見出し画像

短編小説 磁石の恋人

「わたしたちって磁石みたいだよね」

調子に乗って言っていたこのセリフが、まさか現実になるとは。

せっかくの休日なのに、あいにくひどい台風だった。風がうなり、ゴミ袋や小枝が空を舞う。震える窓ガラスに、雨がたたきつける。外に出るにも出られなかったので、同居人の直人とベッドでだらだらと過ごしながらも、ニュースを見て状況を探ったり、「万一に備えて」と携帯電話の緊急連絡先に互いの番号を登録しあったりしていた。

窓の外がフラッシュを焚いたように激しく瞬き、直後に雷の音が鼓膜を殴った。

「こわい」

足元の掛け布団を引き上げてかぶり、直人に抱きついた。彼のわきの下にすっぽりおさまって、胸元に頬を押し当てる。Tシャツから柔軟剤と直人のあたたかい匂いがした。彼の心臓の音をかき消すようにひどい雷鳴が轟き、ずしんと腹の底まで響くような衝撃が走った。

やがて、雨脚が弱まり、雷も遠のいた気配がした。天井の電気が消えてクーラーが止まっている。ブレーカーが落ちたらしい。

「ねえ、さっきの雷、このへんに落ちたんじゃない?」

身を起こして様子を見に行こうとしたが動けない。直人から体が離れないのだ。

「え、やだ。ちょっと、どうしよう」

「なんだこれ」

身を引き離そうとするが、少しでも隙間ができようものならただちに吸い寄せられてしまう。慌ててわたしに触れた直人の手のひらが、さらにわたしの肩にくっついてしまった。

顔、腕、脚、胴体と、接着面の小さなところから順々に取りかかっていく。ベッドのへりやヘッドボードをつかんで力をこめて、ようやく互いの体を引きはがした。皮膚が餅のように伸びて千切れそうだった。くっついていたところが真っ赤になり、場所によってはあざもできていた。汗びっしょりになった。

「ああ、びっくりした。どうなってるの」

それから、ふたりで大騒ぎして検証した。半径一メートル以内に近寄ると、体の毛が相手に向かうようなざわざわした気配を感じる。五十センチを切ると、足元がぐらつき、前のめりになる。三十センチの距離ではものにつかまらないと、踏ん張っていてもじりじりと寄っていってしまう。先ほどの感じだと、生身では何かの拍子でくっついたときに面倒かもしれない。冬用の厚手のコートでガードする必要がありそうだった。

「いまの雷のせいかな」

地球自体が巨大な棒磁石のようなものなので、そこから生まれたわれわれが何らかの刺激で磁石になることもあるのかもしれない。血液中には鉄も含まれていることだし。だが、机の上のゼムクリップや冷蔵庫のマグネットなどにそうっと手をかざしてみても、微動だにしない。

インターホンが鳴った。宅配の定期便だ。顔を見あわせる。人間磁石化した状態で出たら、どうなってしまうことか。

「わたし行ってくる」

「いや僕が」

数分後、直人は気の抜けた顔で箱を抱えて帰ってきた。

「何ともなかった。コートを着たまま出たから、一瞬変な顔されたけど」

磁石化しているのはふたりの間だけのことらしい。万一、自分自身が磁石の固まりになっていたとたら、携帯やパソコン、電子機器の類は使えない。包丁だってこわいから料理だってろくにできないし、出かけたら出かけたで、車が近づくだけでも危ないだろう。小銭はおろか、磁気の仕込んであるクレジットカードも注意して扱う必要があるから、買い物も不便だ。不幸中の幸いだった。

