【小説】愛の稜線【第7回】#創作大賞2023
土鍋が音を立てる。
十一月中旬になって、どうやら今シーズンはじめて出してきたらしいそれは、昆布の香りがして、寒かった部屋を暖めた。
「ほな、白菜も入れて」
カウンターキッチンのシンクに立つ母は、その音を聞いて、そうわたしに話しかけた。
金曜の夜、珍しく家族四人がそろい、食卓に向かった。
言われた通りに白菜を鍋に入れ、煮立つのを待つ。ごちゃごちゃとテーブルに置かれていたリモコンや書類は、隅にばさりとまとめて置いた。母のお気に入りの旭ぽん酢とお椀が席の前に置かれている。
しゅうしゅうと再び鍋が音を立て、母がまるで儀式のように重々しく蓋を外した。
「いただきます」
父と弟はつぶやくようにそう言って、箸を手にした。
母はお玉を手にして、わたしたち三人のお椀に鍋の中身をよそっていく。
「自分でするのに」
小さく言って、その行為を止めようとする。しかし、母の、
「野菜もバランスよく食べな」
という声に、わたしの声は消されていく。
わたしも父も弟も、体を小さくして、乱暴に盛られたお椀に箸を伸ばした。母を刺激するのはまずい――言葉にはしなくても、互いの様子でそう考えていることは読みとれた。
えぐれたように形の悪い豆腐を、ぽん酢で喉に流し込む。母の声がしなければ美味しいであろうそれも、この食卓では味らしい味がしない。
やはり譲さんのマンションに行った方が良かっただろうかと、鶏肉を咀嚼しながら考える。今日は残業で遅くなると、彼はLINEで伝えてきた。だから彼のマンションには行かず、自宅に帰ることにしたのだが、この食卓では食事を楽しむという単純な行為すら難しい。
母はお玉で、弟の椀にタラの身を入れた。
「魚を食べると賢くなるから」
どこで仕入れたのか怪しい知識は、弟の身体をビクリとさせた。それでも、彼は黙って盛られたタラを口に運んでいる。
「そういえば、あんた、金曜の夜にうちにいるの、珍しいな」
弟の方を向いていた母が、急にこちらを向いた。
「そうかな」
なるべく小さな声で答えて、首を傾げる。
「そらそやで。バイト、バイトって、いっつもおらんし。そんで、友だちのとこに泊まったりしてるやんか」
確かに、最近、金曜の夜も、土曜の夜も、譲さんのマンションに行くことが増えている。外泊の際の嘘には、バイトや友だちを使う。
「今日、居酒屋、珍しく人手が多くて。疲れたから休みにしてもらった」
椀から目をそらさずに、一気に言う。柔らかくなった大根を箸で割いて、口に入れる。
「せやかて、学生やのに、いっつも遊んでばっかやん」
母は同意を求めるように、
「な?」
と父を向いた。
父は、うーん、と曖昧な声を出す。
「ほら、お父さんかてそう思ってるんや」
父の声を同意と捉えたのか、母はわたしを標的にする。
「ちゃんと連絡してるやん」
「そういう問題ちゃう」
「だいたい、お小遣いかて貰ってへんのやから、バイトくらいせな生活できへん」
「生活するくらいやったら、そないにバイトせんでも、家庭教師かなんかしたらええんや」
「家庭教師できるほど賢くないし」
父と弟は頭の上を飛ぶ弾をよけるようにして、食事を続けている。
「せやかて……」
まだ会話を続けようとする母をさえぎり、
「ごちそうさま」
とお椀をシンクに運ぶ。
「まだ話が終わってへん」
「食事は終わった」
乱暴に椀と箸を洗い、水切りに伏せておく。
まだ何かブツブツ話し続ける母をそのままに、階段を上がって自室に入った。
ため息をついて、ベッドで膝を抱える。週末はいつも譲さんと遊び歩いているから、文句を言われるのは仕方がない、そう思ってはみるものの、釈然としない。母の存在が、自宅からわたしを遠ざけているというのも、確かなことだからだ。
鞄から、スマートフォンを二台取り出す。
