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文学・詩歌

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文学関連の記事や詩論、詩歌および押韻詩
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記事一覧

詩歌論:詩のちからはどこにあるか

 こんばんは。Sagishiです。  唐突ですが、皆さんは詩歌において「やってはいけないこと」がなにか分かりますでしょうか、そうですね、技法の解説ですね。  詩歌のせかいにいると、その界隈では公然と知られているような技法でも、それを表ではだれも話していないということに、どこかでなんとなく気づきます。  だれかが「話してはだめ」と言っているというわけでもなく、なんなら大学などで詩歌の授業をうければ、ふつうに説明もされていると思うのですが、しかしオープンなブログとかでは書い

詩型論:「複数音制約」と押韻詩型

 こんばんは。Sagishiです。  今回は、前回書いた「複数音制約」と絡めて、日本語の押韻詩の詩型論を書いていこうと思います。連載記事的な。 1 前段/モーラリズム 以前書いた詩型論では、日本語の二重韻律構造をもって、韻律定型を構築することの難しさを記述しました。  しかし、結局のところ日本語はモーラリズム言語なんだから、モーラを基礎韻律単位として詩型を構築するしかない、と考えを落ち着けました。よって今後は、どのようにしたらモーラリズムを使って詩型を構築できるのかを考

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日本語の詩歌の脚韻はどのようなスタイルにすれば良いのか-翻訳を通して考える-

 こんばんは。Sagishiです。  今回は、詩の邦訳の脚韻について書いていきます。  日本の詩歌の翻訳をみると、なかなか原詩通りにrhymeをしているものが少ないです。しかし、その希少なrhymeを取り入れている翻訳も、どことなくぎこちなさがあるようなものも多いです。  日本の詩歌文学においては、まだrhymeというものが浸透しておらず、技術的にどのように扱えば良いのか、どのようなrhymeをすれば良くなるのか、自然になるのかが、あまり周知されていないと思います。

詩型論:日本語の押韻詩の詩型に関する考察

 こんばんは。Sagishiです。  いよいよ押韻詩の詩型に関する考察をしていきたいと思います。 1 詩行の音数 最初から残念なお知らせですが、現在のわたしは、現代日本語東京方言を使った詩歌で、詩の一行の音数を決めることは事実上不可能だと考えています。理由を以下に列挙します。 1-1 韻律単位の問題  現代日本語東京方言は、モーラリズムの言語ですが、話中では軽音節(1モーラ音節)と重音節(2モーラ音節)が任意のタイミングで出現します。  現代日本語東京方言の自然な日

詩歌:雪と光

風に煽られ木の葉揺れ 身の振るさきなきこの行方 新雪の積る道の白 流れる時の言葉・夢 膨れる新芽の芯の先 開いて閉じては胸をつく ひそか陽炎 詩の灯り ゆっくりこころをほだしつつ 子供の声は記憶のあと 手のひら残る冷たさも 暑さもいつか消えるもの ようようメロディに乗せながら 静かな水辺に遊んでる 憧れのひとの背の広さ 白鳥(はくちょう)の羽か温める 心理のうちに秘める想い

なぜ和歌は57韻律なのか・長短律の機能に関する考察

 こんばんは。Sagishiです。  今回は、和歌の57韻律(長短律)について考察をしていきます。 1 なぜ和歌は57韻律なのか 以前、わたしは「和歌が57韻律なのは漢詩の影響ではなく、日本語の特性に由来すると考えたほうが妥当だ」という主張の記事を書きました。  わたしは、これまで繰り返されてきた「神学論」的な議論からは早く卒業しないといけないと思っています。ゆえに、何かを主張するさいにはその根拠を明示して、議論を生産的にしたいと思っています。  「漢詩影響仮説」が正

詩歌:女官

 給仕するために柱廊にいた  忘却した帽子を  ひろいにホーフガルテンの  休止されない運搬に、  近づいて、休拍の呼吸を聽く  歩み、彼は厨房にぶどうを運ぶ  輝きの去る星座の海  こぼれた房が床にはね、  猫の眼が壁から覗く  愛を、  泡沫に消える、裾を赤く汚して  夜に衣  甘いむつみ  知るべくもない顔 「明日は濃い霧がたちこめた……」 「昨日は波が静かになりつつある」  灯台もない  この  だれも寄り付かない暗さに  充溢している  女官が小路を歩き  カツンカ

