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果たし得ていない約束〈前半〉(恐るべき戦後民主主義)~私の中に三島由紀夫が遺したもの~

『果たし得ていない約束ー私の中の25年』は、昭和四十五年(1970年)七月七日、産経新聞夕刊に掲載された三島由紀夫氏の評論随筆である。
 同年(1970年)十一月二十五日、三島由紀夫氏は、憲法改正のため自衛隊の決起を呼びかけた後に割腹自殺をしました。
 『果たし得ていない約束ー私の中の25年』は、三島氏の実質的な遺書、決別状の意味合いがある文章と位置付けることができるのでしょう。
 私なりに三島氏が遺した文章の一部をかみ砕いてみました。捉え方は人それぞれであり、これはこれとして私の中の三島由紀夫としてもらいたい。何卒、三島由紀夫氏の『果たし得ていない約束ー私の中の25年』を御自身の目を通して感じて頂きたい。

~恐るべき戦後民主主義~


 私の中の二十五年間を考えると、その空虚に今さらびっくりする。
 昭和20年、大東亜戦争終戦から今までの私自身を振り返り、考えてみた。終戦からの私は、全く価値も無く、心のよりどころも、心すら失っていたことに今さらびっくりする。

 私はほとんど「生きた」とはいえない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ。
 私はほとんど「生きた」といえない。終戦後のアメリカの対日占領政策によって、古代日本から継承してきた国家神道は廃止され、皇室を削られ、道徳、憲法、規律、教育が、日本にとって忌み嫌い憎むべきものに変えられたことを知っていながら、それを取り戻す行動を全くせず、死んだかように感じないふりをして通り過ぎたのだ。

 二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている
 アメリカの占領時、私が憎んだ対日占領政策は、日本の弱体化、欧米諸国の優位性を永続させるものであり、それは天皇を中心とした国家と国民の尊厳を踏みにじり、日本が再びアメリカの脅威となることを防ぐための非軍事化とアメリカの都合で制定された憲法による偽善に満ちた戦後民主主義国家の樹立が目的であった。
 このアメリカの占領時の私が憎んだ対日占領政策は、形を変えて、現在も日本と日本人に生き永らえている

 生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。
 生き永らえているどころか、驚異的な繁殖力で、日本と日本人に完全に浸透してしまった。

 それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきバチルス(つきまとって害するもの)である。
 私が憎んだ対日占領政策は、アメリカの優位性を永続するための戦後民主主義と世界の平和及び安全の脅威の防止の名のもとで、古代から受け継がれている神聖なる天皇を中心とした日本国家を否定させ、自国の平和と安全を自ら守れないにも関わらず武力を放棄させるという偽りの善であり、これは将来にわたり絶えず日本に害を与える恐るべきものである。

 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。
 アメリカの優位性を永続するための日本国憲法の下での戦後民主主義や自国民の平和及び安全を守ることが出来ない武力の放棄という偽りの善と、象徴と平和という美辞麗句で真実を隠し国民を騙すでまかせは、昭和26年、サンフランシスコ平和条約の発効によりアメリカの占領が終わると共に無くなるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。

 おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。政治も、経済も、社会も、文化ですら。
 おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、自国の政治も、経済も、社会も、文化ですら、古来から続く日本の本質を棄てアメリカを先頭とした欧米諸国の優位性を永続させることを日本人の体質とすることを選んだのである。

 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。
 私は昭和二十年から三十二年ごろまで、政治や宗教など他のすべてのものの目的から束縛されずに、純粋に芸術の美を目的として扱われねばならないとする芸術至上主義者で何事にも逆らったりしない穏やかな人だと思われていた。

 私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。
 私はただ冷笑してのだ。戦後、本来あるべき日本を放棄しようとする風潮や事象などに対し、ある種のひよわな青年は抵抗の方法として、さげすみ、見くだした態度で笑うしか知らないのである。そのうち私は、戦後の日本をただ冷笑し、戦後の社会の風潮や規範など,あらゆる物事をさげすみ、馬鹿にしてながめる見方や無視する自分に対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。

 この二十五年間、認識は私に不幸をしかもたらさなかった。私の幸福はすべて別の源泉から汲まれたものである。
 終戦後の日本の風潮や事象などを見くだして無視してきたことは、私にとって不幸しかもたらさなかった。私の幸福は戦後日本とは別の源泉である本来あるべき日本からすべて湧き出たものから生まれたものである。

 なるほど私は小説を書きつづけてきた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。その結果賢明になることは断じてない。そうかと云って、美しいほど愚かになれるわけではない。
 確かに私は本来あるべき日本の立場に立ち小説を書きつづけた。戯曲もたくさん書いた。しかし作品をどんなに書いても、作者の私にとっては、終戦後失われていく本来あるべき日本を目の当たりにし、自分が感じたことを書きつづけただけで、それは口にした物を排泄しつづけるのと同じである。作品をいくら積み重ねても、作者にとっては、排泄物を積み重ねたのと同じことである。書いた結果、私が賢明になることは決してない。そうかと言って、純粋に芸術の美だけ追究する芸術至上主義者のような美しいほどの愚かにはなれるわけない。