自分で買った方には着信はなく、エルドラド用に買って貰った方には、グループLINEのメッセージが溢れていた。
「今夜も盛り上がっていきましょう!」
マスターのメッセージに、
「行きまーす」
「楽しみましょう」
というメッセージやスタンプが並ぶ。
しばらく考えてから、わたしはクローゼットから服を取り出した。ミニスカートに、オフショルダーのニット、薄手のコートを取り出して、着替える。これにロングブーツを合わせれば、きっとスタイルよく見えるだろう。
口紅をひいてから、階段を下りる。
「あんた、どこ行くん?」
「友だちんとこ」
「こんな時間から……」
「泊まってくるから」
わたしたちの声に、まだ食卓にいる父も弟も反応を見せない。母の声をそのままに、わたしは玄関を飛び出した。
手元の時計を確認する。二十一時。マンションで、譲さんの帰りを待てばいい。
広い道にでて、タクシーを拾う。譲さんに貰ったお小遣いはまだ充分にある。大阪市内のマンションの場所を告げ、後部座席に頭を沈める。
先週の金・土は遊びには行かず、譲さんとマンションで過ごした。自宅よりはずっと快適だったが、結局ずっと気分は上向きにならなかった。彼の告白から、どうやって彼に対峙すればいいのか、自分でも気持ちが定まらなかったのだ。
ひっかけてきたポシェットから、スマホを取り出す。エルドラド用のそれには、女の子が踊っている写真がLINE画面にアップされている。
「すみません。方向変えてもらえますか。島之内。島之内にお願いします」
マンションの方向に向かっていた運転手にそう告げて、スマホの画面に視線を戻す。
譲さんには「エルドラドに行きます。待っているので、来てください」とメッセージを打つ。グループLINEには「今から行きます」とメッセージを送った。
ぼんやりと夜道を眺める。御堂筋を走っていたタクシーは、横道を進んでいく。何度目かの角を曲がると、ハングルと、日本語ではない漢字の溢れるエリアに入る。譲さんのように道案内して、エルドラドの入るマンションの前で止まってもらう。
マンションのエレベーターを降りて、店のチャイムを鳴らす。いつものように扉が開き、マスターが少し驚いたようにわたしの顔を見た。
「あとから譲さんが来ます。とりあえず一人で待っておきます」
そう言うと、納得した様子でカウンター席に案内された。
スマートフォンを確認すると、「わかった。なるべく早くそっちに行く」という譲さんからのメッセージが見られた。
「今日、一人?」
声をかけられ、振り向くと、マリちゃんがアニメのキャラクターらしきコスプレをして立っている。
「ここで待ち合わせです」
マリちゃんはふうん、と興味なさそうに相槌を打つと、カウンターの他の男性客の方に行ってしまった。
マスターに頼んだカクテルを飲みながら、店の様子を窺う。女性客はマリちゃんとわたしともう一人。男性客は、三十くらいの男性が二人と、四十がらみの男性客が一人。いつもよりも客は少ない様子だった。
男性客はチラチラとわたしに視線を送ってくるが、無視をすると、それ以上かまってくる様子は見られない。わたしはぼんやりとカクテルに口をつけた。
二杯目のカクテルを飲み干そうとグラスを傾けていると、
「珍しいやないか」
と譲さんが息を切らして、カウンターの隣の席に着いた。
「残業終わったん? 早かったね」
「急いで終わらせたんやで、ナオミちゃん。一人でこんなとこ来たら危ないやないか」
彼は声を潜めてそう言うと、マスターにロックを頼んだ。
「危ないかな?」
「そらそうや。他の男らがみんな見とるやないか」
「そう? でも、そういうの、好きでしょ」
「そらそうやけど……俺がおらんかったら、そんなんも見られへんやないか」
慌てた彼の様子に、気持ちのどこかが満たされるのを感じる。彼のネクタイを握って、唇を合わせた。
