エヴァと『構造と力』浅田彰
手にとる名著は、その装丁のアレンジメントをも素晴らしいデザイン。
映画批評が存在するかということを、現代思想を踏まえて考える。
例えば「宇多田」の自己は、その存在のうたかたに宿って、エヴァの良心となる。
あらかたフランス文学と現代思想のコアが、どこにあるかという表現が映画であって、その内部にウタはある。
その点で映画批評というのが、自己の精神分析ではなく、映画のテクスト(部分)の精神分析にこだわり過ぎる事は問題だ。
実際は、伏線などという用語が独り歩きしてしまうが、テクストの中には何も存在しない。そのための言語学です。
もち、それが近代であって、それ以降の始まりとして本書のポスト・モダンに置きかわっている。
・予備知識としての現代思想入門
解説を担当する千葉雅也さんは、本書の「チャート式参考書」から発展して、難解な「実況中継」としての枠組みを提供している。
それは深い読みが求められる。難しかったです。
この解説は、数多の思想家と言説の似ている部分と、対立している部分に着目せよ。現代思想の読み方を実践せよです。
これは映画『マトリックス』から、学べる事と似ています。
「赤と青」からはじまり、マトリックスの「序・破・急」の三部作から「結」(レザレクション)の流れに注目します。
では、千葉さんの『構造と力』解説をみていきます。
・解説『構造と力』
人間は過剰な動物である。これは本能が壊れている(フロイト・ラカン)からであって、秩序が必要になる。
これを、別の方法でとらえたのがバタイユで、「呪われた部分」に対して象徴秩序=構造が導かれる。(筆者注:バタイユの過剰さは、映画の主人公にありがちな破天荒な生き方そのものです。)
経済と社会の関係と、それに対する主体が関連する。
主体はアルチュセールを前提に、フロイト・ラカン的な父母の第三者と関係する。
アルチュセールは、「人間とイデオロギー」のマルクスに関する解釈の理論です。(『フランス現代思想史』岡本裕一郎)
ドゥルーズ・ガタリの場合は「超コード化」で、これに対してラカンと反対に脱中心化するのが「脱コード」で、ここまでが近代になる。
日本の現代思想の場合、かつては成立していたが、それ以降はどうか。
・検討「21世紀のX」
40年前に浅田彰が考えていた問題点は、今日ではどうなっているのか。
私見では、フーコー的な管理社会(生権力から生政治的)なものから、ドゥルーズのコードが、脱線・脱落・そして浮遊するような画一的なものになっている。
それにあがなう為の「力」は、ドゥルーズが見る生成のニーチェではなくて、アーレント的なハードな権力の行き場のない無頭人(アセファルのバタイユ)として痛烈な官僚批判である。
浅田さんは、DNのドゥルーズ+ニーチェを重視してました。(本書の一覧表を参照)
今日ではアーレントは、アンチ・社会学(ウェーバー)の社会学です。
ここに、次の二者が対比される。モダンとポスト・モダンに対応します。
それは、どこにも行けないというイタリア+ドイツ的な現代思想なのか。どこにでも行けるという、フランス現代思想なのか。単純化できないのは、本書の哲学史としての価値です。
少なくとも力(パワーのニーチェ、近代批判)として主体を、捉えているカオスは、生成変化をともなう存在であることは確からしい。
この点では、楽観的な気分になりたくもある。本書の力(パワー)。
・付録:用語集
これくらいの簡単な整理でも、もしかしたら役に立つかもしれません。
戦前の思想
「革命」1789年、カントとヘーゲルはこの時代
『共産党宣言』1848年、マルクス
フロイト(1856−)
ソシュール(1857−):『一般言語学講義』共時態と通時態
ニーチェ(−1900、19世紀の人)
ラカン(1901−1981)∶三界、本書では最重要。
戦後の思想
デリダ(1930−)
フーコー(1926−)
ドゥルーズ(1925−)
注:チョムスキー、ハーバーマスは同世代。
クリステヴァ(1941−):記号論と心理学。
注∶宮崎駿監督と同世代。
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