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【小説】愛の稜線【第1回】#創作大賞2023

【あらすじ】
主人公の「わたし」は女子大に通いながら、大阪・梅田のガールズバー「ダイヤモンド」で、源氏名「ナオミ」としてアルバイトをする。無口な主人公は客付きが悪いが、四十代の唯一の客「じょうさん」は、金を使ってくれ、誕生日にはプレゼントもくれる。
家庭に居場所のない主人公は徐々に譲さんと親しくなり、彼の求めに応じ、写真のモデルの仕事を引き受ける。主人公は譲さんに恋愛感情はないが、その仕事を通じて、二人は距離を詰め、男女の関係となる。
しかし、関係が深まるにつれ、主人公は譲さんが特殊な性癖を持つことを知ることになる。それは、恋人を他の男性に抱かせて興奮を覚える、「寝取られ」という性癖だった。

 厚底ヒールのサンダルは、高さが十センチを越える。身長も伸びたように見えるから、百六十五センチのわたしは、百七十五センチくらいには見えるはずだ。

 網タイツでそれを何時間も履いていると、足の裏にタイツの編み目が食い込んでくるように感じる。それでも、わたしはなるべくそれを顔に出さないようにして、店の入り口付近、通りに面した、大きなガラス窓の一番近くに立ち続けた。

 路面は梅雨に濡れている。傘の行き交う通りを眺め、客になりそうな男を探す。
「ナオミちゃん、どう? 慣れた?」

 いつの間に来たのだろう、雇われ店長の村田が横に立って、源氏名でわたしの名を呼び、顔をのぞきこんだ。まだ二十八だと聞いたが、痩せて疲れた顔はもっと老け込んでいる。

「ええ、まぁ」
 頷いて、語尾を濁す。

「そしたら、まぁ、ええねんけど」
 村田も語尾を濁した。村田の言いたいことは、わたしにもわかっていた。
 ガールズバーはカウンター越しに接客をする。入店してもうすぐ一カ月が立つが、元来無口なわたしは、客がついても会話が続かない。

 それでも村田がわたしをクビにしないのは、わたしの容姿がそこそこ見栄えするからだろう。「なるべく短いので」という村田の注文通り、下着すれすれのミニスカートを履き、通りに面した大きなガラス窓の近くに立つ。通りを眺めながら、髪をかきあげる。通りを歩く男と目が合えば、唇を引いて、笑った顔を作る。そうしていれば、いくら会話を続けるのが下手でも、村田は文句を言わない。

 入店して早々に接客を諦めたわたしは、そうやって、ガールズバーでの役割を勝手に作り上げていた。

 店の奥を眺めると、カウンターの中の女の子たちが、客と話して嬌声を上げている。その中に、エリカの姿も見える。このアルバイトをわたしに紹介したのは、同じ大学のエリカだった。「楽しいバイト」との言葉通りに、エリカは水を得た魚のように、大学ではほとんど見せない笑顔を見せ、楽しそうに接客している。唯一の男性スタッフの村田は、奥に戻り、女の子の間をすり抜け、酔った客の相手をし始めた。

 わたしはまた通りに目線を戻した。

 ガールズバー・ダイヤモンドは、梅田駅から東に向かう歓楽街、阪急東通商店街から一本横に入った細い通りに立地する路面店だ。入り口は細く、奥に長い。平日は客の入りが悪いが、今日のような金曜の夜、もしくは土日は客がずらっとカウンターの席に並ぶ。「バーテンダー」の若い女の子たちが酒を出し、話し相手をする。酒が減れば、次の酒を勧める。

 手元で時間を確認する。まだ午後十時だ。わたしの上がりは十一時半だから、あと一時間半も残されている。わたしはサンダルの中の足の指を動かしてから、背が高くみえるよう、背筋を伸ばした。

 その時、
「よっ、ナオミちゃん」
 と、唯一のわたしの客、譲(ルビ・じょう)さんが入り口のドアを開けた。
「いらっしゃいませ」
 わたしの声は村田の声と重なった。

「さぁ、こっちへどうぞ」
 村田は空いている椅子を手で示してから、「ナオミちゃん、行って」と小声で耳打ちする。譲さんは金払いのいい客だ。村田は客の懐具合を推し量るのがうまい。