「ナオミちゃん……今日はなんかいつもとちゃう感じやな」
唇を話すと、譲さんは惚けたような声を出す。
「どう違うの?」
「なんや、色っぽいな」
ふうん、と返事をして、新しいカクテルを頼む。譲さんは座ったまま、わたしの腰に腕を伸ばす。
「前に言ってた話やけど」
カクテルグラスを手にしたまま、わたしはそう切り出した。
「話って?」
「譲さんの『自慢』の方法」
彼は下を向く。
「ナオミちゃんが嫌やったら、忘れて。無理矢理させたいわけじゃないねん」
「もし嫌じゃないって言ったら?」
譲さんは顔を上げた。
家を出たときから、気持ちがイガイガしているのが自分でもわかった。譲さんを試して、困らせたかった。
「それは……ほんまにええん?」
譲さんの喉は、生唾を飲み込むように動いた。
「まだ、ええかどうかは決めてへん。どんなもんなんやろって思って」
「それはな、ナオミちゃん」
彼は必死に説明をする。わたしの嫌な男とはさせないこと。安全には万全を期すこと。自分が見張っていること。嫌だったらいつでもストップをかけていいこと。
必死に言い連ねる様子を見て、イガイガした気持ちが和らいでいくのを感じた。懸命ににわたしの機嫌を取ろうとする譲さんを見ていると、実際にそれをした場合、彼がどんな風になるのかを知りたくなった。加えて、わたしがどうなるのかも。
譲さんとできたように、他の誰とでも、わたしは行為ができる気がする。けれど、実際のところは――好奇心が頭をもたげる。
「わかった。そしたら、してみてもええよ」
わたしがそう言うと、譲さんは顔を紅潮させた。
「ほな……」
譲さんは店内をうろうろと歩き始める。しばらくすると、三十くらいの男性を連れ、席に戻ってきた。
「ナオミちゃん、彼、はまちゃんていうねんて」
「はまちゃん」はぺこりと頭を下げた。譲さんと同じくらいの背丈だが、彼よりも少しやせている。少し垂れ目で、人の良さそうな顔だ。
わたしは頷いて返した。
「そしたら、あっちで、ナオミちゃんと遊んでくれへんかな?」
はまちゃんは驚いたような顔をする。
「え、ほんまですか?」
そう言われて、譲さんはうれしそうに頷いた。
わたしは手を引かれ、はまちゃんはそれについてくるようにして、わたしたちはピンクのカーテンのスペースに足を踏み入れた。
この店に来たことはあっても、このスペースに足を踏み入れたことはない。カウンター席からはただカーテンがめちゃくちゃに配置されているように見えたが、カーテンは、まるで個室をいくつも作るように、小さなスペースを区切っているのがわかった。
その空間の一つに、わたしは手を引かれる。そこには、一人用だろう、小さな敷き布団が置かれ、ティッシュやコンドームの入った箱が押かれているのが見えた。
はまちゃんはもじもじと身体を動かしながら、こちらの様子を見ている。
「ナオミちゃん、服、脱げるか?」
薄暗い空間だ。カウンターのあたりから、ほのかに明かりは伝わってくるが、あちらからはこちらの様子ははっきりとは見えないだろう。けれど、人の気配は感じる。カーテンごしに、何が行われるのかを知ろうという人の気配が。
それでも、わたしは譲さんの言う通りに、ニットを下からめくるように脱ぎ捨てた。スカートも下に落とす。下着姿になると、はまちゃんも服を脱いだ。
「ええんですか、こんなにかわいい子を……」
はまちゃんはそう言いながらも、わたしの肌に触れる。唇と重ね、下着を外される。
ぎこちなく、それでも全身に、はまちゃんは舌を這わせる。やがて足の間にその舌が触れた瞬間、わたしは小さく声を上げた。
譲さんはスーツ姿のまま、はまちゃんに触れられているわたしの頭を撫でる。
はまちゃんは、やがて、じれるようにして、コンドームの入った箱に手を伸ばした。一瞬、確認するように譲さんの顔を見て、すぐにわたしの足を掴む。