「雷じゃないなら……ひとめぼれ同士の運命、だったりして。ふふ」

「ばかいうなって」

直人とは互いにひとめぼれだったと信じている。数年前、朝に短期開講されていた社会人向けの英語の講座で知りあった。初めて彼を見たとき、そこだけ光ったように見えて時間が止まった。よく「電気が走ったような」と表現されるが、このことかと感じた。ゆで卵にカミソリで目鼻立ちをつけたような顔で、中肉中背。これといって目立つ要素はないのだが不思議なものだ。向こうは建築士、こちらは普通の事務職で、仕事上の接点は特にない。だが、勤め先が同じ方向にあり、講座のあとに一緒に朝食をとることが増えて距離が縮まった。そのとき、普段は冷静な印象の彼が目尻を下げて、わたしに「子どもの頃に飼っていたペルシャ猫にそっくりだ」と言ったのだ。「ふわふわして、どんくさい」と。微妙なコメントだが、どうやら「初めて会った気がしない」ということらしかった。年月が経って互いによそゆきの気遣いはなくなったが、わたしの方はいまだに直人に見とれることがある。冷たくあしらわれることがあっても、本心はそうでないことも知っている。

ひとめぼれの作用で謎の「磁力」がひっそり生まれていたのか。性格はまるで反対のふたりなのに、ずっと一緒にいられるのは、反対だからこその磁力のおかげか。そういえばふたりのイニシャルは、彼が須藤直人でSN、わたしが西村さやでNSで、これもちょうど反対の組みあわせ。思いついて、にやにやした。

自分も冬のコートを着たまま、宅配の荷ほどきをしている彼の背中にぴったりともたれてみた。

「うふふ」

「暑いっ。重いっ」

直人は水を求めて立ち上がったが、簡単にはがれないわたしをずるずるひきずってキッチンに行く羽目になったのだった。

健康診断を受けてみても、特に所見らしきものはない。互いに磁石化して、はじめこそ面白がってわざとくっついたりしていたものの、やはり日々の生活を送る上では不便極まりなかった。

同じ食卓につけない。四人掛けのダイニングテーブルで対角線上に座っても、同じ器に同時に手を伸ばすとアウトだ。一度、肉じゃがを器ごとひっくり返してだめになった。それに、家の広くない廊下ではすれ違うこともできないし、重いものを移動させるときや高いものをとりたいときに「ちょっと来て手伝ってー」が気軽に言えない。共同作業、支えあいは物理的に困難だった。当然、一緒に寝ることもできない。冬場なら着こんで直にくっつくことを防げるかもしれないが、いまは夏の、布団も蹴飛ばしてしまうような暑い時期だ。直人が客用のソファベッドを仕事部屋に入れて使い、わたしはそのままベッドを使わせてもらうようになった。

次第に、互いに互いを避けるようになってきた。気がつくと、直人の姿が見えない。持ち帰りの仕事があるときも、これまではダイニングにパソコンや資料を出して作業していることが多かったのに、「守秘義務なんかもあるから」などと、仕事部屋に引きこもるようになった。なんだかぴりぴりしているようで、用もないのに近づくのがためらわれた。

そっと直人の部屋のドアをあけて、奥のデスクで作業をしている背中を眺める。最近は、ほとんど背中しか見ていない気がする。部屋には踏みこまず、戸口で声をかけた。

「ねえ、お風呂沸いたよ」

「先に入って」

こちらを振り向くこともなく、すげない調子だった。不機嫌にみえるときでも、喧嘩をしたあとでも、触れあうことで気持ちを通わせあうことができた。だけど、今はそれに代わる手段を見つけだせていなかった。リビングやキッチン、洗面所など共有の場所は、ずっと入れかわるように使っていたが、くっついてしまわないようにという気遣いからではなく、顔を合わせるのが面倒だからではないかと勘繰るようになってきた。彼だけでなく、自分自身も。わたしの就寝時間はどんどん早くなり、向こうは遅くなった。夜中に目覚めることが何度かあったが、いつでも直人の部屋の明かりがついていた。朝一番に、こっそり直人の寝顔をのぞきに行く。閉じたまぶたが半月みたいだ。触れてみたくなるけれど、わたしの指がはがれなくなってまぶたが破れでもしたら大変なので見ているだけだ。なるべく音をたてないように朝食をとり出勤する。

