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ドライブ

 海に来るつもりは無かったが、ふいに胸の内にこみ上げてくる懐かしさに引き寄せられ、妻を説得して車を浜辺へと向かわせた。
 この辺りはだいぶ変わってしまった。昔はもっと錆びついたトタン屋根の平屋で埋め尽くされた町だったのだが、今では茶色と白の南欧風の家が立ち並び、すっきりと整理されたリゾート地のようである。たった今通り過ぎた場所はバス停だった。今でもそうであるが、私の知っているバス停とは違った。昔はコンクリートに鉄の棒を突き刺し、ひしゃげた鉄板に時刻を書いただけの時刻表があり、ひび割れた青いプラスチック制のベンチがあり、錆びついた自販機があった。だが今は、洒落た半透明のプラスチック屋根のひさしの下に、柔らかい陽の光をうける厚い木のベンチと、ぴっちりとしたプレートにはめられた時刻表がある。私は故郷に来たのに、ずいぶん遠くに来てしまったと思った。
 砂浜に出ると、昼の陽射しが海を輝かせていた。水平線の眩しさは二十年前と変わらず、私は目を細めた。ここに来る事を渋っていた妻も、白い砂浜と青い海がもたらす解放感で、すっかり機嫌を直したようだった。私は白いペンキが剥げて朽ち果てた海の家に寄りかかり、妻の姿をただ眺めていた。眺めながら、私は少し前から私の中にあった奇妙な気分にとらえられていた。私は自分が何処にいるのか、何処に向かっているのか、分からなくなっていた。故郷に来たが、故郷は何も教えてくれない。教えてくれたのは、私の故郷はもう消え去ったという事だけだ。
 ふと足元を見ると、砂の上に見慣れたものがあった。私は目を疑った。二十年間見ていなかったものが、私の眼前にあったのだ。
「ミニカーだ」
 小さな玩具の車は、砂に埋まっていた。まるで砂漠のハイウェイでハンドル操作を誤り、道端の砂丘に突っ込んだように。無様な姿だが、懐かしさで胸がいっぱいになった私には、むしろ愛らしく見えた。
「来てみろよ」
 私は妻を呼んだ。
「……ミニクーパーね」
 だから何だと言うように妻が呟いた。確かに、何の変哲もないミニクーパーのミニカーだ。
「これは、もう生産していないはずだ」
 信じられなかった。しかもそれが、私の所有していたミニカーそのものなのだ。屋根にある特徴のある傷。確かに私が爪でつけた。世界でただ一つの私の所有物であると示すために。
「同じ型のものを、誰かが捨てたんでしょ?」
「二十年前のものだぞ? そうなら、もっとボロボロだろう」
 詰問するような言い方だったので、妻はせっかく直した気分をまた悪くして黙り込んだ。その様子に私は気づいていたが、蘇った過去の記憶に捉えられ、取り繕う事はしなかった。二十年前、私はこのミニカーを手に、この錆びた町を歩き回り、まるでこの車に乗っているような気分になったものだった。なぜ、ここにあるのかを考えるうちに、このミニカーから私に会いに来たような気になった。そしてさらに、もう一つの妄想が、私をとらえ始めていた。もしかしたら、親父はここに私の思い出の品を全て埋めていたのではないか。父はこの地区の他の住人と同じ貧しい工員だった。暴力的な父に耐え兼ね、母は家を出て、私と父は二人暮らしをしていた。父が与えてくれる玩具といえば、ミニカーだった。今は廃工場になっているが、ここから見える海沿いの玩具工場で父は働き、ミニカーを製造していた。私のミニカーの所有台数は五十台ぐらいで、私はこの町では名の知れたミニカーのオーナーだったのだ。
「他にも埋まってるのかも」
 馬鹿げた妄想かもしれないが、このミニカーがその想いを加速させた。
「本気なの?」
 私はミニカーを朽ち果てた海の家のテラスに置いて、じっとミニカーが刺さっていた箇所を穿つほどに眺め続けた。
「掘りたきゃ掘れば?」
 妻はふざけ半分に、何処かの子供が砂浜に捨てたおもちゃのスコップを差し出した。私はどうしても、ミニカーが在った事が気になっていた。あの傷が偶然である可能性はある。それでも、私はここには何かがあると考えていた。
「先に帰ってくれ」