始めはゆっくりと、それから性急に、はまちゃんはわたしの中に入ってくる。
それは不思議な感覚だった。人に見られるという感覚。カーテンの向こうの人の気配。こちらを覗こうとするいくつもの視線を思い描くと、なぜかわたしの肌はひりついた。
はまちゃんが動くたび、わたしの視線はさまよう。譲さんはそんなわたしの髪を撫で、指を掴んだ。
はまちゃんも譲さんも同じだ。同じ行為をしているにすぎない。そう思っても、肌は、ゆっくりと快楽の波に飲み込まれていく。やがてその波が突然大きくなったとき、動きが止まった。
「かわいい、かわいいなぁ」
譲さんは、快楽に疲れたわたしの肌を撫でる。はまちゃんの気配が消えていく中、彼はわたしに何度も唇を合わせた。はまちゃんが触れた部分をなぞるように、彼は指を這わせる。
「ナオミちゃんは俺の宝もんや」
譲さんはそう言うと、スーツ姿のままわたしを何度も抱きしめた。
※
掛け布団のどこかに、すうすうと風が通った気がした。枕元にあるスマートフォンを手に取ると、まだ朝の五時を示している。今日は日曜だ。こんなに早く起きる必要はない。スマホを戻して大きなベッドで横に腕を伸ばすと、譲さんのいた空間がぽっかりと空いている。
なぜだか胸騒ぎがして、わたしは譲さんに借りたスウェット姿のまま、裸足で寝室を出た。素足で歩くと、フローリングの冷たさが足に伝わってくる。もう十一月も終わりに近づいている。朝晩はぐっと冷え込むようになってきた。
それでも、そのまま廊下に進むと、いつもは閉ざされた部屋――譲さんのカメラなどの機材が置かれた部屋の扉が開かれて、廊下に光が漏れているのが見えた。
そっと扉に近づき、部屋の様子を窺う。この部屋にはいつも鍵が掛かっていたから、部屋の中を見るのも始めてだ。
暗かった寝室から、目が慣れるのに時間がかかる。部屋の中で、大きなモニターに向かう譲さんの後ろ姿が見える。六畳ほどの部屋には、壁を囲むようにして、カメラの機材らしきものやコンピュータらしきものがぎっしり置かれている。その一角には、ポスターらしきものが見える。わたしは部屋に一歩足を踏み入れた。
「ナ、ナオミちゃん?」
気配に気付いたのか、譲さんが振り向いて、まるで悪戯が見つかった子供のような声を上げた。
「起きたらいなくなってて。部屋の明かりが灯いとったから」
大きなディスプレイには、昨日エルドラドで撮った、わたしと男が絡み合う写真が大映しになっている。
「昨日の?」
エルドラドで他の男と寝るようになってから、譲さんは行為をしている写真を撮るようになっていた。ストロボを焚くと、一瞬、カーテンの内側が、外にいる人たちに見える。それは、わたしの肌をひりつかせた。
「そ、そうや。昨日の写真、確認しとって」
ふうん、と返事をして、部屋の中を見渡す。ポスターに見えたそれは、サンダル姿の足が大きく映されたものだった。
「これって……」
記憶が蘇る。随分前、夏に、わたしたちはひまわり畑に撮影に出かけた。多くの写真の中に、失敗したと思われる、その写真があったはずだ。
譲さんは下を向きながら、
「よう撮れてると思って」
と言い訳のように小声を出した。
「ひまわり、写ってないやん」
「そらそうやけど……」
「最初から、こんな写真を撮りたかったん?」
聞くと、彼は黙り込んだ。
「ひまわりじゃなかったんやね、目的は」
「そら違う。ひまわりを撮るつもりやったけど、こんなんも撮れたから」
言葉はたどたどしく、嘘をついているのは明白だった。
「まあ、別にええけど」
彼の性的嗜好が通常のそれでないことは、すでにわかったことだ。