テーブルに「遅くまでお仕事大変そうだけど、無理しないでね」とメモを置いた。用紙の隅にはU字型磁石をもつペルシャ猫のイラストをつけている。昼休みになると携帯のほうに「手紙ありがとう。そっちもな」とそっけない返事がきた。返ってくるだけ、まだましなのだろうか。

「はああ」

仕事終わりに、コーヒーチェーン店の窓際で人の流れを眺めながら、大きなため息をついた。ここしばらくなんとなく家に帰りづらくて、ぎりぎりまで外で時間をつぶすようになっていた。

「おつかれ」

男性の声に振り向くと、同期の和田くんだった。システムエンジニアなので採用枠は違ったが、入社人数が少なかったせいもあり、折々の同期の集まりで一緒に幹事をするなど、わりと仲良くしていた。一見軽そうだが、気配りがこまやかなためか、社内では性別年齢を問わず慕われているようだった。

「最近、よくここにいない? 何してんの」

「別になにも……くつろいでる」

氷が溶けて薄まったコーヒーをすすりながら答えた。

「くつろいでいる感じには見えないけどな」

和田くんはマグカップを手に、隣の席に腰かけた。「こんなに近くに」と一瞬驚いたが、よく考えたら一般的な距離だった。

「うまくいってないの?」

「なにが」

「仕事じゃないだろ」

「うーん」

「まあ、いいけど」

和田くんとそのまま近況を話しあい、けらけらと笑いあった。ドーナツを追加注文し、コーヒーをお代わりして、気がつくと店員さんに「まもなく閉店です」と呼びかけられていた。「じゃあ、また」と、それぞれの駅に向かった。「ああ、こんなのひさしぶりだなあ」と、晴れやかな気持ちだった。

帰宅して電気をつけると、ダイニングテーブルの上には、パスタの皿がラップをかけて置いてある。触れると、まだほんのり温かかった。めずらしく直人が早く帰っていたのだ。たぶん、食べるのもしばらく待ってくれていたのだろう。連絡も入れずにこんな時間になってしまった。

直人の部屋に小走りし、ドアを開けて声をかける。

「ごめん、遅くなってしまった」

「ああ。なんか食べてきたのなら、置いておいてくれていいよ」

こちらに一瞬、顔を向けて、すぐに自分の作業に戻っていった。声の調子は明るく優しいが、表情は読みとれなかった。不機嫌なときほど、なんでもないふうにする。これまでの生活で知っていた。一歩踏みこむと、体が直人に向かって自然に吸い寄せられそうになり、踏みとどまった。肩に手をかけたいけど、できない。笑ってくれていたら、できるかもしれないのに。少し大変でも、ふたりで協力しあって離れればいいだけなのに。でも今は、直人にそれを求めていいのかわからない。

レモンクリームパスタは、わたしが前にほめたものだった。温めもせずに食べた。自分たちもこれくらいの温度なのかな。散らしてあるレモンの皮が苦かった。ドーナツがまだ胃に残っていて苦しかったけれど、意地になって皿を空けた。

コーヒー店で話した日以来、和田くんからの連絡が増えた。多国籍料理のうまい店があるからどう、とか。今度同期のやつら誘って釣りでも行かないか、とか。なんとなく別のレールが敷かれていく気がして、「うん、またぜひ」「みんなタイミングが合えばいいね」などと、返事をぼんやり濁していた。

そういえば、しばらく直人と一緒に出かけていない。今までは時間をやりくりして、互いに気にいっている店に食事をしにいったり、本屋のはしごをしたり、お弁当持参でピクニックへ出かけたりしていたのに。

べったり一緒にいなくても、同じ体験を共有することはできるんじゃないだろうか。最近では半径三メートル以内に近寄った試しがなかった。磁石化して初めの頃は、ぎこちなく距離をとりながらもまだ同じ部屋にいて互いの気配を感じることができた。部屋を入れかわり立ちかわり使うようになってからも、互いへの気配りを示しあっていたはずだ。なのに今ではどうだ。同じ家に住んでいるのに、相手がいないかのように過ごしている。同じ時間帯に一緒にいてもろくに顔も見ない、話さない。初めはそんな状況を辛いと感じていたはずなのになんとも思わなくなりつつある。辛さを感じないようにしようとして、行き過ぎたのか。

