見出し画像

しあわせって何?

あーこんなタイトルにしてしまった。

あなたは誰かに「しあわせって何? 」って聞かれたとき、答えることができますか?
その時、間違っていけないのは、相手が「幸せを感じる時ってどんな時? 」と聞いているのではないということである。
「しあわせ」そのものについて質問しているのである。
あなたの持つ「幸福論」について尋ねているのだ。

最初に言ってしまうが僕は「しあわせとは『絶対的自己肯定感』ではないかと密かに結論付けている。
相対的ではなく、絶対的である。 
揺らぐことなくそこに存在する自己肯定感、はたしてそんなものがありうるのだろうか?

例えばよく、自己肯定感は小さな成功体験を積み重ねて育っていくと言われる。
 「これ僕できた、凄いこれもできた。 」 自分の中に自信と自分を認めていく過程で自己肯定感が生まれてくるというものである。

とりわけ自分大好き人間は幸せ者だと思う。
手放しに自分というものを愛おしく感じるのは、客観的に見ると少々気味が悪いが・・・
しかしよく考えてみると。他人から受ける評価や賞賛で生まれる自己肯定感は砂上の城のごとく、相手次第の実に不安定な要素で構成される。

例えばあなたがお付き合いをしている相手はあなたのこういう所が好き、尊敬できる、素敵などなど、肯定的な評価が大半しめているであろう。
しかしそれはお別れの際にはその肯定感はどこかに吹き飛んで、すべてを否定される事も有り得るのだ。

いつも「私を引っ張ってくれる決断力が素敵」だったはずが、「何でも勝手に決めてしまう横暴な性格は耐えられない」とまで言われてしまう。

そう人から与えられる肯定感は一時的には幸福感を得られるのかもしれないが、その真偽も判断できない上、継続可能な確約もない。

では『絶対的自己肯定感』とはどのようなものだろうか?
他人から受け取る肯定感が相対的ならば、相手に左右されない肯定感ってことだ。

それはおそらく「自己満足の世界」にしか存在しない。
「自己満足の世界」を構築するのは「好き」を増やす必要がある。
人は好きなものがあると行動しやすくなる。

そしてそこにアプローチしている時は至福の時である。大好きなものを食べている時、大好きな場所に身を置いている時、大好きな人を抱きしめている時などである。他人にどう判断されようと「好き」なのである。
相手にケムたがられようと「好き」ならそれで良いのではないか?
「これって本当に美味しい?」
「私は美味しくて大好き!」
そこがまさに絶対的であり、そして他人の評価を気にせず「好き」と言える

揺るぎない自分の価値観が『絶対的自己肯定感』だと思う。

その価値観を獲得するには少しばかり越えなければいけないハードルがある。
なぜなら僕らは相対的に物事を見てしまう傾向にあるからだ。
どうしても自分の価値や立ち位置を他人と比較してしまう。
そのモノサシを投げ捨てるの難しい。

ではそのモノサシを自分自身に向けてみるのはどうだろう?
比較の対象を過去の自分と今現在の自分にするのだ。
一年前の自分と今の自分、昨日の自分と今日の自分という具合に。

隣の芝生が青くても僕自身の幸福感とは何の関係性も無いが、昨日よりも今日の自分に好きなものを増やした方が明らかに幸福である。

わがままに生きることは周囲に迷惑をかけることもあるだろうが、たいてい本人は気づいてない方のことが多い。
そんな時僕は「幸せなやつだなぁ」と思ってしまう。

あっ
そして人は幸せな時は「幸せって何?」なんて考えたりしない。

あーやめた! アイス食べてきます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?