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真夜中の落書き

 あらすじ
  孤独な落書きアートのライター由美はリコと出会う。
  二人はともに真夜中に落書きを始めるが……


 誰にでも、人生で時間、空間を真っ白にに塗りつぶしたい時がある。由美にとって、今がその時だった。 
 由美は無心で線を引く。真っ黒なパソコンモニターに白い線が現れる。無心だったが、楽しいからではない。そうしなければ心が痛むからしている。
 いま由美が向き合っているものはCADというものだ。コンピューターアイデッドデザインの略で、コンピューターでデザインできるソフトウェアだ。専門学校だけあって、無料ではないAutoCADというソフトが使えた。冷房が効きすぎで教室は寒かった。由美がいるのは、東京の少し外れにある学校の二階だった。惨めではなかったが無力感はあった。頬杖をつきブラインドで刻まれた外の風景を眺めた。崩れかけたブロック塀に囲まれた空地があり、伸び放題の雑草が強い日差しを浴びて輝いている。窓からこちら側は真夏の太陽の熱からは逃れられている。ガラス戸ひとつ隔てただけで、向こう側は別の世界だった。
 教室には二十人ほどいて、みんなCADで建築図面を描いている。この中にはCADオペレーターとして、どこかの空地に建てられるビルの製図を描くものもいるだろう、と由美は他人事のように思った。その後、その中に自分も入るため、線を引いていたのだと由美は思い出した。線を引く作業を中断し眠気に身を任せた。一応教師はいるが、いくら外を眺めていても咎められない。学校や教師が由美を咎めるのは、授業料を滞納した時だけだろう。
 明日からは、夏休みだった。
 明日も今日も同じ夏の一日なのに、由美にはまるで線を引いたように、かっちりと向こう側とこちら側が決まっている気がした。由美と他の生徒には、表面上の大きな違いはない。違う部分があるとすれば、由美のリュックが不自然なほど膨らんでいるだけだ。これに火をつければ爆発する。その騒々しい光景を由美は頭の中で想像してみた。

 土曜日なので、午前中で授業は終わった。
 由美のリュックの中には、ホームセンターで買ったスプレー缶が二十本ほど入っている。それが不自然な膨らみの正体だ。誰も興味など抱かないが、由美にとっては優越感を与えてくれる膨らみだった。もし何が入っているのかと、他の生徒に聞かれれば、誇りが入っているとでも答えるつもりでいて、そんな想像をする自分に羞恥心を感じた。しかし、心配しなくても誰もそんな質問をする気配はなかった。
 ビルの谷間にある原っぱに行き、崩れかけたブロック塀に赤や黄色のスプレーを吹きかけた。
 十九歳の女でグラフティなどやっている人間はここらにはいない。グラフティとはスプレー缶アートとも呼ばれるもので、主に公共物にスプレーで絵を描くニューヨーク発祥のアートである。私有地以外で行えばもちろん違法行為である。動くもの、例えば電車などに描くのが、真のグラフィティと考えるライターもいて、夜中、車両倉庫に忍び込み、一仕事を終えると、始発の電車をライター達が眺め、作品の出来栄えを論じ合う者たちもいるというのだから、呆れたものだ。尊敬はする、が由美にはそこまでの度胸はないので、所有者がよくわからないブロック塀に、遠慮がちにグラフィティを描いている。芸術のためなら公権力も敵に回す本場のライターと比べ、自分の小心者ぶりに少し嫌気を覚えるが、そんな気分を忘れるように、由美は創作に精を出した。
 由美は首を傾げ、青のスプレー缶を取り出し、吹きかかける。また首をかしげ、別の色を吹きかける。命を吹き込んでいるつもりが、ただの色の塊を壁に叩きつけているようにしか見えない。作品の進捗と反比例して、夏の日差しが彼女の皮膚をじわじわと焼いている。
