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上原尚子評 村上春樹『街とその不確かな壁』(新潮社)

評者◆上原尚子
心の再生の物語――村上春樹を読み続ける読者にもたまらない魅力がある
街とその不確かな壁
村上春樹
新潮社
No.3589 ・ 2023年04月29日

■「きみがぼくにその街を教えてくれた。」
 村上春樹の六年ぶりの長編は、この一文で始まる。
 十五歳の〈きみ〉と十六歳の〈ぼく〉はエッセイ・コンクールの表彰式で出会い、文通を始め、やがて月に一、二度、親に秘密で会うようになる。親密になり唇を重ねるようになって、〈きみ〉は〈ぼく〉に、自分の中にある〈街〉のことを打ち明ける。それは高い壁に囲まれた特別な街であり、本当の自分はそこにいて、今ここに存在しているのは〈影〉に過ぎないのだと言うのだ。それ以来、〈きみ〉が語る街の様子を〈ぼく〉が書き留めるという共同作業によって街の細部が決定づけられていき、〈ぼく〉は二人の関係が真実のものであるとの確信を得るが、その関係は突如として絶ち切られてしまう。しばらく失意の中にあった〈ぼく〉はなんとか生活を立て直し、大学を出て社会人となり、それなりに上手くやっていくが、心の奥にある〈きみ〉を巡る秘密の小部屋は依然そのままだ。そして四十五歳を過ぎたある日、〈ぼく〉は突然、地面に掘られた穴の中で目を覚ます。目の前にいるのは、あの〈街〉の門衛だった……。
 ここまでが第一部だ。壁に囲まれた〈街〉で暮らす〈私〉と〈君〉の物語と、高校生の〈ぼく〉と〈きみ〉の物語が交互に展開する構成は『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』(一九八五年)を踏襲し、〈街〉の物語は『街と、その不確かな壁』(一九八〇年)をべースにしているが、ここにあるのは前二作とは全く異なる物語だ。さらに、『世界の終わり~』の大きな特徴である軽妙さは見事なほどそぎ落とされている。細かい言葉を丁寧に変え、硬質な文体を使って描かれた〈街〉は静寂で、深い悲しみに満ちている。
 続く第二部で、〈私〉は現実の世界にいる。〈街〉の確かな記憶はあるが、そこからどうやって戻ってきたのかはわからない。現実の世界に強い違和感を覚えるようになって会社を辞めたものの、どこかに行くあてもない。そうしたある日、図書館の夢を見た〈私〉は、その夢に誘われるかのように福島県の山間部にある小さな町の図書館の館長に就任する。そしてそこで、前館長の子易(こやす)と、司書の添田(そえだ)と出会う。子易は相談役としていつも有益なアドバイスを与えてくれる七十五歳の男性だが、必ずベレー帽と巻きスカートで装い、どこか秘密めいた存在だ。添田は三十代のすらりとした女性で、図書館のカウンター業務の一切を取り仕切っている。古い造り酒屋の一部を改造した図書館の奥には使っていない部屋がいくつもあり、裏には蓋された大きな井戸がある。本格的な冬が近づくと、子易は館長室より暖かいからと〈私〉を半地下の小部屋に案内する。そこにはあの、壁に囲まれた〈街〉の図書館にあったものと同じ、黒い薪ストーブが置かれていた。
 物語はここから意外な方向に読者を導いていく。「意外」という言葉は不適切なのかもしれないが、少なくとも私は読みながら何度も息を飲んだ。
 子易と入れ替わるようにして、一人の少年が登場する。学校には通わず毎日図書館で本を読み漁る少年には、書いてあることを瞬時に記憶する能力がある。そして、〈私〉がある場所で語った〈街〉についての独白を偶然耳にすると、〈街〉の正確な地図を描いて〈私〉に見せ、「その街に行かなくてはならない」と言う。〈街〉に連れて行ってくれと言うのだ。しかし返事を待つことなく、現実の世界から忽然と姿を消してしまう。〈私〉が少年と再び顔を合わせるのは、長い夢の中でのことだった。
 第三部の物語は、〈街〉の中で展開する。高い壁に囲まれた〈街〉には門衛と単角獣と十六歳の〈君〉がいて、〈私〉は図書館で〈夢読み〉の仕事を続けている。そこに少年が現れ、〈私〉にある頼み事をする。その頼み事とは……。
 村上が今、なぜ過去の作品を書き直すことにしたかについては、「あとがき」に詳しく説明されているのでそちらを参照してほしい。
 災害、事故、病、戦争。それ以外にも自分には計り知れない理由で大切な何かを失い、傷つき、心の時計が止まって現実と折り合えなくなることがある。そんな時、人はどうやって生きていけばいいのだろう。本書はそうした、心に癒えない傷を負った人のために書かれた小説だ。〈私〉の再生の舞台が福島であることは、それを示唆するものだろう。
 また、これまでの村上作品に出てきた様々な人物が抱える問題が、もしかするとこうだったのかもしれないと思わせる形で提示されていることも本書の大きな特徴であり、村上を読み続ける読者にはたまらない魅力となっている。
(翻訳者、ライター)

「図書新聞」No.3589 ・ 2023年04月29日(土)に掲載。http://www.toshoshimbun.com/books_newspaper/index.php
「図書新聞」編集部の許可を得て、投稿します。

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