「か、かていないべっきょ」

口をついて出たのはそんな言葉だった。別に結婚しているわけではないけれど。いや、だからこそ、自分たちの関係を維持していこうとするなら、もう少し努力してみてもいいのではないだろうか。

さっそく直人を待ち構え、キッチンにお茶を入れにきたところをつかまえた。

「ねえねえ、今度の週末、時間ある? ひさびさに、一緒にどこか行かない?」

直人は目を見開いた。ひさしぶりにちゃんと顔を見た。彼はコップのお茶を一口飲むと言った。

「どこに? どこか行くにしたって一緒に歩くし、電車だって乗るだろ。外であんなことになったら大変だろう」

「ふた通り考えたの。ひとつは、半分別行動になるけど、いまみたいに距離をあけて目的地まで行って、同じ体験をして、また距離をあけて帰ってくる。もうひとつは逆に、手をつないで出て、そのまま行動して、また帰ってくる。別行動ができないから、近場しか行けないだろうけど。さあ、どっち」

「『さあ、どっち』って、なんだよ」

直人が笑って、わたしも笑った。

「よし、じゃあ手をつなぐ方でいくか」

「うん」

「ひさしぶりに、デートってやつだな」

相談した結果、土曜日の朝、近所のスーパーに行ってみることになった。

前日の夜は、ひさしぶりに一緒に外出することに胸が高鳴っていた。何が起こるかわからないドキドキと、相手に触れるドキドキとが入り混じって、つきあいはじめの頃のようだった。色々あっても、やっぱりわたしは直人のことが好きなのだ。向こうも前向きになってくれたのがうれしかった。一緒にいると、くっついたり離れたりして大変だろうけど、もっと経験を積めば、距離の取り方や対処の仕方もコツもわかってくるはずだ。

いよいよ土曜日になった。出発予定時刻になり、互いに少し離れて玄関前に集合した。わたしは一番気にいっている紺色のコットンワンピースに身を包んでいた。

「あれ、なんか今日違う?」

直人の一言に、またにやにやする。

「いつもより丁寧に化粧してみた」

「いや、そういうのじゃなくて、なんか違うんだ」

直人の方も、なんとなくすっきりとして見えた。見慣れているはずの、何でもないデニムのシャツがよく似合っていると感じた。ふんわりと、やわらかい何かに包まれている気分になった。

直人が手を差しだした。

「では、行きますか」

「行きますか」

おそるおそる、歩み寄る。わたしを包みこむやわらかい何かの存在感が増して、胸がしめつけられるようになった。

いざ、直人の手を取ろうとしたときだ。つるんっ、と手がすべった。目に見えないゴム毬に押し返されたようだった。

「あれ、あれ」

ふたたび試みた。慎重に、互いの手のひらを寄せあってみる。やはり抵抗を感じる。壁のパントマイムで遊んでいるみたいだ。体ごと寄せてみる。これだけ近くにいたら、足を踏ん張っていてもじりじり近づいてしまうくらいの力が働いていたはずなのに、今では近づこうとしても近づくことができない。泣きそうになった。

「これって、どっちかの極が反転したってこと?」

「N極どうしとか、S極どうしだと、反発するってやつ?」

せっかく、ふたりで磁石化の事態を受けいれることに前向きになれたのに、まさかこんなことになるなんて。急に血の気がひいて目の前が暗くなり、しぼりだすように言った。

「もうやめとこうか、出かけるの」

「一回決めたことだろ。行こう。どうせもうひとつの案は『距離をあけて目的地まで行って、同じ体験をして、また距離をあけて帰ってくる』だったし」

「うん……」

「せっかくだから、映画でも行こうか」

直人が先に玄関を出た。距離がつまらないまま、あとをついていく。わずか一メートル程度の距離だが、会話しようとするとなると大声になってしまうので、携帯で連絡をとりあいながらの移動になった。ふたりでよく利用していた映画館に行くことにした。

