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羊とアンテナ

 丘の斜面には羊たちが、寝そべっている。
 彼らの羊毛は空に浮かぶ雲のように白く、部分的には灰色に汚れている。空は晴れ渡り、太陽の陽差しが牧草や羊、木製の柵に、柔らかく降り注いでいる。
 一人の男が丘陵を眺めていた。丘の向こうは海であり、控えめな波の音が聞こえた。
 絵葉書に載っている風景のようだが、ここは東京湾沿いにある土地である。
 男は深呼吸した。潮の香りがした。東京湾の水だから、化学的な匂いも交じっているが、風景だけはなかなかのものだった。海外旅行気分を味わえるわけではないが、都会人の心を癒すには十分に牧歌的であった。だから不思議だった。彼はこんな土地がある事は知らなかったし、誰も話題にはしなかった。
 何故か叫びだしそうになったのを抑えた。歓喜なのか絶望なのか、それともそれ以前の感情なのかわからないが、感情を声に出して吐き出したかった。
 彼は家を見た。家のドアは開け放たれていて、誰もいなかった。もし家に侵入者がいたとしても、それは迷い羊だけだ。家は羊たちの群れから離れた場所にあり、白い壁と茶色い屋根、そして小さい窓から構成されている。
 家の側には一台の車が停まっていた。スウェーデン車で、灰色のボルボだった。タイヤはチョコレートみたいな、粘り気のある土で茶色く汚れ、牧草が付いていた。タイヤ跡は、家から数百メートルほど離れた場所にあるアスファルトの道路まで続いていた。道路は外の世界と彼を繋ぐ唯一の道だった。
 彼は羊たちのうち、もっとも気持ち良さそうに、死んだように寝そべっている羊を眺めた後、視線を少し上に向けた。
 ふいに、めぇ、という羊の鳴き声が聞こえた。
 鳴き声で表情を崩した拍子に、自分が緊張していた事に気付いた。
 視線を上げると、宇宙に向けてそそり立つ巨大なパラボラアンテナが、丘の向こうに見えた。何のために建てられているのか、何に使われているのか、分からなかった。一ヶ月前ここに来た時から、もちろんあのアンテナはあそこにあった。アンテナが建っている場所は、せいぜいここから一キロといったところだ。それでも、彼はあそこに行く気にはなれなかった。

 一ヶ月前のあの日、彼は車を運転していた。たった一か月前の事であったが、記憶は靄がかかったように不明瞭だった。
 確か、西新宿のホテルにいたはずだったのだが、気が付いたら運転していた。不思議には思っていた。なぜ自分がこんな事をしているのか。
 順調な人生を歩んできた、はずだった。放浪癖などとは無縁であったし、夢遊病なども経験した事も無かった。衝動的行動とも無縁であった。それが車に乗って、ある方向に向かっていた。自分の突飛な行動を恐ろしくは思わなかった。不思議だった。まるで、夢の続きを見ているような陶酔感さえあった。
 いつのまにか、目的地は頭の奥底でかっちりと定まっていたようだ。その方向に強い磁力を感じた。迷う事はなかった。そこに向かって、ただ進んで行けばよかった。無意識の赴くままに運転した。今から自分が向かう場所は、ここよりも、ずっと良い場所なのである。無意識がそう繰り返し囁いてきた。
 ラジオがついていた。
 交通情報を流している。
 彼は交通情報を聞いた。
 車と道路の状態を伝える交通情報は、自分が生まれてから、川の流れのように、一日たりとも絶える事無く流れ続けた情報であろう、と彼は思った。その情報をたまたま今日、彼が拾い上げたのだ。周囲には、時々トラックが走るのみだった。同じ方向、朝焼けに向かって走ってゆく。同じ交通情報を聞いているのかもしれない。何処で生まれたのかは知らないが、今、ここで同じ場所を走り、同じ情報を共有している。いったい、どれほどの偶然なのだろう。
