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詩的であるということ|「ということ。」第3回

 詩的であるということは、私の健康にとってなかなか大切だ。
 例えば、朝ごはんには(昨晩酒のつまみにした残りの)チーズと(近くの自販機で100円で売っている)サイダーを体に入れたり、夕がだんだんと濃くなる時間に空に紫煙(つまりただの煙草の煙)を浮かべてみたり。どんな些細なことも、詩的にできる気の持ちよう。

 それは、何も特別おしゃれである必要はない。泥臭くても、おもしろみがなくてもいい。じゃあどうやって詩的になればいいのかというと、つまり、ちょっと気どることだ。まったくかっこよくないことも、少しだけかっこつけてやってみたり、優雅ぶってみたり。まるで自分が誰かの物語の登場人物であるかのように振舞って、それに満足することがいいらしい。
 誰かが書いた物語っていうのは、ロマンスかもしれないし、ミステリーかもしれない。なんだっていい。起承転結の中に自分がいて、その途中にいくつかの登場シーンを“いただく”のだ。そう、台本が用意されている感じ。かっこよく、時には情けなく、演じること。

 詩的に振る舞うことができるようになると、シンクに洗い物を溜めてしまった時や、歩ける距離なのにタクシーを使ってしまおうかと悩む瞬間に、きっと正しい振る舞いができる。やれやれと溜息をつきながらでも洗い物を片付けるし、今日は天気がいいなあなんて、鼻歌を歌いながら目的地まで軽やかに歩き出せる。……きっと。

 要するに私は、詩的な自分でいるごくわずかな時間を、けっこう気に入っている。底意地の悪い怠惰な自分なんて、どっかに行ってしまったように思える、健康的な一瞬。
 それがないと、私、ただの嫌な女になってしまうし。

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