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短編小説 龍宮

乙姫は観賞魚や水草を売る「龍宮」の店主である。本当の名前は知らないが、心のなかで勝手にそう呼んでいる。年齢もよくわからない。姫と呼ぶにふさわしい若さにも思えるし、母親よりもずっと上のように感じることもある。わかるのは、とりまく空気がいつも露をふくんだようにしっとりとしていることぐらいである。

龍宮を知ったのは、ある夜のことだった。わたしの職場には、いつか誰かが山奥から採ってきたメダカがおり、えさをどうしてもその日じゅうに買う必要があった。「買いにいかなければ」と思ってはいたが、残業が続いて何日も切らしたままだった。メダカのことなど気にかける人間は他にいなかった。メダカは水草をつついて飢えをしのいでいるようだった。仕事を早めに切り上げて職場近くのホームセンターに行ったが、ちょうど閉まってしまったところだった。

肩を落として帰宅する途中、目に入ったのが龍宮だった。ずっとあったはずなのに、素通りしていたようだ。立派なビルが立ち並ぶすきまに、くずれそうな建物があるのだから、かえって目をひいてもおかしくないのに。暗い路地のすきまから看板がぼうっと光るさまは、夜光虫を思わせた。あやしげなスナックのようでもあった。

引き戸をすべらせると、ふわっと潮のにおいがした。おそるおそる店内に足を踏み入れた。名前ほどきらびやかなものではなく、質素なものだった。薄暗い店内の壁いっぱいに飾り気のない大きな水槽がいくつも並んでおり、なかで小さな蛍光灯が青白く光っている。極彩色のフリルやモノトーンの縞模様があらわれては消え、水草がゆれる。静かな空気のなかで泡がうまれ、はじける音がした。深海を思った。人ひとり通れるかどうかというほど狭い通路の奥にカウンターがあり、ほおづえをついて水槽を眺めていた乙姫がこちらに目を向けた。暗い店内で黒ずくめの服を着ているせいか、白い顔と手が宙に浮かんでいるように見えた。

「いらっしゃい」

わたしは水槽のあいだをすり抜けるようにカウンターまで近づき、尋ねた。

「あのう、メダカのえさ、ありますか」

ああ、とうなずきながら乙姫は視線をさまよわせた。そして立ち上がると、出入口のほうに向かった。腰まである長い髪が、ひと足ごとに重たげにゆれた。歩いたあとが濡れていた。

「たしか、このへんに」

そう言って座り込み、足元の箱をごそごそと探った。

「いくついる?」

「えーっと、じゃあ、とりあえずひとつ」

「はい、ありがとね」

それが龍宮を訪れたはじめての日だった。

龍宮には、それから何度か行くようになった。えさを買い足したり、水草を増やしたり、そういった小さな用だったし、頻繁でもなかった。それでも乙姫は顔を覚えていてくれて、店に入ると「ああ」と顔をほころばせた。

会計の際、近くで顔や手元を見ても乙姫の年齢はよくわからなかった。髪は毛先まで潤ってつややかだった。思い切って話しかけてみた。

「髪、おきれいですよね」

「あんたも海藻食べたらいいよ」

そうだ、ちょっと昆布茶飲んでいきなさいよ。思いがけず、ふるまってもらえることになった。

カウンターで丸椅子に腰かけ、ふたりで昆布茶をすすった。とろみのある深い味わいが、すうっと体にしみとおっていくようだった。

「おいしいです」

乙姫はうなずいた。互いに無言のまま、昆布茶をすすった。ちら、と時計に目をやると、終電のちょうど1時間前だった。

口をひらいたのは、乙姫のほうだった。

「あのさ、今日でお店たたむのよ」

「えっ」

聞き返すと、乙姫は続けた。

「帰るのよ、海に」

乙姫は真面目な顔をしていた。やっぱり「乙姫」なのだろうか、そう思いながらわたしはしばらく口をきけずにいた。

「海に、ですか」

「そう」

どうして、と尋ねると、

「最近、様子がおかしくて」

地鳴りがして、海底が裂ける。潮目が変わる。ごみが散らかり、そこかしこから毒のある水が流れ込む。やけに暖かくなり、いるはずの魚が消えてしまったかと思えば、見たこともない魚が棲みついている。人間が迷いこむことも少なくない。海底は混乱を極めている。

