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眞鍋惠子評 ジョゼ・サラマーゴ『見ること』(雨沢泰訳、河出書房新社)

評者◆眞鍋惠子
大量の白票が引き起こした騒動――描かれたのはディストピアか、それとも私たちの現実世界か
見ること
ジョゼ・サラマーゴ 著、雨沢泰 訳
河出書房新社
No.3609 ・ 2023年10月07日

■投票日の朝、ある国の首都は土砂降りだった。洪水や地滑りが各所で発生し、投票所に来る人はほとんどいない。午後に天気が回復しても人々の出足は悪く、政治家やマスコミは前代未聞の低い投票率を予想して慄然としていた。ところが午後四時きっかりに、突然人々は家を出て投票所へ大挙して押し寄せる。その夜判明した首都の投票結果では、総投票の七十パーセント以上が白票だった。これを問題視した政府は再投票を行うが、棄権率はゼロに近く八十三パーセントが白票と相成った。「たがいを知らない、同じ考えを持たない、異なる社会階層に属する、……何万もの人が、偶然同じ行動を」とる理由を探り状況を改善するべく政府が次々に講じた策││スパイの派遣、非常事態宣言、首都包囲、首都移転││は、すべて裏目に出てしまう。内部の権力闘争もからんで、政府は袋小路に追い込まれる。やがて、功名を急ぐ内務大臣が白票投票事件と数年前の失明の感染の結びつきをでっち上げ、捜査を開始した。
 ポルトガル語圏で初のノーベル文学賞を受賞したジョゼ・サラマーゴは、「白い盲目病」が広がった世界を描いた一九九五年の『白の闇』から九年後、スピンオフ作品のような本書『見ること』を刊行した。ふたつの作品の原題の直訳は「盲目についてのエッセイ」と「見える目/正気についてのエッセイ」である。四年前白いパンデミックに襲われた国で行われた総選挙とその後が描かれ、『白の闇』のキャラクターたちが再登場する。
 今回中心となる人物は、この国の首相や大統領、内務大臣などの政治家と、政府機能が転出し軍隊に包囲された首都に潜入する警察官たちだ。
 大統領は実権を伴わない地位を栄誉で飾り立てることに執心し、首相は権力の拡大に余念がない。浅はかで頑固な防衛大臣に、隙あらば首相を陥れようとする内務大臣。国を導くはずの会議は言葉遊びに終始する。その結果、「上層部からの指示は包囲作戦の一般原則しか考えておらず、実施について役所が関わる細かい部分を全く無視しており、そうなると常に大混乱が入り込む」事態を招く。まるで現在論争となっている日本の個人番号制度について語られているかのようだ。保身にしか興味のない与党政府は民主主義のシステムを制御するためと言い繕いながら、人々の自由を制限し脅迫や拷問を行い、白票投票した者による爆弾テロに見せかけて多くの市民を殺す。
 一方、内務大臣のねつ造の犠牲となる容疑者(『白の闇』のヒロインである医者の妻)を捜査し逮捕する命令を受けた警視には、希望を見いだせる。「するべきことと、したくないことの板挟みに」なり、しゅん巡を重ねた結果、自身の将来を捨てて良心に従う決意を固めた。「わたしが内務大臣であるかぎり、そこにない証拠はどんな物でも最後には現れる」「判決が犯罪より先に書かれた事件がある、ということだ」と平然と言ってのける内務大臣の権力に対して孤独な戦いを挑む。政府の企みを明らかにする作戦は成功するのか、言論統制のもとでも良心を残す数少ない新聞社を通じて人々に真実を届けられるのか。
 『白の闇』では、極限状態に置かれた人々が露わにするむき出しの理性や感情が描かれた。『見ること』では、社会制度の限界や民主主義と権力の関係が問われている。
 悪意のない民主主義を象徴するものとして「白」があり、それは市民が投じた白票、爆発の犠牲者の葬儀で人々が掲げた白旗と白い腕章に表れる。葬儀の後の五十万人のデモは平和裏に行われた。政府と共にすべての軍隊と警察が撤退したあとも、首都には混乱も犯罪も起こらなかった。
 その穏やかな市民に容赦なく牙を剥くのが、権力側の政府だ。民主主義制度を守るためと標榜して、人々を拘束しウソ発見器につなぎ、軍隊で首都を取り囲み、地下鉄の駅を爆破した。言論統制、それに唯々諾々と従うマスメディア。一見機能しているように見えるが実は権力に翻弄されている民主主義の姿がそこにある。これと似たような景色は世界中に、そして身近にあるだろう。民主主義国家の事例ではないが思い出されるのは、昨年偶然にも同じ「白」を掲げた中国・習近平体制のゼロコロナ政策への抗議を示す「白紙運動」だ。
 本書のエピグラフには「遠吠えをしろ、と犬が言った」とある。訳者あとがきによれば、サラマーゴは刊行直後のインタビューで「犬はわたしたちです」と述べたという。物語で医者の妻と行動を共にしてきた犬がたどる運命と本書の結末の会話にこめられた著者のメッセージに、私たちはどう向き合い、何と答えればいいのだろう。私たちはしっかり遠吠えをしているだろうか。(翻訳者/ライター)

「図書新聞」No.3609・ 2023年10月07日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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