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湾岸タクシー

「就活生ですか?」
 そのタクシー運転手は言ったが、私は眼を向けることすらせず、この自動車は無人で動いているかのように、その声を無視した。
 女性だから馴れ馴れしいのかと、私は警戒していた。外に眼を向けると一日の終わりの風景が、私の意思とは無関係に眼に入ってきた。空の夕日から遠い部分は、藍色に染まり星を待っていて、空と海の交わる境界には、溶鉱炉のような橙色が、荒くて太い筆で描かれたように水平線と平行に力強く走っていた。
 何故か学生生活が終わった事を思い出し、私の心は憂鬱を超えた空っぽの気分になっていく。
 まだ十七時をちょっと回ったところだが、私は深夜の零時でも滅多に感じない猛烈な眠気に襲われていた。
 運転手の無神経な態度は、疲れた身体と心に染み、私の眠気に拍車をかけた。
 それにしても、ずいぶんと若い男の運転手だった。タクシーの運転手など、年配ばかりかと思っていた。私は二十二歳になったが、おそらく彼も同じぐらいの年齢だろう。

 東京湾沿いの会社に就職してからは、毎日、魂が空になるまで働いた。空になると、それを補う働きが作動するのか、とにかく眠くなる。今日は特に眠かったので、私は体調が悪いと言って、定時で帰る事にした。家に帰れば、少しでもましになるかという、淡い期待だけが、疲労でほとんど抜け殻になった私の魂に残っていた。人ごみもいやだったので、電車ではなくタクシーで帰ることにした。
 会社を出ると、街には会社帰りの人が増え始めていた。私は湾岸タクシーという見慣れないタクシーを停め、中に入った。シートから新しいビニールの匂いがした。私はバックミラーに写る運転手の眼を見た。眼の中に光はあったが、元気があったり、生命力があるというわけではない。夕日が網膜に反射しているだけだった。どこか無機質で人工的で、ビニールのシートと同じ素材で出来ているのではないかと思えた。
 しかし、不思議と彼から眼を離せなかった。まるで鏡を見ているかのような感覚を私は覚えた。
 南湾岸駅まで、と私は言った。
 バックミラーに見える運転手の顔を見ていると、私の中の記憶が疼いた。別にそうする義務や必要は無いのだが、何とかこの顔を思い出そうという努力を疲れているにも関わらずしてしまった。

「お客さん、お疲れですか?」
 最初の質問に答えず無言でいたというのに、彼はさらに質問を続けたので、私は閉口した。この人は、心の方もシートと同じ素材で出来ているのではないかと、少し行き過ぎなまでの軽蔑を心の中で行った。
「すこし、ね」
 無視するつもりだったが、言葉が漏れてしまった。反応した自分に自分でも驚いた。なんでこんな人と会話しようと思ったのだろう。
「明日には、何もかもが良くなってます」
 運転手はそう言ってバックミラー越しに私を見た。
 私は赤面し、眼をそらした。がっかりしていた。こんな社交辞令しか返ってこないなら、黙っているべきだった。私は彼の少し失礼な部分に期待して、私を気持ちよくいじってくれるかと思っていたのだ。
「がっかりしたんですか?」
 心を言い当てられて慌てたが、それを何とか顔に出さないようにする余裕はなかった。私はわざとらしく顔を横に向ける事しか出来なかった。ガラスに薄く写る私の顔には、微かに生気があった。私はしばらく知らなかった自分の心に気付いた。どうやら、どんな形であれ、心の交流のようなものを求めていたらしい。
「がっかりすることありません。本当の事だからですよ」
 変なやりとりだった。私は洗脳でもされているのではないかと不安になった。あるいはセラピーか。そう考えると、西日を受け、橙色に染まるこのタクシー自体が、巨大な診療室のように思えた。こんな想像をするという事は、本物の診療室に通う日も近いのではないかと、私は彼に気づかれないように、小さくため息を吐いた。お互いに名前も知らない私たちは、海の上にかかる大きな橋の上を進んでいた。夕日に照らされて、運転手と私の影が、車内に歪んだ枝のように伸びている。
「きっと、世の中は良くなっていますよ」
 彼は念を押すように言った。私は彼に問いただしたかった。どうして、世の中は良くなっているというのだろうか。私の耳に入って来るのは、悪いニュースばかりだ。たとえば環境は悪化の一途をたどり、地球の温暖化も進んでいるという。今は沈んでいる太陽だが、日中は地上を焼き尽くすほど輝いていた。今は九月だが、昔の秋はこんなに暑くなかったという。
 それに、私も年齢を重ねていく一方だ。
 私は重い眠気を感じた。
 瞼を閉じ、闇を見た。指で触れられ、摘み上げられるぐらいの濃くて存在感のある闇だった。
 どの位置からも、音が聴こえないので、落ちているのか昇っているのか、わからなかった。私は安らぎを感じた。ここで、息を止めても良いと感じるぐらいの安寧。世の中の事など、地球の環境や仕事など、どうでも良いと感じさせる静寂と漆黒だった。だが、決してこれが良いものとは思えなかった。ここは、疲労が限界に達すると訪れる事のできる境地であり、精神状態だった。
 