 そんないい客がなぜわたしについているのか、実際のところはよくわからない。だが、譲さんはわたしの入店当初に、ガラス窓のところにいたわたしを見て店に入り、もう何度もこの店に通ってくれている。

 譲さんの注文通り、生ビールを注いで差し出す。譲さんは、
「ナオミちゃん、やっぱセクシーやねぇ」
 と言って、ビールに口をつけた。

「そうですか?」
「うん。美人やしねえ。特に足がきれいでええわ」
「ありがとうございます」

 毎回、会話は決まっているし、それ以上、会話は続くことはほとんどない。それでも、譲さんは、ニコニコとビールを飲み続けている。

「今日はね、仕事がうまくいったんや」
「そうなんですか」

 この店では、あまり客の仕事の内容やプライベートな話はしない。だから、「譲さん」というのも、本人がそう名乗ったからそう呼んでいるに過ぎないし、どんな仕事をしているかも知らない。

 それでも、中肉中背を包むスーツや、飲み方を見れば、金のある様子はわたしでもわかる。四十過ぎと思われる譲さんは、
「よっしゃ、景気づけや。シャンパン開けよか」
 と言って、また人の良さそうな顔で笑った。

「あ、ありがとうございます」
 ボトルを開ければ、安い物でも一万は軽く越える。譲さんはメニュー表から、その中でも高いボトルを指定し、
「みんなにも飲んでもらおか」
 と言って、カウンターの女の子たちにもそれを振る舞った。

 わたしが注いで回ると、村田は、
「ナオミちゃん、やるやないか」
 と嬉しそうに耳打ちをした。

 この大学の音楽練習室は、ドアは大層なのに音もれが酷い。先程から、副科ヴァイオリンの練習だろう、キーキーした音がどこからか響いてくる。防音室だという話だったが、どこをどうしたらこんなに音が漏れてくるのだろう。

 おまけに、今日は朝だというのに、狭い練習室が酒の臭いに染まっていて、わたしはげんなりした気持ちのまま、エリカの方を向いた。

「ちょっと、酒の臭い、どうにかならへんの?」
 エリカは、そのままダイヤモンドのカウンターに立てそうなほど短いスカートでピアノに向かっている。サマーニットは胸の形を露わにしている。

「うーん、昨日、ダイヤモンドで飲み過ぎたんかな……」
 エリカは腫れぼったい目で、イタリア歌曲集の楽譜を開いた。授業が詰まっている今日は、二人の空きゴマの一時限しか、合わせの時間がなかった。

「今日、私のレッスンやで。この臭い、キツいって」
「大丈夫やって、コーヒー飲むから。それに、レッスン、三時やろ?」

 ピアノ科のエリカは、わたしの声楽のレッスンで伴奏をしてくれている。ピアノ科以外の専攻では、レッスンでピアノ科の友人に伴奏をお願いしなければならない。優秀な学生は伴奏者を選ぶようだったが、ほとんど友人のいないわたしが伴奏を頼めるのは、エリカだけだった。

 平日もダイヤモンドのシフトに入っているエリカは、大学でも夜の雰囲気をそのまま纏っている。もっと文句を言いたくなるが、伴奏してもらっている手前、これ以上は言い辛かった。

「それはそうやけど。臭い、消せるん?」
「まかしといて」

 女子大の音楽学部は、狭い世界だ。プロを目指すような人間は一握りで、わたしのような、趣味をダラダラと続けてきたような人間の方が多い。それでも、女の世界はややこしく、知らないうちに、わたしとエリカはここからはみ出しているようだった。

 エリカはアイスコーヒーをガブ飲みして、ピアノに向かった。
「ほな、いこか」

 怪しい手つきで、エリカが和音をとる。最初はおぼつかない指の動きに見えたが、さすがにピアノ科だ。アレグレットの表記通り、早いテンポでメロディーを押さえていく。

「ルジァローゼ、オドロゼ(露に濡れて香る)……」

 『すみれ』はイタリア歌曲でも、最初の方に習う曲だ。わたしの担当教員は七十を越えた非常勤の先生で、一つの曲に何週間もかける。入学してからもうすぐ三ヶ月経つというのに、曲は二曲しか進んでいない。何度も歌ったはずなのに、エリカの急な変化についていけず、わたしの声はうわずった。