 ふと、右側を見てみると、広大な丘陵地が広がっていた。放牧された羊たち、そしてどこまで続く長い柵。いったいここは誰が所有しているのだろうかと疑問に思った。信じられなかった。東京湾沿いに、こんなものがあったなど彼は知らなかった。広い埋め立て地を利用した遊園地や植物園がある事なら知っていた。だが羊の牧場があるとは知らなかった。
 丘の向こう側には、巨大なパラボラアンテナが見えた。
 それを見ると、彼は悪寒に襲われた。牧歌的な風景が一瞬にして色あせ、モノクロ写真のように見えた。
 パラボラアンテナは電波を集積するものである。彼も電波のように集められた気分になった。広い牧草地の一角に小さくて白い一片の積み木のような家があった。彼は高速道路を下り、そこに向けて車を進めた。牧草地の中を強引に走らせたので、運転席は大揺れになった。
 白い家に着くと、彼は自宅に入るような気楽さで家の中へと入った。心が妙に軽くなった。大きな綿に包まれたような感覚があった。初めて見た家だが、ここが本当の家だと思えた。考えれみれば、生まれてから自分に家などなかった。物理的な家はあったが、それが帰るべき場所だったのかどうかは、今はわからない。
 着いてから昼まで家でただぼんやりと過ごした。
 着いた当初は食料の心配があったが、それはすぐに無くなった。驚くべき事に、空腹にならなかった。加えて喉も渇かなかった。まるで、自分が生命力を満たした泉になったようだった。夢の世界にいるのではないかと、頬をつねってみたが、現実の世界は何も変わらなかった。むしろ、夢より不思議だった。
 もしかして死んでしまったのではないか?
 彼は何度もそう思った。
 自分はとうの昔に死んでしまっているのではないか。もしそうだとすれば、確かめる術はただ一つであった。車に乗って、元来た道を戻れば良いだけである。彼は家から出て、じっと外の世界へと通じる道を眺めた。高速道路の高架が見え、昼間の陽の光を浴びた輝く車が何台も行き来している。脱力とともに、戻りたいという意志も萎えた。
 生きていれば、よくある事だと彼は思った。感情が消え、数秒前の自分の意欲が信じられなくなる。意欲を掻き消したものは、外部からの力なのか、自分の内なる力なのかわからないが、こうなると、目的のために一歩たりとも進みたくなくなるし、一秒だって考えたくなくなる。
 羊の鳴き声が聞こえて来た。彼は最新の家へと戻った。
 陽が沈み始めると、牧草地は橙色に染まった。脚がからまった蜘蛛のような、アンテナの台座の複雑な影が牧草地に張り付いている。影の中にいる羊と、陽を浴び、羊毛を輝かせている羊がいた。彼は地面に腰かけながら、高速道路を見上げていた。巨大なトラックが銀色の荷台を輝かせながら高速道路を走っていく。孤島に取り残された遭難者のように、彼は立ち上がって、大きく手を振ってみた。助けを求めているわけではないし、ここから出たいわけでもない。ただ、存在に気付いてほしかった。一生ここで、羊と共に生きる。他にやりたい事もない。それで問題ないのかもしれない。だが、誰にも気づかれずに終わるのは、すこし心残りであった。
 陽が落ちた。
 高速道路の明かりは彼の元まで届かない。
 家の灯りが照らす範囲以外は、闇に沈んでいる。
 羊たちは眠りについている。彼は家の前に出て、高速道路を眺めた。お静かに、という看板が見える。青い下地に、白抜きで目を閉じて眠る赤ん坊と、星が三つ見える。それが、十メートル間隔ぐらいに立っている。住宅地があるから、静かに運転しろ、ということなのだろうが、十分すぎるほど静かだった。