 由美はふと隣に目を向けた。熱中していて気付かなかったが、隣にあるグラフィティが不自然だった。明らかに作風が違う二つの絵が重なりあっている。計算の上で重ねて描かれたわけではない。調和はなかった。かといって、激しく対立しているわけではない。たとえるなら、喧嘩ではなく殺人だった。下にいる絵が、否応なしに蹂躙されている。知らぬ間に屈服させられている。由美は息を飲んだ。共作ではない。一度描かれたグラフィティを上から別の誰かが描いている。ライターの端くれなら、それが何を意味するのか理解できる。いや、ライターではなくとも、一般道徳を心得ている門外漢ならば、倫理的にまずい行為であると理解できる。
 逆方向から、スプレーの風切り音がした。
 由美は振り返った、一人のライターが壁に絵を描いている。
 汗が光っていた。筋が見えるほど、腕は引き締まっていた。ドレッドヘアで浅黒い肌の持ち主。噂には聞いていた。他人の作品を容赦なく塗りつぶしてしまうライターがいると。オリジナルの作品を作り出すのではなく、他人の作品を塗り替えなければ気が済まないらしい。今もせっせと他の作品を自分の作品に塗り替えている。由美の作品は彼女の暴力から逃れられていたが、自分の作品を塗りつぶされる気分がどんなものか知っていた。由美は俯いた。何も言えず、行為を盗み見る。彼女は全てから解き放たれて見えた。つまり自由だった。全身から危うい魅力に溢れていた。由美の視線に気づいたのか、彼女は手を止め、由美の方を向いた。スプレー缶の切っ先もこちらを向いている。スプレーを吹きかけられるのかと思って、由美は身構え、強く目を瞑った。コンクリートに焼き付くように残るインクである。眼に入ればどうなるかわかったものではない。
「あんた、いい絵を描くね!」と彼女が由美に言った。
「あっちのもそう?」と彼女が聞いてきたので、由美は頷いた。一週間ほど前に完成した作品で自信作である。
 お世辞ではないと思った。もし気に入らなければ、何も言わず絵を重ねられているところだ。猛禽に睨まれたような畏怖を忘れ、由美はひたすら照れた。
 
 彼女はリコと名乗った。二人は創作を中断し、雑草の上に座り込んだ。
 どうして、他人の作品を塗りつぶすのか、と由美が聞くと、リコは楽しいからだ、即答し、笑った。
 由美は言葉を失った。
「ライターに、ルールはいらないんだよ」
 まるで由美への追い打ちを楽しむかのように、リコは言い放った。その無邪気さが、由美には羨ましくもあり、怖くもあった。作品から、描いた人間がどんな人間か、正確に判断する事は出来ない。凶暴な人間かもしれない。だが、彼女は作品だけで判断し、このような塗りつぶしを行うのだ。憎しみとそれに伴う報復を想像し、とても自分には真似できないと由美は思った。
「あんたも、下手な絵は嫌いだろ?」
 確かに、下手な絵は視界に入るのも嫌だった。だが、リコのように口に出すことは出来ない。彼女は由美の考えをシンプルに代弁してくれた。
「言ってみなよ」
 心を読んだのか、リコは微笑み、由美に言葉を促した。
「……下手な絵は、嫌い」
 遠慮がちな言葉に、リコは失笑したが、根底にある優しさを感じとり、由美はむしろ申し訳ない気持ちになった。
「もっと、大きな声で言ってみなよ」
 リコが促す。
「下手な絵は大嫌い!」
 由美は自分の考えを外に出してしまうと、心が自由になった。リコと涙が出るまで笑いあい、涙が枯れると、由美は今まで描いていた自分の作品を赤いスプレーで塗りつぶす。
 リコは不思議そうな顔をして、いいの? と呟いた。
「これは、私じゃない」
 と由美は言い放った。

 次の日。夏休みに入ると、由美はリコと行動を共にした。
 夜になると、リュックの中に山ほどスプレー缶を詰めて、駅の近くの高架下に集合した。
 真夏の夜のねっとりとした空気が、肌にまとわりつくようだった。
 夜に咲く花のように、グラフティがコンクリートの壁に描かれていた。