 なんとか歌い終わると、エリカが、
「お酒、残ってんの?」
 と言ってニヤっと笑った。

「昨日、ダイヤモンド行ってへんし」
 少々むっとする。声楽専攻の中で、わたしは上手いとは言い難い。それでも、エリカだってピアノ科の中で成績がいい方だとは言えないはずだ。

「あー、わたしも譲さんみたいなお客さんいたらなぁ」
 と声を出すと、エリカは急に楽譜に突っ伏した。

「何言うてんのよ、急に」
「そやかて、わたしの客、単価安いのんばっかりやもん」

 ダイヤモンドは、時給とは別に成果報酬がある。自分についた客の使った金の十パーセントが、バックとして入る仕組みだ。客が高い酒を頼めばその分だけ、身入りがいい。

「わたしの客、譲さんだけやで」
 とは言ったものの、エリカは納得しない。
「安い客より、そっちの方がいい」
 エリカは指をポキポキ鳴らした。

「そうやろか」
「そらそうやで。譲さんやったら、安い客の何倍にもなるやん。それに、煩いこと言わへんし」
「まあ、煩いことは言わへんけど」

 エリカの客は若い男が多い。派手でノリのいいエリカは客も多いのだが、六十分のセット料金で飲み放題にする客が多く、女の子の酒すらケチることがある。そのくせ、電話番号やLINEを聞き出そうとしつこいことがあるのは、わたしも知っていた。

「この前もボトル開けたやろ?」
「うん、でも、先週は安いやつやったで」

 どうやらバイト代を稼ぎたいらしく、エリカはしきりと単価の高い客をうらやましがる。

「あ、あかんやん。もう、二限、始まってまう」
 練習室の壁の時計を見ると、授業開始まであと五分の時間を指している。エリカが二日酔いから復活するのを待つ時間が長すぎた。

「えー、行きたくない」
 エリカは面倒くさそうにロングの髪をかきあげる。次の授業は一般教養で、大教室で行われる。それでも、

「何言うてんの、カード通さな」
 と言って、わたしはエリカを引っ張りあげた。

 授業の出欠は、ICカードになっている学生証を端末にかざして取る仕組みになっている。大学の授業にも、音楽にも既にやる気をなくしているが、それ以上に、留年してこの大学に四年以上いることになるのは耐えられない。

「ちょっと待ってよ」
 というエリカの腕を持ち、わたしは大教室へ小走りに駆けた。

 外は激しい雨が降り続いているようだった。遠い窓から、人が小走りに駆けていく様子が見える。だが、店のBGMにかき消されているのか、雨音は聞こえない。

「なかなかやまへんなぁ」
 とカウンター席に座る譲さんは、わたしの目線を追うように窓を見た。

「さっき、着たときは降ってました?」
「や、降ってなかったよ。今年はなかなか梅雨が明けんなぁ」

 ふうん、と相槌を打ったものの、わたしの会話はなかなか続かない。ただでさえ会話は苦手なのに、四十代の譲さんとは、何を話すのが正解なのか、まるきりわからない。

 譲さんはさっきからウィスキーをロックでちびちびと飲んでいる。会話が続かなくても、文句を言わない上に、にこにこと穏やかに過ごしてくれる。

「わたしも頂いていいですか?」
 酒をねだると、
「好きなん飲んでや」
 と譲さんは気前よく笑った。

 自分でカクテルを作り、いただきますと言って口を付ける。飲みながら、今日の成果報酬はいくらになるのか、考える。

 今日はボトルは開けていないけれど、譲さんはいつも高い酒を頼むし、わたしの飲んだ分も成果報酬になる。他のバイトと比べて、割のいいことは間違いない。こうした時だけ、バイトを紹介してくれたエリカに感謝する気持ちになる。

 もう六月末だというのに、譲さんはスーツの上下を着崩さない。クーラーが効いていることもあるが、ネクタイをはずしたり、首もとのボタンをだらしなく開けている客が多い中では、珍しく感じた。体にぴったりと合ったスーツは、内側から発光するようにきれいな紺色をしている。

