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地方に行って視野が広がった話

都会に出て、視野が広がったという話はよく聞く。都会は、エンターテイメント、学問、ビジネス、人間関係、あらゆるものが多様で多くのコンテンツに満ち溢れているからだ。

でも僕は、地方に行って視野が広がった。

数日前、地方都市の古民家で、とある人と会話をした。

「老いと演劇というコンテンツは介護施設という場で認知症を演じるからこそリアリティが出るアート作品だと思うんだ。ただの観客だったはずなのに、もしかしたら自分も認知症でベッドに寝ている立場になるかもっていう妙なリアリティがあるよね。」
「そうですね。立場の逆転というか、役割のすり替えというか。それはモバイル屋台de健康カフェも似ていて、コーヒーを配っていた人が実は医者だったという役割のすり替えがあって、それが医者を権威勾配から降ろすことにつながるのが妙に面白いんです。」
「そうだね。立場を逆転させるという意味では、モバイル屋台もアートに近いね。」

地方に来て、豊岡に来て、よもやこんな深い話をするとは思わなかった。この会話の詳細については、こちらの記事に譲りたい。

この会話は本当にやけに深い。深いのは、会話が専門的だからではない。その会話が、医者とアートディレクターという全く違う職種によって行われた抽象的な議論だからだ。

具体的事象を抽象化して、別の具体的事象の抽象論との相違点を比較している。つまり、ある活動の本質を理解し、それを抽象化する能力、抽象化の意味を汲み取る能力、抽象化されたことから具体的事象を想起する能力、そしてそれを比較する能力がなければこの会話は行われない。

この会話の場合、老いと演劇というコンテンツが観客をただ見る立場から出演している感覚になるという立場の逆転を想起させるコンテンツであるという抽象化が行われ、立場の逆転という意味合いがモバイル屋台de健康カフェというコンテンツも似たように内包されていることを語り、比較している。

深い、深いといったが、会話の片方が自分なので、手前味噌感がすごい。それでもこれについて書きたかった理由は、こんな会話を地方に来てできると思っていなかったから。その感動を伝えたかった。


僕は、新社会人を機に地元の田舎に移住した。これは奨学金の都合やら何やらあったからで、何もしがらみがなかったら、多分東京に残っていたと思う。それほど、東京は居心地が良かった。東京は居場所がない、コミュニティがないという人もいるが、僕はそうは思わない。

むしろ、東京は変わり者が多く、人口も多いため、狭いコミュニティで浮きやすい人がコミュニティを作りやすいのだ。例えば、超マイナーなアーティストのファンクラブのオフ会、ある建築家による建築物を語る会みたいなものは、たぶん東京以外ではできないと思う。

そういう意味合いで僕も東京に救われた。ただ救うだけが医療の役割じゃないと医療の再定義をした僕にとって、医者でゲームアプリを作ったり、医者で落語やってたり、医者で小説家だったり、医者で起業していたり。様々なことをしている人がいる東京は、こういう医療のカタチもあるのだと、話していて心地が良かった。

一方、地方に行くと居心地よくなくなる。医者は病院で勤めている人以外聞いたことがないし、話が合う人なんていないかもしれない……と思っていた。

でも、そうではなかった。先ほど紹介したような抽象的な会話が生まれた。地方でも心地よい会話ができた。


理由はこれもきっとコミュニティだ。

地方のコミュニティは都会と違う。都会のように、医者なのに、ゲームアプリを作ったり、落語やってたり、小説家だったり、起業していたりする人はいない。今の医療はなんとなく違う、もっと違ったやり方があるんじゃないかって思った医師同士でコミュニティを作ることなんてできない。僕が所属していたSHIPやHEISEI KAIGO LEADERSみたいな、そういう類のコミュニティは作れない。

地方にはそんな人はほとんどいないのだ。そういう変わった人はたいがい浮いてしまう。

「超マイナーなアーティストが好きなんだよね」「ふーん、そうなんだー」で終わってしまう。これが都会との違い。でも、地方がそういう人をすべて見捨てるわけじゃない。僕が見捨てられなかったように。

地方では、一つのコミュニティが多数のマイノリティを内包するコミュニティになりうる。

僕が通っているコミュニティスペースには、超頭のいい小学生から市役所リタイア後のご意見番のおばちゃんまで様々な人が訪れる。ときには、介護職兼ダンサーが踊っていたり、音楽家が演奏していたり、医者が屋台引いたり、公務員が鳥類の話を語ったり、アートディレクターがピアノを弾いたり。言うなればカオスな状態。

それでも、普段の職場で話が合わない (かもしれない)人たちが、どこか居場所を求めてやってくる。同じ分野で同じ考えを持つ人がいないから、そこに集まるしかないのかもしれない。

でも、それがメリットでもある。違う分野の変わった人が集まれるのだ。一流のシェフが二流のシェフと話すより、一流の寿司職人と話す方が楽しいのと似ている。一流同士で抽象的な話が合うのだ。そこから寿司を握るノウハウを応用して一流のシェフが新たな料理を生み出したりする。他分野の一流同士はイノベーションが生まれやすい。

僕らが一流かどうかはわからない。でも、地方にはそういう様々なジャンルの変わった人たちが集まるコミュニティがある。そういう場所が、LGBT、学生、障がい者など、マイノリティの受け皿足り得るのかもしれない。

地方のコミュニティの可能性を感じた。


地方に行って、視野が広がった。

理由は変なコミュニティかもしれない。


(photo by hiroki yoshitomi

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