 闇の中から声がした。
 目を開けると、運転手の顔が目の前にあった。私は息を飲んだ。バックミラー越しではなく、直接見たのは初めてだった。
 身の危険を感じて、私は反射的に車から降りた。
「ここ、どこですか?」
 私は運転手に尋ねてみた。
 視界はぼやけていたが、ここが南湾岸駅ではない事は、すぐに分かった。
 見渡す限りの海があり、どこかの港のようだった。おそらく目の前にあるのは東京湾だ。私たちは、車がほとんど止まっていない広い駐車場にいた。まだ水平線の近くには燃え滓のような橙色が残っていたが、駐車場はほぼ闇に沈んでいて、整然と並んだ電燈が灯り、それぞれの足元に、ぴっちりとした白線と荒い石で出来た車止めを、円状にぼんやりと浮かび上がらせている。
 どうしてこんなところに来たのかわからない。確かに、南湾岸駅と言ったはずだが。
「ここは違う」と私は言ったが、運転手は首を傾げた。
「南湾岸倉庫駅じゃなかったんですか?」
 彼は南湾岸駅から数キロ離れた場所を口にした。私は呆れた。彼の耳の悪さではなく、想像力の欠如にだ。
「そう聞こえたとしても、変だと思わなかった?」
 もう夜だというのに、こんな誰も使われていな倉庫街に来てどうするというのか。
「うーん。広いところに行きたがっているように見えたんですがね」
 彼が悪びれずに言い訳の言葉を返してきたので、私は二の句が継げなかった。
「すいませんでしたね」
 気安い態度とまるで心の籠っていない謝罪に呆れながら、私は腕を組んだまま黙っていた。
 心底怒る気にはなれなかった。さっきから、いやもっと前から気づいていた事だが、彼の顔は私の顔と良く似ているのだ。
「南湾岸駅まで、ここから歩いて十五分ぐらいです」
「何が言いたいのよ」
「いい運動になりますよ」
 私が料金メーターに目を向けようとした時、彼がまた先読みしたように私に語り掛けた。
「こっちも、聞き違えたかもしれないので、ここで降りたら、料金はいりませんよ」
 かもしれないではない。聞き間違えなのだ。私はため息を吐き、海を眺めてみた。仄暗い海の上には星のように光るブイが浮いている。 
「それとも、やっぱり、南湾岸駅まで行きますか?」
 海と空を見ていると、確かに心が休まった。広いところに行きたがっている。確かに、その通りだった。私は初めて、自分の心の声に気付いた。今は、何もやるべきではないではないのではないか。それを知っていた私は、誰もいないところに行って、大きく息を吸って、心を休めたがっていたのではないか。
「ここでいいわ」
 私は言った。
「いいんですか?」
 私は頷いた。
「どういう心境の変化ですか?」
 私は照れ臭かったので、何も答えずにいた。心を読まれるのは、好きではない。僅かな感謝の心まで読まれてしまう事を恐れた。
 運転手も何も聞かなかった。結局、心が読まれている気がした。
「ねえ」
「なんです?」
「何処かで会った?」
 運転手は首を傾げた。
「いいえ初めてですよ」 
 運転手はそう言うと、笑いながら走り去って行った。
 私はただ、タクシーを見送るしかなかった。一体、何だったのか。彼が私に似ていて、私の心を読む事が上手かったのは確かだった。だから、私はずっと、独り言を言っていたような気がする。
 私はしばらく、誰もいない駐車場で空を眺めていた。
 私は空の全てが藍色に染まり、橙色が消え、闇が来て、星が瞬くまで、そこに立っていた。

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