「いつも、週末に来て下さいますね」
 気になっていたことを聞いた。

 譲さんは勤め人らしく、金・土の夜しかダイヤモンドには現れない。それ以外の日に出勤しても、やることがないから、自然と、わたしも週末のみダイヤモンドに出勤することが多くなってきた。

「ああ、平日は仕事で遅なるしねぇ。それに、ナオミちゃん、あんまり平日入ってへんやろ?」
 今度は逆に譲さんに聞かれる。ダイヤモンドはホームページにシフト表を載せている。それを見たのだろう。

「わたし、譲さん以外に、自分の客はいないんですよ。平日はただでさえお客さん少ないしですし。だから、譲さんがいらっしゃらない平日は、あんまり入らないんです」

 こういう店で気取る必要もないだろう。正直に話すと、
「そうなん? そしたら、来る日言うとったら、平日でも入ってくれる?」
 と譲さんが聞いてきた。

「来てくれるんやったら、入りますよ」
「よっしゃ。そしたら、来れる日あったら、言うようにするわ」
「ありがとうございます」

 譲さんはまたグラスを傾けた。そんなことを言いながらも、電話番号やLINEを聞いてくるそぶりはない。

 店内では、シャンパンを開けた客がいたようで、拍手と嬌声が溢れている。自分の客だったのだろう、エリカはうれしそうに女の子たちにシャンパンを注いで回っている。

「そしたら、金・土は、何時まで入ってんの?」
 譲さんも一瞬エリカの方を見てから、こちらに向き直った。

「終電までなんで、だいたい十一時半までです。たまーに、人が足りないと朝まで入ってますけど」
「そうか」

 ホームページには出勤日は載っているものの、細かい出勤時間までは載せていない。譲さんはいつもきりのいい所で帰ってくれるから、誰が何時まで入っているのか、知らないのだろう。

 ガールズ・バーは、キャバクラのように横に座っての接客がない代わりに、深夜営業が認められている。女の子は終電までの時間か、朝までのコースかを選べるようになっている。

「終電までって、ナオミちゃん、えらい真面目やな」
「そんなことないんですけど。実家に住んでるんで、朝までだと面倒なんですよ、色々」

 大学に入ると、母親はわたしへの関心が薄れたようで、今度は高二の弟の進路のことで頭が一杯になっている。いくら終電で帰っても文句は言われないが、さすがに朝帰りとなると話は別で、友達の家に泊まるだの、言い訳が必要になる。面倒なことをしてまで朝まで働きたいという気がおきず、だいたいは終電で帰るようにしている。

「実家なんや」
 と譲さんはそんなに興味なさそうに、わたしの言葉を繰り返した。
「ナオミちゃん……」
 BGMの曲が変わり、激しい音に譲さんの声がかき消された。

「えっ?」
 カウンターから身を乗り出し、譲さんの口元へ、耳を近づける。髪が、カウンターをなでた。

「ナオミちゃん、誕生日いつなん?」
 やっと声が聞こえた。
「七月です。もうすぐ」
「そうか。ほな、いくつになるん?」

「もうすぐ十九……あっ」
 思わず本当の年齢が口から出てしまい、慌てて口を押さえる。離れた場所にいる、店長の村田をちらりと見た。店では、酒を飲む手前、女の子は全員二十以上ということになっている。

「間違えました。二十一です。二十一になります」
 言い直すと、譲さんは、ふふふと声を出して笑った。

「まあ、何歳でもええわ。とりあえず、お祝いせなあかんな」
「シャンパン、入れてくれます?」
「当たり前や。それとは別に、何か欲しいものないか?」
「欲しいもの、ですか……」
「バッグとか、靴とか、何でもええで」

 譲さんの懐具合を推し量る。この店での飲み方を見れば、ブランド品でも喜んで買ってくれそうな気がする。けれど、残念なことに、わたしはそういった物に明るくない。仕方なく、