 夜の海を思わせるこの闇の中では、白い家の灯りが灯台代わりだった。彼は一度闇の中へと歩みだした事がある。軽い散歩のつもりだった。だが、すぐに家に戻った。一センチ先すら何も見えないのだ。
 月の出ている晩などはだいぶましだった。街に住んでいると気づかなかったが、月の光、とくに満月の光というものは強力で、懐中電灯なしで外を一時間ほどぶらついた後、家に問題なく戻れるほどであった。
 ある満月の夜、彼は窓から外を眺めていた。光るブイが浮く海の向こうには、巨大なキリンのようなクレーンが三体あり、月明かりの下、こちらの様子を伺うように、彼の方を向いている。月に雲がかかり、草原が陰り、闇が深くなった。数分後、夜明けが近いわけではないのに、周囲が明るくなってゆく。見上げると、空から円錐形の光が注がれていた。実体がありそうなほど強い光は、牧草を真っ白に脱色するように照らし上げている。闇の中に、円盤が浮いていて、光はそこから出ている。 
 光の中に何かがいた。
 羊だった。
 彼は窓の外の光景に釘付けになった。
 目覚めているのはその羊だけであり、他の羊は眠り続けている。
 やがて羊は宙に浮いて、円盤に吸い込まれた。円盤が去ると、そのまま、再び周囲は闇に沈んだ。
 翌朝、起きて窓を開けると、羊が一匹減っていた。三十九匹。空は青く、雲は白かった。動物が一匹減ったぐらいでは世界は何も変わらない。夢ではなかった。窓から見える昨日の光景と今日の光景、差し引くと、一匹の羊がいないだけだった。
 彼は昼になるまで、芝生の上で羊と一緒になって寝転がっていた。
 昼になると彼は群れから離れた。
 少し離れた場所から羊の数を数えると、一匹増えてまた四十匹になっていた。
 彼は、背筋が強引に伸ばされる感触を味わった。天から何かがやってきて、肩をつかまれているような感触。家まで戻ると、壁に立てかけてある木の棒を持ち出し、家の前にある砂地に文字を書いた。書けと、頭の中に声が響いていた。とにかく書け。書く事で、途方もない感覚を得られるのだ、とその声は言っている。
 見た事も無い文字だった。ゼロから十まで、それぞれの記号が割り振られている。彼が今まで使ってきたアラビア数字のように、組み合わせにより、無限の数値を出せる。記号は頭の中に用意されたが、ある事は彼が考えて行わなければならないと、その声は言った。
 それは現在の羊の数を数字にして表現するという事だった。
 彼には自分の役割がわかってきた。
 羊の数を数えて、天にその数を知らせる役割だ。
 どういう知能の進化の仕方をしたのかわからないが、天人、おそらく宇宙人は、数が数えられないらしい。文字は持っているが、カウントが出来ない。地面に四十という数字を書いてみると、肩と脳への圧力が無くなった。
 自発的な思考を行うたびに、彼は喜び安堵した。だがそれが本当に、自発的行為なのか、自分が本当に行いたい行為だったのか、自分では判断は出来なかった。今までにも経験があった事だ。それは、きっと誰にでも経験がある。自分の意識が動かしたのか、無意識がそうさせたのか、判断できない状態だった。

 こうして、この牧草地での一週間は終わった。その後の三週間は一日一日、全く同じように彼は日常を繰り返した。
 彼は朝起きると、散歩に出かけた。冷たい空気の中で活動すると、頭が冴えた。頭を明晰にさせる事、思考を行う事が、自分に出来る最大の反抗だと思っていた。反抗という考えを頭に浮かべると、滝のように冷汗が出た。アンテナの近くにはいくつもりは無かったが、行ってみる気になった。それこそ、思考以上の反抗だと思ったが、考えてみれば、あそこには行くな、と圧力を受けているわけではない。ただ、行く気にはなれなかっただけだ。