「何見る」

「こわいの以外」

「え、なんで」

「だって、離れてひとりじゃ、ちょっと……」

結局、観ることにしたのは海辺の町を舞台にした静かな映画だった。先に直人が受付でチケットを二枚買ってくれた。受け渡しのために、直人は一枚をゲート前にあった椅子に置き、指で「ここ」と示した。受け取ってシアター内に入ると、同じ列で、三つくらい離れた席だった。スクリーンでは、外国とも日本ともつかないような白い浜辺で、登場人物たちがささやかだけど大事な日々を送っていた。出会って、別れて、また出会う。地味な映画だからなのか、映画館に人はまばらだった。映画の途中、時折、直人の横顔に目をやった。スクリーンからの光の強弱で陰影ができて、知らない人の顔を眺めているようだった。これまでは肩を寄せあい、時には手をつないで、肌で映画の感想を交わしながら観ていたのに。そう思うと、さびしくなった。

映画が終わって、外に出た。また距離があいたまま、同じ方向に歩きはじめる。

「あの世ともこの世ともつかないような」

「主演の俳優さんの得体のしれない感じがよかった」

携帯で互いにとりとめもない感想を話しながら歩いていると、先を行く直人が足を止めて振り向いた。

「ひさびさに、あの店でお昼を食べて帰ろうか」

「うん」

映画館の帰りによく立ち寄ったイタリアンバルがあった。路地裏にあるこぢんまりした店だが、赤い壁に掲げられた黒板には常に旬の食材を活かしたメニューがぎっしりと書かれており、味も良く手頃な価格で、穴場だった。何度か同僚とも利用したことがある。

「ひとりずつ時間差で別々に行って、離れたところに座ったらいいよ」

「ふたりとも入れたらいいけど」

「ピークは外れているからだいじょうぶじゃないかな。様子をみて、難しそうなら別の店にしよう。ちょっと待ってて」

直人が店内に入ってすぐ、携帯が鳴った。

「ふたり席がところどころ空いているからだいじょうぶだと思う」

「了解」

店に足を踏みいれ、ひとり客であると告げた。店の中ほどに位置するカウンター席からこちらを見ている直人に目配せする。入口に近い方の席に腰かけようとしたとき、聞き覚えのある声がした。

「あ、西村じゃないか」

奥のテーブル席に、和田くんの姿が見えた。ひとりだ。「こっち来いよ」とでも言うように、身振りで示している。直人が眉を寄せて和田くんを見ている。わたしは和田くんに向かって笑顔を浮かべながらも、首を横に振った。

和田くんは手を上げて残念そうにうなずくと、食事の続きに戻っていった。

直人と同じランチコースを選び、同じペースで前菜、メイン、デザートと食事を進めた。合間合間に感想を送りあった。

コーヒーまで飲み終えると、急にトイレに行きたくなった。映画の前に一度行ったきりだった。店の通路奥にあるトイレまでは、直人の席の真後ろをすり抜けていかなければならない。見えないゴム毬に阻まれるに違いなかった。少しずれてもらったほうがいいかもしれない。直人にメールを送った。

「トイレに行くから、後ろを通らせてね」

待ってみたが、彼は厨房の様子に見いったまま動かない。トイレはこらえようとすると、余計に行きたくなるものだ。わたしは席を立った。

近くまできてやっと、直人が「あれ」という顔をした。通路を進もうとするのに、やはり押し返されるようになり、その場で足踏みする形となった。直人に小声で訴える。

「トイレに行きたいの。でも、進めない」

「え?」

直人は聞きとろうとするように耳に手を添え、こちらに向かって勢いよく席を立った。

次の瞬間、わたしは跳ね飛ばされるように、通路に尻餅をついた。振動で尿が漏れそうになった。冷や汗をかいた。

直人が心配そうな顔で手を差し伸べてくる。届かないのに。余裕を失ったわたしは叫んだ。

「だいじょうぶだから離れてて。そばに来ないで」

直人は目をふせて、カウンター席に体を押しこむようにした。

わたしはようやくトイレに入ると、涙ぐんだ。あんなふうに、言わなきゃよかった。用を足して手を洗うと、目の下ににじんだ化粧を拭きとり、外へ出た。直人の姿はなかった。携帯にも何も連絡は入っていない。会計を済ませようとすると、すでに直人が払ってくれたという。