「特に欲しいものは……」
 と言うと、
「なんや、張り合いないなぁ」
 と譲さんはまた笑った。

「すみません」
「ええねん、ええねん。そしたら、食べたいもんないか?」
「食べ物ですか?」
「寿司とか、ステーキとか」
「そしたら、お寿司、食べたいです」

 店の外で客と会うのは、推奨もされていないが、禁止もされていない。それに、譲さんならば、外で会ったとしても危険な目には会わないだろう。わたしは頭の中で算盤をはじいた。

「よっしゃ、寿司やな」
「回転するんは嫌ですよ」
「あほ、そんなとこ連れてくかいな。一枚板の、シュッとしてるとこ連れてったる」

 シュッとした寿司屋というのはどういう店なのか。思わず笑ってしまう。
「ほんまですか?」
「おっちゃんに任せとき。ええとこ知ってるねん」

 譲さんは胸ポケットからスマートフォンを取り出し、スケジューラーを開いた。
「いつにする?」

 慌ててわたしもスマートフォンを出す。
 せっかく梅田に出るのなら、ダイヤモンドでバイトもしたい。七月はじめの土曜、わたしたちは「シュッとした」寿司屋に寄ってから、ダイヤモンドに来る計画を立てた。

 外灯は灯っていたものの、外からは部屋の明かりは見られない。安心して家の玄関を開け、自分の部屋へ行こうとすると、通りとは反対に面したキッチンの明かりが煌々と照らされていた。リビングから二階に伸びる階段を上ろうとしたが、ぎょっとして足を止めると、

「何しとったん、こんな時間まで」
 という母の声がした。
「何って、バイトやん」

 少し驚きながら答える。時計はもう午前一時近い。ダイヤモンドでのバイトが終わり、終電で帰ってきた。駅から少し距離のある自宅まで歩くと、もうそんな時間になる。

「バイトって、何してんのよ」
「前も言うたやん。居酒屋やん」
 家族には、ガールズバーとは言えず、わたしは居酒屋で週末のバイトをしていることになっている。

「お父さんは?」
「さあ。寝てるんちゃう」

 我が家は母の存在感に反比例して、父の存在感が薄い。

「バイトか何か知らんけど、こんな遅い時間まで……」
 見ると、母はブツブツ文句を言いながら、おにぎりを握っている。
「何してんの、こんな時間に」
 もう一度ぎょっとして尋ねると、母は弟の名前を出した。

「あの子、勉強してるから、夜食してあげなと思って」
「こんな時間まで?」
「あの子はあんたと違って真面目やから。もうすぐ模試があるんよ」
「まだ高二でしょ?」

「あんたは推薦でスッと入ったからそんなん言うんや。あの子には国立に入ってもらわなあかんから」
 おにぎりを握る手に力が入っているのが見えた。米がぎゅうっと圧縮されている。

 いくら推薦で入ったとはいえ、わたしが大学に入るときも、母はこうして大騒ぎをした。見栄っ張りの母は、子供の進路に血道を上げる。どんな教育内容なのかも知らないくせに、女子大の音楽学部という響きは、母をなんとか納得させた。

 芸事に縁のない弟に、そんな逃げ道は残されていない。
「国立は難しいんちゃう?」
 麦茶をコップに注ぎながら言うと、
「そんな暢気なこと言うてたら困るわ。あの子にはちゃんとしてもらわんと」
 と母は眉間に力を込めた。母は勝手に、国立大学――それも、旧帝大――に入ることを弟の目標にしている。

 小学生のとき、弟は女の子たちにいじめられて、よく泣かされた。その情景を思い出すと、あのアホな弟が、どうしたって旧帝大に入るとは思えない。どんなに頑張って背伸びしたところで、駅弁大学が精一杯といったところだろう。

「あの子、そんなに賢いかなぁ」
 わたしが首を傾げると、
「あんたみたいに遊んでばっかりの子に、何がわかるん」
 と母が語気を強めた。
 うっかり虎の尾を踏んでしまったらしい。