 リコはスプレーを取り出すと、目についたグラフィティを迷いなく塗りつぶし始めた。落書きを消す清掃員のような躊躇のなさは、由美を驚かせ、興奮させた。湧き出る血のような赤いスプレーで、上から線を重ねてゆく。由美も初めは戸惑っていたが、徐々に抵抗は消え失せ、むしろ、やってしまえという気持ちが強くなる。とうの昔に失われていたものが、もう戻ってこない思っていた感情が、自然と由美の心にいつの間にか戻ってきた。リコは引っ掻くように線を壁に描く。見ているだけで愉しかった。馬乗りになり殴っているような塗りつぶしの爽快感にうっとりとしていると、あんたもやってみろ、とリコから赤いスプレー缶を手渡された。心は戸惑っていたが、由美の腕は当然というように缶を受け取り、誰に向けるでもないぎこちない微笑みを浮かべた。缶は氷のように冷たく掌から手首まで冷感が走った。由美は顔を上げ、呆然と殴られたグラフィティを眺めた。リコによってつけられた赤いスプレー跡が赤い傷跡と流血ならば、塗りつぶされたグラフィティは手負いの獣といったところだが、慈悲の心は湧かなかった。むしろ、まだ足りないと思った。この場には、もっと血が必要だと思った。それが暴力だとしても、リコや自分には許された暴力だと思った。闇夜に、嘆息のようなスプレーの音が響いた。由美の指先は震えていた。拒絶反応ではない。描画欲は旺盛だった。震えは高揚の現れだった。早く描きたくてたまらなかった。その証拠に、いったん描きはじめるや、由美はリコよりもずっと多くの傷線を瞬く間に壁に出現させた。初めて行う他人への一種の暴力。心が熱くなった。リコからの拍手がその熱に拍車をかける。熱帯夜だった。全身を使うグラフィティ制作にはそぐわない暑さだった。熱気にさらされ、全身から汗が滲み出ていた。由美は身体の内と外の熱気が等しくなる瞬間を自覚した。これが、由美の求めていたものだった。クーラーの効いた部屋では決して味わえないものだった。
 その時、自販機の横の闇が動いた。由美は手を止め、壁から離れ、闇に目を向ける。じりじりと自販機の上の蛍光灯の音がする。明滅により、自販機が現れたり、闇に没したりしている。自販機の陰から誰かが出てきた。図体山のように大きい。フードを被り顔は見えなかった。服にスプレーの紫や赤、黄色の汚れがついていて、闇の中でそれは星の瞬きのように見えた。真夜中に、そんな汚れを持った人間は多くない。直感的に由美はこの男もライターだと思った。男は塗りつぶされた作品を見ている。目を見ればわかる。心は怒りと憎しみに染まっている。
 フードを取り、闇の中にその爛れた顔を露出させた。闇の中でもわかる鮮やかな桃色。思わず触れたいと由美は思ったが、それはおそらく火傷だろう。製作中にスプレーの火気成分にでも引火したのか。彼は顔を歪ませ泣いていた。壁を見て、自分の魂が塗りつぶされたと感じているのだろう。由美は正気に戻った。由美は彼と同じライターである。彼の痛みが理解できた。なんて事をしてしまったのかと思い、脱力した拍子に、手から赤いスプレー缶が落ちた。乾いた音が響き、缶はおもちゃの車輪のように昼間の余熱を秘めたアスファルトの上を転がる。男はスプレー缶の動きを注視した。由美は彼が自分たちが犯人である事を理解していると感じたので、縮こまり、小動物のように息を潜めた。一方のリコはまるで彼を煽るように、彼に対して不遜な態度をとっていた。まるで、お前の作品は塗りつぶされるべくして塗りつぶされたと言わんばかりだ。リコは呆れる一方で、その蛮勇ぶりに感心した。
「お前がやったのか?」
 正確には、お前らがやったのか、だと思うのだが、由美にはどうでもよい事であった。考えなければならないのは、この巨漢から逃げなければならいという事なのだ。由美はリコの腕を引っ張り、逃げ出そうとした。驚くべきことに、リコの腕にはこの場に残ろうという力が残っていた。由美は強引にリコの腕を引っ張り逃げ出した。一度も振り返らなかったが、背後から男が放つ存在感を感じていたが。 
 彼の作り出す、悪意がそこら中に偏在している気がした。
 二人は地下鉄に逃げ込んだ。
 人は誰もいなかった。外の熱帯夜とは打って変わってひんやりとしている。二人は改札を飛び越え、プラットホームまで駆け降りる。銀色に輝く線路が見え、線路の先には真黒なトンネルも見えた。リコは突然、線路に降り、トンネルを指さす。
「何やってんの?」
 由美は電車が来ないかどうか、素早く確認しながら言った。
「早くして」
 リコは落ち着いていて、慣れている。すでにこんな事を何回も経験しているのだろう。由美はぎこちなく線路に下りた。リコに手を引かれ、深い闇の中へと入っていく。トンネル内では、青いランプが順序良く並んでいた。
「何を考えているか、わかる?」