慌てて飛びだすと、和田くんが追いかけてきた。

「だいじょうぶ?」

返事をせず、うなずいて歩みを進めた。和田くんがついてくる。

「ごめん、気になってしまって。あの人、彼氏だろ?」

うなずこうとしても首が動かない。

「だいじょうぶだから。それより和田くん、近い」

和田くんが口をつぐんで距離をあけたが、急に慌てはじめた。

「ちょ、ちょっと」

わたしは前を見て歩きながら、ボロボロと涙を流していた。

その後、直人からの申し入れで、同居をいったん解消することになった。近くのマンスリーマンションを借りたのだという。一時的に物理的な距離を置こうという提案だったが、別れも時間の問題だと感じた。

「ごめんなさい。『離れてて』とか『そばに来ないで』なんて言って。違うの」

「わかってる。そういうことじゃないんだ。僕自身が情けなくて、いたたまれないんだ。近くにいるのに、君が困っているときに助けられない。これからも助けようとして、逆に危ない目に遭わせてしまうかもしれない」

「そんな。あの日のことだけで決めてしまわないで。経験を重ねるうちに、うまくやっていく方法がみつかるかもしれないじゃない」

「ふたりが磁石みたいになってから、ずっとどうしたらいいか考えているけれどわからないんだ。元に戻る方法があるのか。もし、戻れなかったらどうしたらいいのか」

お互いがもっとつらくなる前に、君の可能性が開かれているうちに、違う方向も考えたほうがいいのかもしれない。そんな言葉が繰り返されるのを、呆然と聞いていた。

「それって逃げてるんじゃないの? わたしたち、まだ全然がんばれてないよね?」

直人は顔を曇らせたまま、自分の荷物を淡々とまとめあげていく。その手を止めようとして腕を伸ばしたが、いたずらに空気を掻くだけになった。後ろ姿にすがりつきたいのに、できなかった。

ひとりになって、やけに時間が余っているように感じられた。余計なことを考えないように、猛然と仕事に打ちこんでみたり、新しい勉強や料理に力を入れてみたりした。

充実しているようで、薄い時間。昼食に、自分のつくったポトフを食べてそう感じた。鶏肉を入れ忘れたのだ。大きく切ったたくさんの野菜からそれぞれの出汁が出て、それなりにおいしくて健康的だけれど、どこか物足りない。食べた気にならない。直人は肉か。

壁時計に目をやる。今日は休みで、昼過ぎに和田くんがうちに来てくれることになっていた。数日前に昼食が一緒になったとき、新調したデスクトップパソコンの設定に悪戦苦闘していると話したら、みてくれることになったのだ。和田くんと過ごす時間が、多人数であれふたりであれ、少しずつ増えてきていた。そのうち、和田くんとつきあうことになるのだろうか。直人との関係がはっきりしないまま。いや、はっきりしないと思っているのはわたしのほうだけで、もう終わっているのかもしれない。別々に暮らすようになってひと月ほどになるが、時々近況報告をしあい、互いの健康を気遣って締めくくるくらいで、行き来はなかった。差し入れは不要、困ったことはない、会いたいとも言わない。一度線を引かれたら、それ以上踏みこめなかった。一方で、和田くんは優しかった。いつも気にかけてくれる。仕事もちゃんとできる。それに、磁石じゃない。

