ジェンダー論では非常によく考えさせられました。「構造的な問題」の数々は、一見先行き不透明といった印象でしたが、最後の最後で打開策が見つかったような気がしています。この授業、楽しめました。ありがとうございました。(文章長くてごめんなさい)


最後の部分は、先生と割と仲が良かったので個人的なメッセージみたいに書いたものです。他の学生さんがこんな風にレポートを書いているのかどうかはわかりませんが、こういう部分も含めて楽しんで貰えていたら、嬉しいです!

最後まで読んでくださってありがとうございます!
また次回のnoteでお会いできるのを楽しみにしています👋


[1] SPUR(集英社が発売している女性向けファッション雑誌)

・ビリー・アイリッシュ、終わらぬ「体型批判」に抗議!パワフルメッセージが世界で波紋を呼ぶ(2020.05.28)https://spur.hpplus.jp/culture/celebritynews/202005/28/EhUkhhA/

[2]・Billie Eilish - NOT MY RESPONSIBILITY - a short film

[3] ・W.リップマン「世論」(岩波、1987) 

[4]・ハイデガー「存在と時間」(1927)

[5]・P.Fラザースフェルド他「人々の選択~アメリカ人と大統領選挙~」(1948)

[6] Surabhi Sabat, “Billie Eilish Quotes: Inspiring Words From The 18-year Old Artist That Shouldn't Be Missed” (2020.06.11)

https://www.republicworld.com/entertainment-news/music/billie-eilish-quotes-quotes-from-the-18-year-old-artist.html

僕のnoteを読んでくださって、ありがとうございます!お金という形でのご支援に具体的なリターンを提示することは出来ないのですが、もしサポートを頂いた際は、僕自身の成長をまたnoteを通して報告させていただけるように頑張りたいと思っています。