詩歌:優しい朝

 まどろみを抱いた、鈴鹿山脈を  靴をはいて散歩する  雲は高く冠をして  子どもたちを見つめる (空気の高まりと、逡巡をいっしんに受け)  大垣をぬけると米原が近づく  うたた寝の気流に川が流れる  ゆっくりと腰をあげると  黄色い生命の花はかかる  苦しみから綿を遠ざけているだけでは  聖歌は迎えてはくれない  伊吹おろしを感ずると、  トンネルのさきに赤い光が見えた  きっと、誰かが笑った朝の  おぼろげな水脈だ

詩歌:白鳥の卵

白き翼を陽に広げ 水をはじきて川にふる いづこより君は来たりやと 問へど束の間、北へゆく 青を仰ぎてよろめきぬ 絹絲の如く柔らかなる 翼のたわめき、温かなる 冬の陽射しに輝きて 卵を見しためしにあらず 君の言の葉もえ聞かで 何百何千、渡りゆく 雪降る季節のらうたさぞ 小夜ふけるころ夢見つつ 着水の音のまぼろしに 驚きて川辺見回すほどに 君のすがたをまたゆかし

詩歌論:詩と歌詞はどう違うか

 こんばんは。Sagishiです。  今回も文学に関する思っていることをつらつら書いていこうと思います。  詩と歌詞ってどう違うのか。よくある疑問かと思います。  まぁわたしからすると全然ちがいますね。歌詞にはメロディや譜割りがあるというのもありますが、最大のちがいは詩には詩のロジックがあることです。  本当に色々な書き方があるので、まじめなひとは「詩は自由です」と答えると思いますが、わたしは自由ではないと思っています。詩には歴史的な積み重ねがあり、それなしで読解する

詩歌:すりぬけてゆく

三十代半ばで、独身の派遣労働 同僚からも兄弟からも共感されない、俺は泡沫 富めるものがさらに富む街、贈賄と汚職の左遷報道 安酒と土手煮で、あがる口角 林立するビルのあいだ、たよる宛もなく 手にした傘を向ける、顔もしらない英雄に撃つ ブルーカラーがビルにはりついて汗をかく 作業員は、くらい部屋でそのときを練習しつつ 花を抱えてベビーカーを押す女性がいた いつしか忘れてしまった愛おしさ 俺たちはハード的に与えられた機能しか うまく扱えなくなったのか、価値観も立場も固定

和歌の57韻律は漢詩の影響? 「漢詩影響仮説」の反証材料をあげる

 こんばんは。Sagishiです。 「日本の和歌の韻律が5音と7音を基調にしているのは、漢詩が5文字と7文字だったからだ」という俗説をたまに見かけます。  一見それっぽい主張で、昔の文学者の小論にも上記のようなことが書かれていることがあります。  果たして、この俗説は正しいのでしょうか。この記事では、この俗説を「漢詩影響仮説」とし、反証となる材料をいくつかあげていきます。 1 57韻律に固定されていない歌謡がある 『万葉集』の巻一は「初期万葉」とも呼ばれますが、天武天

詩歌:自由詩の子ども

 すべての詩には謎がある  謎のない詩には詩はない  遠ざかる景色を部屋  の隅で感じ、コツコツ叩いた窓ガラス 「あなたの感官は、力学に従わない」  自由の葉へと落ちる陽だまり  葉脈を走らせ、空へ枝は伸び、歴史を経た  大輪の花が咲き、生き方に拘らない  新しい道を多くの子が選んだ…けどあなたは自由詩の  ことばかり書いて、古臭い詩語や隠喩で遊んでいるね  すっかり飽きたわたしは、もっと新しい仕事がしたい  未踏の音の霊峰に足跡をつけて、まるで詩の地球儀を  回してい

詩歌:囲炉裏のふち

 茅葺屋根の小屋で囲炉裏  を囲み、若い奴らは手を擦りあわせ  口々に愚痴りだした不幸せ  を寒風が吹くなか、老人がひとり 「お前らはなってない。古いものは  大切にせず価値を知らない。  現状に甘え、何も生まない。  偉そうにしてもすべて作り物だ」  しかし、誰ひとりとして若者は  聞こうとはしなかった「くだらね」  吐き捨てて皆出ていった、項垂れ  まるで意味をなさなかった泡の言葉  ふと、若い女が老人の前に座した 「お前はいかないのか」老人は嗤う  女は黙ったまま