「だいたい、あんた、ピアノも歌も、全然練習してないやない」
 母は顔を赤くして怒り出した。
「大学に練習室あるって言うたでしょ。そこで練習してるから」

 リビングにあるアップライトピアノは、うっすらと埃が積もっている。普段は練習のことなど口を出さないくせに、母は急に娘の専攻に興味を示す。

「ほんまかいな」
 ただでさえ湿気が多い季節なのに、米を炊いた熱気が、キッチンからダイニング、リビングまで漂ってくる。

 わたしは階段を上っていこうと、そうっと足を進めた。階段を三段上がったところで、
「大学の成績はうちに送られてくるんやからね」
 という母の声が、追いかけてきた。

「こっちは学費払ってるんやから。いい成績やなかったら、知らんよ」
 まとわりつく母の声から逃げるように階段を上り、わたしは自分の狭い部屋に戻った。

 古い待ち合わせの方法だった。
 譲さんと約束したのは、梅田にある巨大ビジョン、ビッグマンの前だった。梅雨が明けたばかりだというのに、七月の熱気があたりを覆う。十八時の約束より五分前に着いていたが、溢れる人混みの中で、人を捜すのは難しい。

 なるべく動かないようにして、わたしは譲さんの顔がどこからか現れるのをじっと待った。約束時間を数分過ぎてから、やっと譲さんが姿を見せた。

「ナオミちゃん、捜したで」
 と譲さんはハンカチで汗を拭きながら、わたしを見下ろした。

 店のような圧底サンダルではなく、今日は普通のパンプスだから、自然、譲さんを見上げる格好になる。それでも、ダイヤモンドで身に付いた癖なのか、わたしはノースリーブのワンピース姿で、すっと背筋を伸ばした。

「わたしも。見つかるか、心配してました」

 今まで、連絡先を聞こうとしない譲さんを有り難く思っていたが、こんな古いやり方の待ち合わせをしてみると、それがいかに不便なことかがわかる。

 しかし、スーツ姿の譲さんは不満げな様子も見せず、
「ほな行こか」
 と人混みの中から足を進めた。
 ビッグマンから東に向かう通りを渡り、電車の高架に沿ってゆっくり歩いていく。

「どこに向かってるんですか?」
「中崎町。ええ店あんねん」

 新御堂筋を渡り、高架沿いに進んでいくと、梅田からすぐの距離にあるとは思えない下町が姿を現す。

「わたし、この辺りは初めてです」
 こんな場所に寿司屋があるのだろうか。そう言うと、
「あ、そうなん? このあたり、若い子多いけどなぁ」
 と譲さんはきょろきょろとあたりを見回した。

 ぱっと見るとただの住宅街に見えていたが、その家々をよく見れば、古民家を利用したと思われるカフェや、美容院、古着屋などが軒を連ねている。そして、それらの客だろう、交差する細い通りに、ところどころ、若い男女の姿が見えた。

「このへん、空襲にやられなかったらしくてな」
 と歩きながら、譲さんは話す。

「再開発できへんまま残ってるらしいわ。こんなに梅田に近いのになぁ」
 町は、おしゃれな店と、古い住宅がごちゃまぜになっている。細い道は、血管のようにあちこちに伸びていた。

「こっちや」
 譲さんに呼ばれて、人一人がやっと通れる道を進む。訝しく思いながらも後ろを歩くと、突き当たりに、住宅のような建物が見えた。大きな木の扉。入り口のブランケットライトが、扉に書かれた小さな漢字の店名を写し出している。入り口には、メニューもなければ、「寿司」という表示も見あたらない。梅田から大して歩いていないのに、急に静かな世界が広がったようだった。

「ほな、行こか」
 譲さんは、慣れた手つきで入り口の扉を開き、どうも、と奥に声をかけた。

「いらっしゃいませ」
 扉の向こうには、奥に長いカウンターが広がり、職人だろう、四十代くらいの男性が会釈するのが見える。奥から和服の女性が姿を現した。

「お待ちしてました」
 女性はカウンターの一番奥の席に案内した。

「今日はどうされます?」
「適当に頼むわ。酒は……日本酒でええか?」

 譲さんはおしぼりで手を拭きながら、わたしを見る。頷くと、
「日本酒。料理に合うんをお願い」
 ともう一度女性を見た。

「ほな、北陸の、いい純米吟醸入りましたから、それしましょか」
「お願いするわ」

 カウンターだけの小さな店だが、そのカウンターは厚い木で、木の模様がはっきり見える。カウンターの内側にスポットライトがあるようで、職人の包丁さばきは見えるが、客席は暗く、他の客の顔はうっすらとしか見えない。