「と、まあそんなわけで。上のものがいない、っていうのもなんだから」

ちょっと、この暮らしがつらくなったっていうのもあるかな。乙姫が続けた。

乙姫に伴ってやってきた仲間たちは店を介して陸のあちこちに散らばり、そこから色々な情報をもたらしてくれた。それが海の異変を知る一助にもなった。だが、仲間を金に換えることが苦しかった。仲間の行き先であり死に場所となるところが、人工的な水が入れかわるだけの四角い箱でしかないこともたまらなかった。

「それに、何よりも海が恋しいのよね」

乙姫はため息をつくと、かつて惚れた男の話をした。陸の男だった。海でともに何不自由なく暮らしていたにも関わらず、男は陸を恋しがり、どうしても帰ると言って聞かなかった。結局、いったん陸にあがった男は二度と乙姫のもとには戻ってこなかった。

「けっこう、長い間ひきずってたんだけどねえ。自分もしばらく海から離れてみて、男の気持ちがちょっとわかったかも」

わたしは、はああ、とうなずいた。その男って浦島太郎じゃないか。

「そんなに海が好きなのに、なんでこっちに来たんですか」

乙姫は目を見開くと、あきれたようにため息をついた。

「あんたって、野暮ねえ」

きょとんとしていると、乙姫はふっと床に目を落として続けた。

「追いかけてきたのよ。その男、みんなが一緒に探してくれたけど、みつからなかった。時間の流れが違い過ぎたみたい。もうどこにもいないのに『もしかしたら』なんて思っちゃって、やるべきこともほったらかしにしていつまでもこっちにいたの。みんなをひどい目に遭わせて、ばかよねえ」

そのとき、ふと思った。これはわたしに対する悪ふざけで、乙姫のつくり話なのかもしれない。きっと海辺の村からやってきた人間が街に疲れて、あるいは恋に疲れて、故郷に帰るだけなのだ。

そこで冗談まじりに言ってみた。

「でも、海のなかで暮らすといっても、息ができないじゃないですか」

すると乙姫は意外そうな顔をした。

「あんたもできるわよ。もともと海のものだったんだから。母親のお腹のなかを思い出してごらんなさいよ」

そう言って、ぱん、ぱん、と2回両手を打ち鳴らした。

一瞬のうちに店内に水が満ちた。水は天井までいっぱいになり、それぞれの水槽から魚たちが待ちかねたように飛び出してきた。あっ、と驚いた拍子に水を呑み込んでしまった。

乙姫がもういちど手を鳴らした。すると水槽も店も消え去り、わたしたちは広々と明るい海の底にいた。上から光がさしこみ、砂地の上でゆれている。どこからか鐘のような澄んだ音色がした。波のリズムのようにゆったりした旋律を奏でている。「珊瑚と貝殻でつくった楽器よ」と、乙姫の声がした。

気持ちがいい。わたしは深呼吸していた。空気ではなく、水を。そのまま伸びあがって跳び、流れに体をまかせた。手足が軽く、思うように動いた。白や青、黄色の魚が入りまじり、帯のように群れをなして泳いでいる。わたしも魚になった。他の魚と同じように海藻や珊瑚の森をぬけ、岩場をくぐった。少し離れたところに乙姫を見ると、いつもの黒い服ではなく天女のような白っぽい薄衣をまとい、こちらにむかって大きく手を振っている。ひらひらとたなびく袖口から何かがきらめいている。目を凝らすと、その腕には金色の鱗らしきものがびっしりと生えているのだった。