 夜明けの薄くて青い空には、雲が一つあった。アンテナの近くには、背の高い雑草が生えていて、ほとんど森のようになっている。草を掻き分けながら、彼は中へと入っていった。草は鋭くて指の先が少し切れた。入るたびに、彼を拒むように草は徐々に高くなっていく。
 やがて、草が荒く刈りとられている円形の広い場所に出た。彼は傷ついた指を舐めながら、しゃがんで草を調べた。切断面は少し焦げていた。焦げ臭さを感じなかったのは、別の臭いでそれが上書きされたからだった。ゆっくり、彼は顔を上げた。円の中央には、朝日に照らされた動物の死骸が目に入った。羊の死骸だった。内臓が切り取られていたが、目はまだ落ちておらず、まだ生気が感じられた。
 彼は息を飲んだ。風が吹いて、彼の頭上で草が揺れ、掠れた音が降ってくる。濃厚な血の匂いも風に乗り、彼の鼻孔をついた。彼は不快そうに鼻を二回ほど鳴らすと、目的地などなかったのに、道を間違えたというふうに首を傾げながら草をかき分け、元の場所へと戻った。いつもの光景があった。絨毯のような牧草が続き、地面が盛り上がり湾曲し丘陵を作り出している。短く刈り込まれた芝生は、明け始めた空と溶け合っている。風景は気分を変えてくれなかった。彼は自分が統合された一つの世界に生きているつもりだったが、思い違いであると知った。
 昼になって、彼は牧草の上に寝そべりながら考えた。
 彼らは羊を食っているのか、それとも実験に使っているのか、それはわからない。あの死体は意図的な廃棄なのか、ミスで落としたのか、それもわからない。
 別に仇を討ちたいというわけではなかったのだが、徐々にその気持ちが強くなるのは、どういうわけなのか、自分でもわからなかった。ここでじっとしていれば、何も考えずに、羊の数でも数えていれば、きっと平和に暮らせるだろう。彼自身もそうしたかった。あらゆる煩わしいものから解放されるはずだった。
 海を眺めれば、東京湾の対岸にあるものが、青く霞んだビルと観覧車が、ぼんやりと眼に入ってくる。心地よい風が吹いていたが、暗くて青い海はほとんど動かない。羊たちの羊毛が揺れ、草も揺れた。生きている羊を眺めていると、死んだ羊の事を思い出した。
 自分も含め、みんな同じだと、彼は思った。自分の意思とは関係なく、誰かに此処に集められたのだ。

 彼らから与えられたもの、情報を、頭の片隅にある記憶から手繰り寄せると、それが、いかに自分にとって新鮮で神秘的なものか理解できた。彼が知る限りでの全く新しい言語だった。文法も何も存在しない。ただ、感触の濃淡だけで成り立つ言語だった。
 彼はこの言語の基本的な部分を、全く気付かないうちに彼らから移植されていたようだ。しかし実際には、挨拶、そして数を数えるぐらいしか出来ない。羊の数を数える仕事だけならば、それで十分という判断だろう。
 難しい作業ではない。恐らく誰でも出来る作業だろう。ならば、なぜ自分が選ばれたのかが彼には分からなかった。
 羊の数を数えるのに最適な男だと思われたとすると、時ならぬ不快感が沸いた。自分は羊を数えるだけの男ではないと、彼らに思い知らせてやりたかった。彼らから与えられた必要最小限の情報を有効活用する事で、何らかの変化をもたらす事ができるかもしれない。
 彼はさっそく、家に戻り、頭の中で彼らの数字を思い浮かべてみた。数字の組み合わせだけでは、羊の数を伝える以外のメッセージを彼らに伝える事はできない。他には挨拶だけだ。でたらめな数字を伝えてみたらどうなるだろうか、と彼は考えた。彼らは怒るだろうか、それとも不適任者として解雇するだろうか、あるいは最悪の場合、あの羊のようになってしまうのだろうか。