「ここ、よく来られるんですか?」
 最初に出されたつぶ貝の煮物を眺めながら聞く。

「うーん、そうやな。寿司食べたくなったら来るなぁ」
 譲さんは奥に並んだ日本酒の瓶を眺めながら答えた。

「そんなことより、はよ飲も」
 慌ててわたしも店の女性に注いでもらったグラスを手に取る。
 杯を合わせると、譲さんの、
「誕生日おめでとう」
 という言葉が聞こえた。
 礼を言う。

 つぶ貝に箸をつけながら、譲さんは、
「どや、シュッとしてるやろ」
 と言って笑った。
「めっちゃおしゃれでビックリしました」
「そうか」

「こんなお店、来たことないです」
「経験不足やなぁ」
 わたしも小鉢に箸をのばす。
「おいしいです」

「せやろ?」
 譲さんは、まるで自分が作った料理がほめられたかのように、うれしそうに笑う。

 細長い皿に盛られた、一切れづつ盛られた刺身が続く。細かく包丁の入った魚の身は、照明のせいもあるのか、光って見えた。
「あ、そうや。忘れるとこやった」
 と譲さんは足下に置いていた阪急百貨店の紙袋を出して、わたしに渡した。

「これは?」
「誕生日やろ。食べもんだけじゃ、寂しいやろ」
 紙袋の中に、GUCCIのロゴが見える。

「開けていいですか?」
「や。大したもんじゃないねん。このまま持って帰って。ここで開けるんもなんやし」
「ありがとうございます。プレゼントまでいただいて」
「ええねん、ええねん。しまっとき」

 今度は自分の足下に置こうとすると、店の女性が、
「お預かりしましょか?」
 と紙袋を預かってくれた。

「今日はえらい別嬪さん連れて」
「ん、そうかな」
「珍しいですね、女性連れ」
「それはそうやな」
 譲さんは店の女性と楽しそうに話す。

 刺身が終わる頃合いで、カウンターの職人が、皿に寿司を並べていく。外装や内装が「シュッ」としているだけでなく、味も美味しい。
「おいしそうに食べるなぁ」
 食べていると、譲さんが感心したように言う。

「だって、おいしいから」
「ナオミちゃんは、そういうとこもええな」
「どういうとこですか?」
「おいしそうに食べるとこ。何食べてもまずそうにしてる子おるやろ。ああいうのはあかん。おいしいもんはおいしそうに食べんとな」

 譲さんはグラスを重ねる。グラスの酒が減ると、店の女性が新しい酒を注ぎに来た。
「連れてきていただいて、ありがとうございます」
「ええねん。俺、一人もんやしな。こういう店来ても、味気ないねん。せやから、ナオミちゃんが一緒に来てくれて助かるわ」

 譲さんも次々に寿司を平らげていく。
「ナオミちゃんは、余計なこと言わへんのもええわ」
「そうですか?」
「ダイヤモンド、他の子はうるさくてかなわんわ。女の子は静かな方が、賢く見えてええねん」

 お腹が満たされる頃合いで、茶碗蒸しが出てくる。それが終わると、熱いお茶が出てきた。
 譲さんは、
「先出といて」
 と言って、わたしを先に店から出してから、会計を済ませたようだった。

「ごちそうさまでした」
「ええねん、ええねん。ほな、ダイヤモンド行こか」

 細い道を抜け、今度は阪急東通商店街に向かって足を進める。少し酒に酔ったが、算盤をはじけないわけではない。譲さんは、きっと今日もシャンパンを開けてくれるだろう。

「すごく、おいしかったです」
 紙袋を持って、歩きながら言う。
「ほな、またどっか食べに行こか」
「お願いします」

 家族でも、ああいった店には行ったことがない。高級な店に連れて行ってもらうのなら悪くない、とわたしは思う。
「でも、連絡先を知らないのは不便でした」
「ほんま?」
「待ち合わせ、昭和って感じでした」
 譲さんは笑う。信号待ちで、わたしたちは連絡先を交換した。

(続く)

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