 愉快そうに、リコは由美に尋ねた。闇の中であったが、二人ともぴったりとコンクリートの壁に密着している。外の焼けつくような熱は伝わってこない。コンクリートは氷のように冷たかった。死も連想させる冷感が聴覚と触覚が研ぎ済ました。由美にはリコの心臓の鼓動が伝わってきた。考えている事は分らなかったが、感情なら理解できた。声と鼓動からそれは興奮以外にない。滅多に味わえる興奮ではない。身体への危険、もっと言うと、死を前提とした興奮だった。
「もう、やめなよ、あんな事は」
 由美はリコが好きだった。だから、死んでほしくはなかった。
「やめてほしい?」
「うん」
 リコは闇に向け、大きく嘆息する。それはスプレーの噴射のようだった。
「でも、やめられないんだ」
 リコは由美の眼を覗き込んだ。
「これが、あたしだからね」
 由美の眼の中、そこにはリコの姿しか写らないはずだ。
 由美はリコを分身のように感じていたが、まるで理解できていなかった。叫びが聞こえた。あの男が近くまで来ている。声が砕け、トンネルに反響し、小さい蝙蝠みたいに飛び交っている。
「捕まったらどうなる?」
「バラバラにされる」
「嘘でしょ?」
「あいつ、背中に大きな刃物を持っていて、それでバラバラにするの。時間がかかるけど、喉笛をまず掻き切るから、苦しまないはず。でも爆発事故があった時に、あいつは無酸素状態で脳にダメージが残って、喉笛を掻き切るのを忘れる時があるから、その時は最悪ね」
 二人は人間が可聴できるぎりぎり小さい声で呟きあっていた。由美はリコの言う事が、緊張をほぐすための冗談だと思いたかった。首筋に汗が伝い、由美は息を詰まらせた。酸欠になるかと思って喉を抑えると、リコが背中を叩いた。
「この世には、信じられない事もあるのよ」
 由美は身体を震わせ、リコにしがみつく。あれは、人間ではない。次に会うときは、人間の形をしていないと思った。伸縮自在の巨大な影だ。
「どうすればいい?」
 由美はリコをまだ見ぬ自分、本当の自分だと思っていたが、それは大いなる誤解だったのではないかと思えた。尊敬もしているし、憧れてもいる。だが、自分が本当は、ここにいるべきではないという感情は徐々に高まり、自らの身体という小さな枠から、溢れ出しそうになっていた。闇の中に、男の絶叫の断片が反響している。由美のがらんどうの身体にも響いている。
「どうすれば良いのかわからなくなったら、どうすればいいかわかる?」
 リコが由美に尋ねた。
「ひたすら眠る事よ」
 リコはそう言って、由美を闇の中の目から隠すように、手で由美の目を覆った。ここで睡眠する事、意識を失う事、恐怖で不可能かと思ったが、深い疲労が可能にさせた。夢の中で声が聞こえた。自分はここにいるべきではない、という声であった。危険で刺激的な領域は、常に日常と隣り合わせで、隔てる壁は紙のように薄かった。
 目覚めるとまだ闇の中にいた。天井から水滴が垂れている。線路の傍には水たまりがあり、天井から水滴が垂れるたびに、ランプの光で青く染まった水面に波紋が広がる。リコの姿は消えていた。リコと男が深い部分で不可分だったかのように、男の声も禍々しい気配も消えていた。リコはトンネルを進んだ。しばらくすると外に出た。夜は明けていた。始発の電車は倉庫で眠っているのだろう。空は青かった。気温を肌で感じて暑くなりそうだと思った。遠くでクラクションが鳴った。一回、二回、音は空気の中に溶けてすぐに聴こえなくなった。どこかでリコが溶けて無くなった気がした。
 その日以来、由美はリコの姿を見る事はなかった。
 今でも、由美は描き続けている。もちろん、他人の絵を塗りつぶす事などしない。そして時々、あの夏の暑い日と、危険な感覚と、リコの笑顔を思い出す。今でも、描く事は、それなりに楽しいが、あの日味わったような焼けつくような感覚は味わえない。由美にその資格はない。快楽の代償に慄き、あの場から逃げ出した。今でも、リコはどこかで描き続けているのだろうか。そして、巨大な影のような何かに追われ続けているのだろうか。

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