インターホンが鳴った。モニター越しに和田くんが手を上げた。

「ごめん、わざわざ休みの日に。迷わなかった?」

「うん、同期で鍋したときに一回来てるからな」

和田くんが、ケーキの箱をこちらに差しだした。

「これ、一段落したら食べよう」

「わっ、ありがとう。かえって申し訳ない。でも、うれしいなあ」

ケーキは駅前にある評判の店のものだった。この時間帯なら、おそらく三十分は並んだはずだ。和田くんのシャツの背中が汗ばんでいた。

和田くんはさっそくデスク前に座ると、作業を開始した。わたしが詰まって放置していた箇所もなんなく対処して、次々に設定を進めていった。「データ、全部移行していいんだよな」「バックアップの設定、これでいい?」「接続はこっちの方が速くなる」「周辺機器も買うなら、ここの会社が得だからリンク張っとくわ」。途中でわたしが「メモを取らせて」とノートを持ちだしたら「アナログだなあ。動画で撮っておくほうが楽だぞ」とアドバイスをくれた。わたしがひとりで何日もかかっていた設定を、数時間で完了させてしまった。

「さ、ケーキ食べるぞ」

こういう人が彼氏だったら楽なのかもしれないな。そんなことを考えていたら妙にぎこちなくなって、ケーキを食べながら、どうでもいいような世間話ばかりになった。夕立がきたのか、ざあっと音がして雨水が一息に窓を濡らした。

ケーキがほぼ終わる頃になって、和田くんが切りだした。

「聞いてもいい? あれからどうなってるの」

和田くんはわたしの言葉を待っている。

「部屋に、全然彼氏の気配がないから」

ちょっと来るの怖かったんだけど。そう言って和田くんが肩をすくめた。

「え?」

「もしよかったら、俺、どうかなって」

これって「うん」って言ったらいいやつだ。うつむいて、ケーキ皿を眺めた。てっぺんの大きないちごを、まだ残したままになっていた。最後に食べたらすっぱいのに。直人が「生クリームで甘くなった口がさっぱりする」と言うせいで、わたしもいつしか同じ食べ方になっていた。

携帯が鳴った。表示を見ると直人からだった。出ようか、出るまいか。数コール後も鳴りやまない。嫌な予感がした。「気にしないで出て」と言う和田くんに断り、席を立った。

「はい」

「もしもし、西村さんでしょうか」

知らない男性の声だった。確かに直人の番号からなのに。声は続けた。

「市の救急隊です。須藤直人さんの携帯電話に登録されていた緊急連絡先を元にお電話しています。」

頭が真っ白になった。いたずら電話だろうか。だが、確かに互いの電話番号を登録しあった覚えがある。気が動転しているわたしの目の前に和田くんが筆記用具を置いてやっと、メモを取らなければならないことに気づいた。震える指で相手の言葉を書きとる。聞こえているのに、書きとっているのに、全然意味が入ってこない。

直人が倒れて、近くの総合病院に搬送された。それだけはわかった。

「すぐ、行きます」

電話を切った。

「和田くん、ごめん」

「うん、急いで行ってあげたほうがいい」

和田くんに見送られ、一番近い大通りからタクシーに飛び乗った。ここから、街の中心部にある病院まで十分ほどだ。普段は歩いてでも行ける距離なのに、やけに遠く感じた。赤信号が長い。

病院に到着すると総合案内図を読みとり、だいたいの方向で進んでいく。迷路のような院内を小走りしながら、やっとナースステーションまでたどりついた。

電子機器からの感電らしかった。腕に火傷はしたものの、心臓など、体の中の方はかろうじて無事らしい。今は一通り検査が終わって、病室で寝ているという。

病室の札を確認して、足を踏みいれる。そっとカーテンを開けた。ひさしぶりに見る直人の顔だ。少し痩せたのか目のまわりがくぼんでいる。掛け布団の上に置かれた右腕には包帯が巻かれていた。ちゃんと息をしているようだ。胸が規則的に上下している。このまま目覚めないなんて、ないよね。思わず頬に手が伸びる。あたたかい。

あたたかい?

