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暇と退屈の倫理学と死への寄り添い

國分功一郎さんが面白いというので図書館で借りたのがこの本です。これを読む前に暇と退屈についてイメージしたのが瞑想と猫、そこへの言及はともかく、かなりマニアックな内容に、飛ばし読みすることしかできませんでした。そしていつもの如く、あらぬ方向に意識が持っていかれ、思ったのがこんな事です。

まず印象に残ったのが「熱中するためであれば、人は苦しむことすら厭わない」という言葉です。確かにスポーツや仕事、戦争のような不幸ですら、その興奮を喜んでいる節すらあるのが人間です。ですから「退屈」の反対は「楽しい」ではなく「興奮」だとの話に、ふむふむと頷いてしまった私がいました。

何故に暇を喜ぶことができないのか。何故に猫のようにぼーっと生きることができないのか。その問いについて定住革命をヒントに説明します。地球が氷河期を終える1万年以上も昔、人は移動しながら大型動物を捕獲しつつ暮らしていました。しかし温暖化により森林が拡がり視界が悪くなることで、大型動物の捕獲が難しくなりました。ひいてはそれが植物性食料への依存に繋がり、食物を育てる必要性が生じ、一所に住むようになりました。

話は違いますが、巷には縄文時代礼賛人間がいますが、この時期縄文だけでなく世界中で革命が起きたので、縄文だけを礼賛するのはちょっと違うかもしれません。

もともと移動しながら生きていたのに、移動できないとなると、毎日起きることは想定内、予定調和的な生き方になってしまいます。元来移動しながら食うや食わずで生きてきたので暇を持て余す事はありませんでしたが、予定調和的な生活が始まると、暇な時間も出てきます。ですからそれを埋める必要が生じてしまいます。定住での暇の埋め方として、ヒエラルキーの上にいるとか、成功や努力が尊ばれるようになったのは、なんだかわかるような気がします。

定住における大きな問題は食料貯蔵とごみ処理問題です。でもがそれが解決したことで定住生活が一気に広がったとのこと。ただ、ここで「死者」と向き合わなければいけないという新たな問題に直面することになりました。定住以前、移動しながらの生活だと死者に向き合う必要はありませんでした。でも定住により身内の死に寄り添わざるを得なくなり、死という現実に直面することとなりました。この死にどう寄り添いどう気持ちの面で処理するか。そのために宗教や道徳観念が必要となりました。死を意識せざるを得ない生活、釈迦の言う「生きる事は苦しみである」を身近に感じざるを得ない生活。それはここから始まったのですね。この本を読み進めながら、自らの引き際を改めて見つめ直す必要があると思うこととなりました。

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