 この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。思想的節操を保ったために投獄されたこともなければ大怪我をしたこともないからである。
 終戦後、本来日本人が守るべき魂、精神を堅く守りつづけたという自負は多少あるけれども、そのこと自体対して自慢にならない。日本人が守るべき魂や精神を守るために投獄されたこともなければ我が身を犠牲にする行動を起こしたこともないからである。

 又、一面から見れば、思想的に変節しないということは、幾分鈍感な意固地な頭の証明にこそなれ、鋭敏、柔軟な感受性の証明にはならぬであろう。つきつめてみれば、「男の意地」ということを多く出ないのである。それはそれでいいと内心思ってはいるけれども。
 
又、思想的観点から見れば、日本人が守るべき魂、精神を堅く守りつづけたことは、幾分、鈍感で頑固に維持を張っていただけであり、終戦後、変わりゆく日本人や日本の将来にわたる危険性を鋭く敏感に感じ取った証明とはならないだろう。つきつめてみればこれは単なる私個人の「男の意地」で他の理由はあたらない。それはそれでいいと内心思っているけれども。

 それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。
 それよりも絶えず心から離れないのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。終戦後、変わりゆく日本と日本人を否定し、批判することにより、私は本来あるべき日本を取り戻すためのあらゆる「約束」をしてきた筈である。政治家ではないから国民の生活水準を上げる等の実際的利益を与える等の約束を果たすわけではないが、政治家の与える実際的利益より、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束、それは終戦により失われた本来あるべき日本を取り戻すという「約束」を私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。

 その約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた戦後民主主義の時代二十五年間、否定しながらそこから利益を得、のうのうと暮らして来たということは、私の久しい心の傷になっている。
 
本来あるべき日本を取り戻すという約束を果たすためなら文学なんかどうでもいい、という考えが時折頭をかすめる。これも「男の意地」であろうが、それほど否定してきた終戦から今までのアメリカの優位性を永続するための偽善に満ちた戦後民主主義の時代を、口では否定しながらそこから利益を得て、日本の魂をないがしろにしているのもかかわらず、のうのうと暮らして来たということは、終戦から今までの長い間、心の傷になっている。

~からっぽな経済大国に~


 個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。
………
(中略)私は人生をほとんど愛さない。いつも風車を相手に戦っているのが、一体、人生を愛するということであるかどうか。

 ここでは三島由紀夫氏自身の戦後やってきたこと、つまり行動において目指していたことを自身が論じている。ここの文章は難解であり、三島氏が「まだそれはほとんど十分に理解されていない。」と指摘するとおり、正直、完全には理解出来なかった。ただ多くの方は読み違えているのではないかと思う。
 「私の肉体と精神を等価のものとする」
 「肉体のはかなさと文学の強靱との、又、文学のほのかさと肉体の剛毅との、極度のコントラストと無理強いの結合とは、私のむかしからの夢」
 「作る者と作られる者の一致」
等の文から、そしてさらに
 「死刑囚たり且つ死刑執行人(死刑囚であり、同時に死刑執行人)」たることが可能になる」
という文から、三島氏は文学、芸術の、美の終着点として死と捉え、割腹自殺したかのように読み取れてしまうだろう。
 『美について』というエッセイの中で三島氏こう書している。 
 「美は死の中でしか息づきえない。」
 三島氏は作品、エッセイ、発言等で美と死の関係を多く書いており、そこから、死をもって自己が追求する美を体現したのではないかと考えてしまうだろう。
 これは大きな誤りと考えます。
 なぜなら、三島氏は、『純粋に芸術の美を目的として扱われねばならないとする芸術至上主義者』ではないとここで書しているからである。
 「文学なんかどうでもいい」と考えれば、文学の為に死に得ない。
 

 二十五年間に希望を一つ一つ失って、もはや行き着く先が見えてしまったような今日では、その幾多の希望がいかに空疎で、いかに俗悪で、しかも希望に要したエネルギーがいかに厖大(ぼうだい)であったかに唖然とする。これだけのエネルギーを絶望に使っていたら、もう少しどうにかなっていたのではないか。
 
終戦後、きっとそのうち本来の日本に立ち返るだろうという希望は、一つ一つ失って、もはや将来の日本が見えてしまった今日では、その希望は、どれほど幻想のように中身の無い虚しいもので、どれほどその希望が自己の欲求を満たそうとするような低俗で下品なものであって、しかもきっとそのうち本来の日本に立ち返るだろうという希望に要したエネルギーがどんな厖大(ぼうだい)であったか、唖然とする。これだけのエネルギーを、このままでは古代から受け継がれていた天皇を中心とした国家が断ち切られ、武力を放棄したことにより他国に侵略され吸収されるだろうという絶望に使っていたら、もう少し日本はどうにかなっていたのではないか。

 私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。
 私はこれからの日本に、取り上げるほどの本来の日本に立ち返るにちがいないという希望を、将来に向けてつなぐことができない。このまま行ったら古代から受け継がれている神聖なる天皇を中心とした「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。「日本」はなくなって、その代わりに、生命力や情感が無く、日本という名前だけの中身も無くからっぽな、何をもって日本なのかが分からない曖昧な、どれにも属さない、富裕な、経済的利益に繋がることだけを優先する抜け目のない、日本とは全く別の、ただの経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。



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