 私の家はここから車で十分ほどのところにある。歩いて帰れない距離ではないが、問題はそこではない。自分の行動がいかに異様か理解できていなかった。妻は呆れて車に乗り込んだ。
「気がすんだら、帰ってきて」
 妻が走り去ると、私はいくぶん正気を取り戻した。妻の機嫌を直すのにだいぶ時間がかかるだろう。砂の上に座り込み、走り去る車を眺めた。そして、テラスの上のミニカーを見た。私は何処かの砂漠に取り残された気分だった。
 私は穴を掘り始めた。炎天下で、砂をひたすら掘るという作業は考えていたよりも体力を消耗した。ここ数年感じたことのない疲労は、私を朦朧とさせ、ある種の恍惚状態に導いた。穴を掘るごとに思い出が鮮明に蘇る。土が土では、砂が砂でないように感じられる。土と砂がまるで私自身の血肉のように感じられた。私自身がすっぽりと隠れられるほどの穴を掘ると、土の中からミニカーが出てきた。手に取り、確信した。それは私のものに違いはなかった。また掘ると、別の車が出てくる。父はやはり、私のために埋めていたのだ。私の所有していた車たちを、私は捨てられず押し入れの中にしまい込んでいた。家出同然で家を出た時も、それはまだあったはずだ。家を出てから父と会う事は無かった。私がこの近くに再び引っ越して来た時、家はすっかり取り壊されていた。夢中で掘り進み、もう三十台ぐらい発掘しただろうか。見上げると、空には星が出ていた。だいぶ深くまで掘ってしまった。地上に戻れるのかと、不安になるほどだった。その時、穴の底から声が聞こえた気がした。それは、懐かしい父の声だった。風のような波のような、捉えどころのない声だった。私は穴の底に這いつくばり、声を聞こうとした。そして、父に問いかけた。なぜ、埋めたんだい? 
 父の声がようやく聞こえた。質問の答えではなかった。
「これは本当のドライブじゃないぞ」
 その昔、父が私に言った言葉だった。私の家には車はなかった。父はミニカーを持つ私を肩に乗せ、砂浜まで歩いた。母の事もあり、父とは折り合いが悪かった。しかし、肩車されている時、私は全てを忘れる事が出来た。それは父も同じだっただろう。まるで、車に乗っているように、走り出したり、急停止したり、海岸が見えてくると、ゆっくり歩いたり。そして父は言ったのだ。
「これは、本当のドライブじゃないぞ。いつか、本当のドライブをしろ」
 本当のドライブ、その言葉を忘れてた。だが、私の中にはずっと残っていた言葉だった。私は父からの影響など、何も受けていないと、思っていた。
 誰かに肩を叩かれ、私は目覚めた。そこには妻がいた。まだ夜にはなっておらず、真っ赤な空と飛行機雲が私の上空にあった。穴はせいぜい、私の膝下ぐらいまでしか掘られておらず、発掘した車も何処にもない。海の家のテラスには、ミニクーパーがあり、西日を浴びて車体は輝き、ペンキの禿げた白い板の上に長い影を作り出している。
「なかなか帰ってこないからさ」
 夢と現実はだいぶ違っていたようだ。この程度の穴で疲れ果て、眠りこけていたのかと私は自分の体力に呆れた。そして、大きく伸びをすると、妻に言った
「帰るか」
「持って帰らないの?」
 妻はテラスの上にあるミニクーパーを指さした。私は首を振った。私にはもう必要のないものだ。きっと、何処かの子供が拾って使ってくれるだろう。
「運転させてくれ」
「疲れてんでしょ?」
「まっすぐ帰りたくないな」
 散々勝手な行動をした上に、このお願いである。怒られるかと思ったが、妻は呆れたように呟いただけだった。
「好きにして」
 窓を全開にして走った。潮風が我々の間を通り過ぎる。水平線は藍色と燃えるような赤が混ざり、一日の終わりを私たちに示す。父はもう帰ってこない。母も帰ってこない。錆びついた町で味わった一時の幸福ももう戻ってこない。苦痛も何もかも、全ては過去のものとなった。私たちにはこの先しかない。もう少しスピードを出せと言われたが、私は何も言わず、ただ笑顔を浮かべ、ゆっくりした前進を楽しむ。妻は不思議そうな顔をした。
 私はこの幸福を忘れていた。今は本当のドライブが出来るのだ。

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