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自分の居場所を自分で決める力が欲しいね(付き合ってた時の反省点)

彼女氏と別れた

長きに渡り決断をうだうだ先延ばしにしてた彼女氏とや〜〜〜〜っと別れました。
別れようと思ってから半年以上かかっちゃった。
まあでも前の人とは別れようと思ってから実際に別れるまでに7年かかって二十代を全部潰したんだから、半年ならだいぶ時短できた方だ。進歩進歩。
欲を言えば次は別れようと思った瞬間に即別れられるようになりたいですね。(そこは「別れない付き合いがしたい」じゃなくていいのか?)

付き合っている時にメンヘラ回復日記を書くと、どうしても日記に彼女氏が出てくることになり、それは付き合っていく上であまり良くない影響を及ぼすだろうと思って日記はずっとネットにアップせずにオフラインで書いておりました。
晴れて別れたので、メンヘラ回復日記が少し書きやすくなったぞ。(と言ってそんな書かないけどな)

付き合っていた頃の反省点

正直、付き合ってるうちにやれることは全部やったぞ、やり切ったぞと思ってるので一片の悔いも無いのですが、自分の苦手が炸裂してたな、と思うものがあります。
それは、
「彼女に嫌なことをされた時に、その場から去ればよかった」
というもの。

そう、私は「自分の居場所を自分で決める力」が極端に弱い。
ないと言ってもいい。

嫌なことをされた時に、怒って帰れば良かったんだ。
そしたらあんなに傷付けられることもなかったのに。
ああ、まただ。お得意の「怒ることができない病気」だったんだ。

なんで「自分の居場所を自分で決める力」がないまま来ちゃったのか?

親や祖父母に望まれず産まれてきたから、子供の頃からどこにも居場所がなかった。

子供の頃、「どこに行きたい?」のリクエストが届いたことがなかった。

思春期に学校に行けなくなった時も、限界が来る前に「休みたい、もう無理」と訴える権利がなかった。

かと言って、この社会では子供は家を出てどこか別の場所で生きることも選べない。
居場所を選ぶことを練習をする機会がなかった。

つまり私にとって「自分の居場所を自分で決める」ことは想像の埒外で、
『チャタモリを知らずに育った人が「お昼にチャタモリ食べよう」と思う』ぐらい無理なことだった。(※チャタモリはネパール料理です)

要は「自己決定権」ってやつのことなのか

「ここにいたくないなと思ったら、そこから出ていく力」と、
「ここから出ていけと誰かに思われても、鈍感にそこに居続ける力」は、
多分表裏一体で同じものだ。
どちらも「自分の居場所を自分で決める力」のことだ。
もっと要約すると、自己決定権ってやつのことなんだろう。多分。

シェアハウス運営は割と良いかもしれない

そういう意味では、今シェアハウスを運営しているのは、自分にとって良い修行な気がする。
なんせ家って=居場所だし。
賃貸とはいえ、管理人としての決定権がある立場だし。
自分はもう無力な子供ではなく大人になったのだ、と自覚していくのに良い影響があるように思う。しばらくはシェアハウスを粛々とやっていくのが、自分のメンタルを良くすることに繋がりそうだ。
もしこの先、もっと福祉なんかの力をつけたら、いつかDVシェルター的なこともやりたいなぁ。
女性用のシェルターはこの地域にはもうあるから(数が足りてるかは謎だが)、やるとしたら男性用か子供用かなぁ。

それにしてもこの社会はホント、親に恵まれなかった子供には選択肢も決定権も生存権もなんもねえな。
もっと大人になったら、親ガチャに負けた子供にとっての居場所になるような何かをやるぞ。

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