わたし、また直人に触れられるようになった。そう気づいて、涙があふれた。顔をのぞきこむと、直人の額に涙が落ちた。傍らに腰かけ、包帯のない左手をそっと握った。

しばらくそのままでいると、直人の指先がかすかに動いた気がした。その顔に目をやる。いつの間にか起きていた彼と目が合った。

「来てくれたの」

すぐに言葉が出なくて、ただうなずいた。直人が苦笑いしながらかすれた声で言った。

「失敗したけど、成功した」

「どういうこと?」

直人が包帯の巻かれた腕を目で示す。

「実験していたんだ」

直人は病院の天井を見ながらぽつぽつと話した。ふたりが磁石のようになってからというもの、どうしたら元通りになれるのか、あれこれ調べていた。インターネットや図書館、医学や科学の道に進んだ知人にヒントを求めた。眉唾ものの方法も試したという。だが、効かなかった。効きすぎたのかもしれない。くっついてしまう問題は解消されたが、逆に反発しあうようになった。自分を責めたところに、映画のあとの一件が起きた。助けたいのに助けられず、辛い思いをさせてしまう。親しい男友達もいるようだ。絶望して家を出たものの、あきらめられずに実験を重ねた。ことの始まりの雷に立ち戻り、体に少し電気を通してみようと低周波治療器の改造に着手した。途中行き詰まったので、視点を変えようと公園に持ちだし、ベンチに腰かけて剥きだしの配線をいじっていた。急に日がかげったことに気づいて空を見上げた瞬間、ぽつっと大きな雨粒が落ちてきた。慌てて機器を袋に入れて移動しようとしたが間にあわず、滝のような雨に打たれると、ばちんと大きな音がして目の前が真っ白になった。通りがかりの人が救急車を呼んでくれたらしく、気がついたら病院で処置を受けていたというわけだ。

「ばかだねえ。どうして黙って全部ひとりでやろうとしたの」

「別にいいだろ……必死なの知られたくなかったし」

「直人のせいで心臓が止まるかと思ったよ」

「実際こっちは止まりかけた」

「洒落にならない」

窓の外では夕立後の空がピンクに染まり、金を刷いたような雲が流れていた。それがやがて薄紫色に馴染んでいくのを、ふたりで手をつないだまま眺めていた。

後日、和田くんにはお世話になったお礼をすることにした。パソコンを設定するだけ設定してもらって、途中で急に家を出ることになってしまったのと、微妙な雰囲気になったまま、答えを返していないのが気がかりだった。どんな顔をして会えばよいかためらったが、普段どおり昼食に誘い、心ばかりの謝礼を手渡すことにした。

「この前はありがとう」

「あれぐらい楽勝だよ。それより、彼氏が無事でよかったな」

「うん。いろいろ……ありがとうね。なんていうか、彼、和田くんみたいに優しくはないけど、わたしにとっては磁石みたいな人なんだ」

別れ際に謝礼の入った封筒を差しだすと、和田くんは「こんなのいいって」と、大袈裟に手を振って断った。「だめだめ、プロの技にはちゃんと対価をお支払いしないと」。そう言って押し返した。

「俺もさ、磁石みたいな相手、見つけるから。そしたら、また報告するわ」

笑って手を振りあって、それぞれの職場に戻っていった。

それから間もなく、和田くんにもいい彼女ができたらしい。「磁石みたいな相手かどうかはわからんが、魚を釣りに行ったら自分が釣られた」のだそうだ。

結局、何が原因で直人とわたしが磁石化して、また元に戻ったのかはわからない。直人が仮説を立てたように電気の力が働いたのか、はたまた気持ちの引きあいとすれ違いからくる何かなのか。何にせよ、今ではまた自分たちの意思で触れあうことができるし、離れることもできる。

キッチンで、直人が鼻歌を歌いながらコーヒーを入れている。お湯を注いでいる右腕は、火傷の跡もきれいになりつつある。後ろから足音をしのばせて近づき、抱きしめる。「危ないからやめろよ」と怒られる。「へへへ」と笑って退散する。やがて、わたしの目の前にいい香りの立つカップが置かれる。

「つかず離れず」が幸せかどうかは、今後のわたしたち次第だ。


*****

短い小説を書いています。よろしければ、こちらもぜひ。


この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?