 彼は眠くなり、昼寝をした。
 良い夢は見れなかった。夢の中で、彼はあの背の高い草むらに捨てられている。自分の周りの草は焼けて焦げて、平らになっている。自分がどいう状態なのか、理解できなかった。どうして、あの羊は自分ではなかったのかと、彼は不思議に思った。
 彼は窓の外を眺めた。夜になっていた。巨大なアンテナと星空が見えた。
 徐々に昼間にあった反抗心が薄れていく。心が平穏になり、使命感や義務感のようなものが湧き上がってきた。ここが自分の場所だったのだと、昼間の自分では絶対に考えなかった事を考え始めた。彼は立ち上がり、窓のそばまで行った。夜空を眺めていると、自分の小ささを知り、存在を忘れられて心地よかった。たとえ感情が操られていたとしても、それが何だと言うのだろうか。この心地よさに比べれば、操作されている不快感など、風に乗って一瞬だけ流れてくる悪臭みたいなものだった。それよりも、なぜあんな無駄な反抗心を抱いてしまったのかが分からなかった。あれは一時の気の迷いであり、自分をコントロールできなくなった結果であったのだと、彼は結論付けた。
 考えているうちに、すっかり心の平穏を取り戻していた。彼は扉を開けて外に出た。光が空から現れて、彼を照らし出した。彼は木の棒を取り出すと、家の前の砂地に数字を書き始めた。刻むのは、昼間数えた羊の数だった。
 光源には何がいるのかわからない。それがどんな存在であろうが、彼には関係なかったが、その存在に褒めてもらいたかった。仕事をしたという充実感に満たされた。地面に、数字を刻む。ほんの数分で出来る作業で、体力も全く使わない。それでも、これまでの人生で、ここまで意味のある行為はないと感じていた。彼にとって本当にやりたい事など何もなかった。数を数えるという行為を卑下した事を訂正したかった。この、地面に数字を刻むという作業をやるために、自分が生まれてきたのではないかとさえ思えた。
 やがて光は去り、カーテンを引いたように、周囲は急速に暗闇に覆われた。高速道路とその上を行きかう光だけが見えていた。

 彼は朝起きると、生きている羊ではなく死んだ羊の事を思い出した。そして自由に生きる事の哲学的な意味を考え始めてしまう。昨日の自分には自由など無かったと感じていた。良くわからない存在の命令に沿って、動いていただけだ。
 行う事は昨日と同じだった。
 昼になって羊を数え、夜を待つ。
 夜になると、一人で窓辺に座り、海の向こうに見える灯台の光を見ながらバーボンを飲んだ。車の中に置いておいたメーカーズマークだった。味も匂いも感じられなかった。
 ピアノライトが窓際の木製の机を照らしている。彼は本を読んでいた。ここに来る時の車の中に常備していた本だった。
 昔、必死に読んだのだが、すっかり内容を忘れてしまっていた。本を読む事に費やしたあの時間は何だったのかと思った。数ページ読むと、本を置いた。そして、またバーボンを飲んで、灯台を眺めた。
 何度飲んでも、味はしない。空腹感を奪われると同時に、味覚も奪われていたようだ。当然、酩酊も無いが、習慣として続けている。
 外の世界ではアルコールは、仮の力を与えてくれるものだった。煩わしい事は何もかも忘れさせてくれる忘却力と、ひたすら前に進む推進力を与えてくれるものだった。
 今は見知らぬ誰かが力を与えてくれている。だから第二の血液とも言うべき存在だったアルコールが無くても、苦にならなかった。ただし、力は自分のためには使えない、力を与えてくれた見知らぬ誰かのためにのみ行使が許されている。彼は思った。これをずっと繰り返していくのか、そもそも、年齢を重ねているのだろうか。重ねることを許されているのだろうか。