ディスプレイに近づき、映し出された写真を見る。他の男と絡むわたしの身体の写真はいくつものウィンドウで開かれている。わたしはマウスを手にとって、そのウィンドウを勝手に閉じていった。写真の入っているフォルダも閉じる。ホーム画面は、ポスターと同じ、わたしの足がアップになっている写真が使われている。
「やっぱり、こんなん好きなんや」
強い口調で言うと、彼はうなだれるようにして頭を下に向けた。
「ま、ええわ」
あと一月でクリスマスだ。クリスマスには何が欲しい――この前そう聞かれて、わたしはパソコンと答えた。スマートフォンもタブレットも持っているが、自分用のパソコンは持っていない。だから、貰えるのならそれがいいと思ったのだ。譲さんは少し意外そうな顔をしたが、好きなものを買ってくれると約束したばかりだ。
それに、他の男と絡み合う行為に比べれば、足の写真などとるに足らない事に思えた。
わたしは欠伸をして、もう一度ベッドに戻ろうと扉に足を進めた。
「ナオミちゃん」
腕を掴まれる。
「ナオミちゃんが起きたんやったら、お願いがあるねんけど」
エルドラドで他の男に抱かれた後は、マンションに戻って譲さんに抱かれるのが習慣になりつつある。けれど、昨夜はわたしが酔いつぶれてしまい、彼とはそういう行為をしないままだった。
「したいの?」
「それもあるんやけど……」
彼は、また、ねっとりした目でわたしを見る。
「ちょっとええやろか」
彼は寝室に、機材の置かれた部屋にあった椅子を運ぶ。それから、ノートパソコンと、プロジェクターらしき機材も運んできて、椅子の上に置いた。
カーテンの引かれた薄暗い寝室で、それらは音を立てて起動する。低い音を立ててプロジェクターは寝室の壁にパソコンの画面を映し出す。譲さんは何やら操作し、わたしの手を引いて、ベッドに寝かせた。
頭のすぐ後ろにある壁に目を向ける。そこには、他の男と絡み合うわたしの姿がうっすらと映っていた。しばらくすると、写真は入れ替わる。スライドショーに設定されたらしく、壁には次々に、違う男と絡むわたしの写真が映し出されていく。
譲さんはそれを見ながら、わたしのスウェットに手をかけた。
「え、これ見ながらすんの?」
言葉にはそう出したものの、止めるのも面倒になり、彼の好きにさせる。
壁の写真は、相手や角度を変えて、わたしの裸体を映している。彼は映った行為をなぞるようにしてわたしに触れ、肌に舌を這わす。
エルドラドではまちゃんと「遊んで」から、譲さんはわたしに次々と相手を紹介して「遊ぶ」ことを要求した。拒んでもよかったのかもしれない。わたしはどちらでもよかったのだから。けれど、わたしは彼の要求を受け入れ、「遊ぶ」ことで、かすかな快楽を得るようになっていた。
譲さんは慌ただしく、口の端でコンドームの袋を破り、わたしの中に入ってくる。
その最中、わたしは顔を上げて、壁に映し出される写真を眺めた。はまちゃんとも、まぁくんとも、名前を忘れた誰かとも、こんな行為をした。そして、写真は、まるでわたしに、忘却を許さないかのように、その行為をまざまざと見せる。
「ナオミちゃん、愛してる」
快楽の寄せてくる波に漂いながら、わたしの上に乗る男の顔をじっと眺める。それは慣れ親しんだ顔でありながら、知らない誰かのそれであるようにも思われた。
わたしは誰と抱き合っているのだろう――わたしは男の背中に爪を立てた。
※
大練習室は、二十畳ほどの広さがあるが、二十人ほどの人間が集まると、さすがに狭く感じられる。グランドピアノがそこにあれば尚更だ。化粧や香水の匂いが、みっちりとした部屋に漂っている。
昨日の日曜を譲さんのマンションで過ごし、月曜のこの日は、一限から合唱の授業を受けていた。ホールでの全体練習もそこそこに、パートごとに別れての練習をすることになり、狭い部屋に二十人近くの人が身を小さくして楽譜に向かっている。