影が視界をよぎった。乙姫に目を奪われている間に、黒く巨大な魚が間近に迫ってきていたのだ。うかつだった。方向転換しようにももう間に合わなかった。その口が開いた瞬間、「もうだめだ」と固く目をつぶった。

目が覚めた。店内は入ってきたときと同じように暗く静かで、泡のはじける音がした。心臓がどきどきしている。あわてて時計に目をやったが、針はぜんぜん進んでいなかった。まばたきするほどの間、まどろんでしまっただけだ。湯呑は落とさず、両手に包み込んだままでいた。

わたしのメダカは川のものだが、やはり水の世界のものだ。知らないところで乙姫に何かを伝えていたのだろうか。空になった湯呑の底をじっと見つめていると、乙姫が言った。

「こっちの人たちって、みんな無理してるのよね。だけど、それじゃやっぱりどこかでひずみが出るわねえ」

乙姫と目があった。深い、深いところから心をつかまれた気がした。

「あんたも一緒にくる?」

一瞬、ついていこうかと思った。だが、のどがつかえて咳払いをしたら、出てきたのはこんな言葉だった。

「こ、こっちで……メダカの世話をしないといけないから」

そりゃ、そうよね。乙姫はうなずき、店の奥に消えていった。気を悪くさせたのだろうか。

しばらくして戻ってきた乙姫は、平たい箱を手にしていた。白と藍の市松模様の、上質そうな和紙が張られたものだった。

「これ、あげるわ」

まさか、玉手箱。

よほどこわばった表情をしていたのか、乙姫がふきだした。

「昆布よ。水でもどして使って」

乙姫の見送りはしなかった。

かわりに、メダカを川に返した。週末に職場から連れ出し、以前棲んでいたと聞いている場所に放したのだ。休みがあけてメダカがいないことに気づいた人たちが「あれ、メダカは」と口々に尋ねてきた。わざとそっけなく、でも明るく「川に帰っちゃいました」と答えた。「ええっ」とおおげさに驚く人もいたし、死んでしまったと思いこんで顔を曇らせ、「つぎ、もらってこようか?」と言う人もいた。「教えてくれたら手伝ったのに」「いきなり返したらかわいそうだろう」「縄張り争いがあるのでは」「生態系に影響するぞ」「いや、メダカも自然もそんなにやわじゃない」。メダカのことなど、みんなまったく気にかけていないのかと思っていたが、そうでもなかったのだと感じた。メダカの鉢はぱさぱさに乾いた生活で、心の水辺になっていたのかもしれない。もともと、わたしたちは海から来たものだから。ちょっと悪いことをしたかな。わたしは肩をすくめた。

乙姫がくれた箱の中味はほんとうに昆布だった。「ひょっとしてとんでもないことが起こるかもしれない」と息をつめながらふたをとったので、なかに行儀よくおさまっている昆布をみて拍子抜けした。昆布からはいいだしがひけた。このだしで毎日味噌汁をつくった。だしがらがもったいないので、しょうゆと味醂と少しの酢で煮詰めて佃煮にした。

全部食べきった頃、龍宮のあった場所に昼間行ってみた。店は跡形もなく、ビルの谷間がぽっかりと空いていた。土地はならされ、空気は乾いている。乙姫と過ごした時間までなくなってしまったみたいだった。玉手箱の煙を吸えば、戻ってくる気がした。

乙姫たちはどのように海に帰ったのだろうか。思い浮かぶ絵は、乙姫が勇ましく先頭に立ち、色とりどりの魚たちと闇夜を縫うように海に向かっているというものだった。姫様の行列というよりも百鬼夜行のようで、少し笑えた。今頃、ほんとうの龍宮についただろうか。乙姫は海の世界を穏やかにするべく、奮闘しているのだろうか。

強い風が吹いてきて、白い砂煙を立てた。それを吸おうか吸うまいか、ためらっているうちに煙は散ってしまった。


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