 何時から何時までが、彼らの思考に支配されているのか正確にはわからないが、午前の三時になると、魂が解放され、考える時間、のようなものが作れる事に彼は気付いた。その時間だけは、彼は自身の思考の自律性を疑わなかった。アンテナのメンテナンスなのか、それとも電波が途切れる時間なのか。いずれにせよ、その時だけは、彼らに考えを抜き取られていない、という確信があった。彼は海に浮かぶ光るブイを見た。そして、今までの人生を振り返った。
 定まった家は持っておらず、ホテル暮らしだった。
 仕事と言って良いのかわからないが、投資家のような事をしていた。ピザとメーカーズマークのバーボンとノートパソコンがあれば、何もいらなかった。偏食は昔からだったが、不思議と太らなかった。かといって痩せているわけではない。神が作ったかのような見事な普通、中肉中背であった。使い切れないほどの金はあるが、車や家に金をかけるつもりはなかった。かといって、清貧を気取るわけではない。それなりのものは揃えているつもりだ。女は買ったり、自然に寄ってきたものを適当に手に入れていた。女の身体はただの入れ物だと思っていた。しかし、冷徹にはなり切れず、寂しいという感情とは手を切れなかった。
 自分でも、心身共に妙にバランスの取れた人間だと思った。天秤のように、向こう側に重いものが置かれれば、こちら側に同じ重さの何かを素早く置く。その事を誇りもしないし、何とも思わないが、他人事のように感心していた。だが、あの無残な羊の死体の事を考えると、そういったバランスが崩れた。
 彼らの言葉を大学ノートに書いてみた。数字と挨拶だけ。だが、組み合わせれば、何らかの影響を与えられるのでは、と思った。
 まさか、復讐でもする気か? と彼は自分の心に問いかけた。
 そして気づいた。昔から、この状態なのだ。彼らではないが、誰だかわからないものに指令され、動いていた。欲望など、ほとんどなくしていて、ただ生きている状態だ。だから、改めて復讐する必要などあるのだろうか、と思った。数字と挨拶の他に何かないかと、頭の中を探っていくと、異変を伝える彼らの言葉もあった。航行中の彼らの宇宙船に何か問題があったのか、ある日、言葉が彼の頭の中に伝わってきた。彼に伝えるつもりはなかったのだろうが、不意に漏れてしまったのだろう。のたうつウミヘビのような映像文字で、受信と同時に頭痛がした。実際に脳の中に蛇が這っているようだった。
 彼の額にじっとりと汗が滲んだ。グラスを持つ手に力が入る。これは、彼が彼らの船を落とす手段を得た事を意味した。この地上に、羊が百匹ほど増えたと伝えれば良い。普段は一匹程度で、多くても五匹だ。急に増えたので、彼らも不審に思うだろうが、そこで運送側に異変があったと、伝えればよい。彼らは百匹のヒツジを吸い上げるだろう。持ってくる宇宙船が百匹運べたのだ。自分たちも積載できると思うだろう。彼の見立てでは、あの宇宙船はとても百匹も積載出来ない。五匹積載しただけで、少しぐらついた。重さに耐えきれず、墜落だろう。
 彼はバーボンを飲みながら、海を眺めていた。
 万能感があった。彼はいつでも船を落とすと事ができる。
 落とすと、何が起きるのか、わからない。彼らは一人ではない。彼らの所有する船一隻あたりに何人乗っているのかわからないが、せいぜい五人といったところだろう。
 彼らに、星があるとして、彼らの総量はいかほどなのか? 
 十億か、二十億か? 
 意図的に、彼らの船を落としたのだと知られるかもしれない。そうしたら、彼らは彼をどうするのだろうか?