本当は、日本人はほとんどがソプラノで、アルトの聖域の人間なんてほとんどいないから、わたしが振り分けられたアルトのパートは、本来ソプラノの人間を無理に寄せ集めたことになる。
ピアノ科内の当番で、パート練習の伴奏をすることになったエリカは、先程から何やら難しい顔で楽譜に向き合っていた。わたしの伴奏はいつもやってもらっているが、合唱となると勝手が違うらしい。
「最初はEのところから、遅いテンポで確認していきます」」
パートリーダーの四回生が、エリカの横で指揮をする。三拍子のリズムで、ゆっくりと歌詞をピアノの音に乗せていく。
ジョン・ラターの「ダンシング・デイ」は現代の聖歌でありながら、どこかポップな要素が入っていて、聞く分には楽しい曲だ。けれど、歌ってみると、十四、五世紀にかかれた英語の歌詞は難読だし、大人数の歌声のピッチを揃えるためにビブラートなしに歌うのは、なかなか骨の折れる作業だった。
「loveのvの発音が揃っていません。意識して歌ってください」
月曜の朝から声の調子がいいはずはない。それでも、わたしたちはオクスフォード版の楽譜と指揮とに交互に目を動かしながら、なんとか声を揃えて、何度も同じ箇所を歌い直す。
「ダンシング・デイ」のラストは、愛を歌えと高らかに歌いあげる。聖歌だから、愛が何を指しているのか、キリスト教徒でないわたしにはわからない。
それでも、わたしたちは何度もloveの出てくるその曲を、なんとか最後までピッチを揃えて歌い上げた。
パートリーダーがほっとした顔をする。
「そしたら、次回は全体練習をホールで行います。復習しておいてください」
伴奏していたエリカもほっとした顔で、わたしと一緒に練習室を抜け出す。
「伴奏、お疲れ」
楽譜を手に、そう声をかけると、エリカは、
「ほんま、疲れたわ。合唱の伴奏なんて始めてやし」
と疲れた表情でため息をついた。
次の二限は空きゴマだ。
練習室の並ぶ音楽棟の小さなスペースに設けられたソファに、エリカは腰を下ろした。
「ピアノ科は伴奏あるし、大変やな」
声をかけて、わたしも座る。昼食をとるにはまだ時間が早く、かといって、練習をする気にもならない。
「さっきの歌詞、どんな意味なんやろなぁ」
エリカは鞄からステンレスボトルを取り出しながら、つぶやくように言う。蓋を開けると、コーヒーの香ばしい香りがあたりに広がった。
「シング・オー・マイ・ラヴ?」
「そう、そこ」
「ラヴは愛やろうけど、その意味がなぁ」
「な? わかりにくいよな」
わたしたちには、古文のような英語はわからない。
「たぶん、意味はあるんやろうけどなぁ」
わたしもそう言いながら、ポシェットから小さなペットボトルを取り出す。歌った後は喉の乾きが酷い。ペットボトルの中の水を一気に飲み干し、入れ物を指で潰していく。
「ボランティアサークルはどうなん?」
話題を変える。聞くと、エリカはスマートフォンを取り出して、LINEの画面をわたしに見せた。
「今日はお疲れ」
「ピアノ、助かりました」
「今度、ご飯でも行きませんか?」
画面には、同じ人からいくつもメッセージが並んでいる。あきらかにエリカに好意を抱いているそれを見て、ダイヤモンドの客とのLINEを思い出す。
「ボランティアサークルの人?」
「そう。たしか、副代表かなんかやってる人。最近こんなん来るようになって」
「うっとうしいなぁ」
わたしがいつものようにそう言うと、エリカはスマホを両手で握るようにして持ちながら、首をかしげた。
「うーん、そうでもない、かなぁ」
「え? そうなん?」
てっきり同意するとばかり思っていたから、肩すかしを食らったような気分で、エリカの顔を見る。
「悪い人でもないから」
「でも、ご飯とか誘われてるやん」
「うん、まあ、一回くらい行ってもいいかなって」
ミニスカートにピンヒールといういつもの格好で、エリカは、いつもなら言わないような事を言う。
「イケメンなん?」
たしか、イケメンでなければ恋愛対象にならないと豪語していたはずだ。
「そうでもないねん」
エリカはまた意外な言葉で否定をすると、スマホの画面から、集合写真らしき写真を出した。
「この人」
エリカが指さした男性は、チノパンにTシャツといったシンプルな服装で、メガネをかけている。小さな写真だから、よくわからないが、少なくとも「イケメン」の分類には入らないのではないかと思う。
「なんか、真面目そうやなぁ」
当たり障りのない感想を伝える。
「うん、なんかそんな感じの人」
エリカの話によれば、その彼は関西の私大の上位校に通っているらしい。ボランティアサークルでの経験も長く、他のメンバーからの信頼も厚いらしい。彼女は、真面目な人だから、と何度も強調する。
「いくつ?」
「今、三回生やから、二十か二十一かな」
心なしか、エリカの声は弾んで聞こえる。
「エリカは、好きなん?」
触れていいかどうか、迷いながらも聞く。
「まだ、そんなんじゃないねん」
彼女はまた首を傾げる。
「けど、嫌じゃないねん。こういうLINE貰っても」
ダイヤモンドの客に貰ったLINEは、笑い話にしていたはずだ。
「それって、すごいことやん」
なぜだか声が上擦る。エリカがまるで知らない人のように見える。
「そうなんかな」
彼女はLINEの画面に目を落としたままだ。
「なんか、ええなぁ」
取って付けたような言葉で、会話を続ける。コンパに行った夜は同じ場所にいたはずなのに、いつの間にか、彼女だけが健全な、そして遠い場所に行ってしまったような気がする。
「譲さんはどうなん?」
「相変わらずやで」
「もうすぐクリスマスやん。何かくれるんちゃうん?」
「パソコン買ってくれるって」
答えると、エリカは腹を抱えて笑った。
「何それ」
「何が欲しいもんないかって聞かれたから、パソコンって言ってん。そしたら、買ってくれるって」
「クリスマスプレゼントにしては変わってるけど、でも、ええなぁ」
エリカにそう言われて、どう反応していいのか戸惑う。端から見たら、お互いの恋人のことを語り合う、普通の会話に見えるだろう。けれど、わたしは強い焦燥感に駆られていた。
エリカが抱くような男性に対する好意、それが、わたしには欠落しているような気がする。「情」という言葉なら、なんとなく理解できる。「友情」も。けれど、譲さんに対しても、他の誰に対しても、エリカが抱くような好意を、わたしは誰に対しても抱いたことがない。
love――先程の歌詞が蘇る。神への愛? あるいは、隣人へのそれ? ――わたしにはどちらも理解ができない。そして、この先にも、エリカのような感情も、歌詞にあるloveも、どちらも沸いてくる予感が全くしない。
「エリカも、クリスマス、楽しみやん」
言葉が震える。
「まだどうなるか、わからへんねんけどね」
エリカの頬は紅潮している。
わたしはきっと、彼女のようには生きられない――ふと、そんな言葉が心の奥から沸き上がってくる。わたしは不必要なことを知りすぎて、必要なことを知らなさすぎる。
先程のメロディーが頭に蘇る。「愛を歌え」と多くの声が歌い上げる。
けれど、恋も愛も知らないわたしは、何を歌えばいいというのか。
「そろそろランチ行こか。混む前に」
腕時計を見て、エリカはソファから立ち上がる。
なるべく笑顔に見えるよう、口の端を上げて、わたしも立ち上がる。
まるで恋愛に興じる女子大生のように、そして、そう見えるように願いながら、エリカの後ろを歩く。
それでも、ランチでまた恋愛の話をする自分を想像した瞬間、背中にゾクリとした汗が流れるのを、わたしは感じた。
(続く)
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