 彼にとって、彼らは歯向かってはいけない相手である事ぐらいは理解している。すこし気は晴れるだろうが、そんな事をして何になるのだろうか。

 午後の三時だった。
 彼はここに来てから、何日たったのだろうと思った。家にカレンダーはない。木の机に爪で傷をつけ、日数を刻んでいたが、うっかり爪を大きく剥がしてしまい、いつしかやめてしまっていた。
 何も食べていないのに、体調は日を追うごとに良くなって行く。
 彼は牧草の上にしゃがみ込み、月の上から地球を眺めるみたいに、海を見ていた。水平線に巨大なタンカーの陰が見える。
 陽光を反射させながら、音もなく円盤がやってきた。もう見慣れたものだ。それとも、頭の中に反応しないような処理をされたのかわからない。とにかく、彼はただ、空に浮かぶ塊を当たり前のものとして受け入れ、眺めていた。全体を覆う安っぽい銀色はトースターを連想させる。そして、もう熱々のトーストを味わう事はないのだ、と漠然と思った。
 羊を回収しに来たわけではなさそうだ。ただ、様子を見に来たのだろうか。もしかしたら、時間を間違えただけなのかもしれない。
 あんたらなんか、いつでも、どうにでも、できるよ。と、彼は心の中で呟いてみた。すると、それに同調するように、羊の鳴き声が聞こえる。同時に、永遠に、それをやらないのではないか、という考えが沸いた。
 このまま年をとっていく。
 死ぬまで、ここにいるのか。そもそも、死ぬ事も許されているのだろうか。
 調子は日を追うごとに良くなってはいたが、最近は少し度を超えている。
 彼らが、力を与えてくれている事は理解していた。視力は日を追うごとに良くなり、ぼんやりとしたシミにしか見えなかった水平線の上のタンカーは、色、形をはっきりと認識できるレベルになった。聴覚も研ぎ澄まされ、遠くで羊が草を踏みしめる音まで認識できるようになった。体力も増大する一方だった。ここに連れてこられた時から、疲労というものが全く無くなっていたが、最近では、それに余分な力が上乗せされている。朝起きると、羊たちが眠る丘を犬のように走り回るほどだった。
 それが、偽りの力であると考えようとしたが、そもそも、自分が持っていた力、本当の力とは何なのか、分からなくなってきていた。
 人生で苦労した記憶はあまりないが、努力で得たものではない。生まれた時から備わっていたものを上手く運用してきただけだ。
 人生を楽しんでいたが、それは自分で感じたものなのか、疑わしくなってきた。
 自分に残っているものは何だろうと、彼は考えた。
 頭に浮かぶのは、あの羊だけだった。
 この前、またあの草むらに行ってみた。自分の心の暗い部分に向かっているようで、心が暗くなった。死体はまだ残っていた。目は落ち、骨と皮だけになっていた。

 彼の中にある、ある種の感情だけは、何故か彼らからの干渉から逃れられていた。もしかしたら、それは彼らには理解できない部分だったのかもしれない。同情心、つまり、損得ではなく、人間の中に、ただ自然に湧き上がる感情。彼らもそれは、分析のしようが無いのかもしれなかった。
 落ちるところが見たいかのだろうか?
 彼は頭の中に、自分の言葉を思い浮かべた。
 落ちるところ? 一体何の事だろうか。
 それはもちろん、空飛ぶ円盤の事であり、今の彼の保護者の事だった。
 落ちる時、円盤は火を上げるのだろうか?
 重さで制御出来なくなり、エンジンのようなものがあれば、火を上げるだろうか?
 闇夜に、燃えながら落ちる円盤はそれなりに綺麗だろう。
 彼はバーボンを注ぐと、杯を掲げた。
 彼が、今までの人生で見てきた犠牲者たちへ、それを捧げた。
 彼は彼の中で多くの人々を踏みにじってきたのかもしれない。意識的にしろ、無意識的にしろ。人間だけではない、生きとし生ける動物も、そこには含まれていた。
 外を見ると、円盤が来ていた。家の前にある砂地には、彼が刻んだ数字が刻まれている。
 円盤を落とすのは、今日行うわけではない。照らされた数字は正確だった。今日は一匹だけ増えていた。嘘ではない。円盤は羊を一頭、吸い込んでいく。彼はそれをただ眺めていた。
 円盤を落とすという行為は、考えれば考えるほど、不合理な行動だった。せっかく、一生何もせず暮らせるのに。
 彼はバーボンを飲み乾した。
 何の味もしない。
 彼はもう一度、バーボンをついだ。
 そして、精いっぱいの笑顔を作り、円盤に向けて杯を上げた。
 円盤は何の反応も返さずに、闇の中に消えた。
 後には、波の音と、静かな闇だけが残された。


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