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#書く

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言葉が出てこない、言葉が追いつかない

ただのBGMでしかなかった店内に流れるジャズが、さっきからやけに聴こえてくる。 外が少し暗くなったからだろうか、店内の照明がダウンライトのみに変わったからだろうか、ゆったりとしたトランペットの音が、滑らかに体の中をすり抜けていく。 窓際の席で、何を考えることもなく、かといって何を考えないわけでもなく、ぼんやりと目の前を通る影を眺めている。 音楽や照明にあっさり揺さぶられてしまうほど、思考は上の空で、感情もどこか地に足がついていない。 言葉が出てこない。 最近、定期券

280日毎日投稿から、毎日投稿を辞めて起きた変化、あるいは苦悩、展望

毎日投稿を辞めてから、早いもので1ヶ月以上経つ。 振り返ってみると、毎日投稿を辞めてからの直近1ヶ月間は10記事しか公開していないらしい。 毎日投稿を辞めて起きた変化、結論、それほど大きな変化はない。 「やっぱり、書くことは自分にとって大切だった」 「無意識に書こうとしている自分がいた」 残念ながら、そのように感じるほど、自分にとって「書く」という行為はかけがえのないものではなかったらしい。 書かなくなった分その時間や労力が他の行為に充てられる、ただそれだけだ。

誰かに寄り添えるなら、暗さなんていくらでも見せられる

「僕のnoteの何が良いんですか?」 普段自分のnoteを読んでくださっている方とお話する機会があり、率直に聞いてみた。実際は、もっと温度感があって丸みを帯びた聞き方をしていたと記憶している。 その方曰く、「自分が何となく思っていること・感じていることを言語化してくれていて気づきがあるから」とのことだったのだけれど、その後に付け加えるように言っていた「暗い感じなのが良い」という言葉が何だか忘れられなくて、脳内で何度もリピートされている。 確かに、自分の書いてきた文章を振

280日ぶりに、noteに投稿しなかった日

大した話ではないけれど、2021年5月17日から続けてきたnote毎日投稿を一昨日ついに辞めた。 元々「そろそろ毎日書くのをやめる」と宣言していたから、たまたまその日が一昨日だっただけ、という感じだけれど、いざこうして毎日投稿が終わってみると、「280日」という積み重ねてきた数字のわりに何ともあっけない。 予定が立て込んで書けなさそうな時は、事前にいくつか書き溜めたりしていたので、文章を書かない日はあってもnoteに何も投稿しない日は、この280日間の中で一日もなかった。

最近、投稿ボタンまでの距離を遠く感じる

※無料で一通り読めます ついに、自分にもその時がやってきたのかもしれない。 決して書けないわけじゃないし、現にこうして毎日書いているわけだし、明日も明後日も書こうと思えば書けるのだけど、何だか投稿ボタンを押す元気みたいなものがない。 (もしかして、ダークモードが反映されたついでに、投稿ボタンまでの距離も遠くなった…?) 冗談はさておき、毎日投稿を「一旦、辞めてみたい」と思っている。 ずっと考えていたことではあったけれど、言葉にしたら本当にそうなってしまいそうで、言わ

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言葉にできないって、"考えてない"ってことなのか

言葉にできないなら、考えていないも同然なのかもしれない。 仕事のこと、人間関係のこと、自分の将来のこと、日々頭を悩ますそれらに対して、考えてはみるものの解決策やアイデアが思い浮かばない。 そうして、頭の中の継続案件として残り続けた案件がいくつもある。 目の前の緊急度の高い案件に対応しているうちに、それらのほとんどは頭の片隅へと追いやられていく。場合によっては、考えることさえやめてしまう。 全く考えていないわけではない。 本を買って読んでみたり、紙に書き出してみたり、

たとえ汚い文章だったとしても、世に出し続ける

「毎日文章を書いて公開する」 と決めていると、正直なところ、雑然としていてあまり納得のいかない文章を不本意ながら公開する時も多々ある。 ただ、「毎日書いて公開する」と決めているから毎日文章を書けているし、継続して世に公開することができている。 もっと時間をかければ良い文章を書けるのかもしれないし、もっとリアクションの集まる文章を書けるのかもしれない。 そんなことを言っていたら、キリがない。 就職活動も恋愛も、多くの人生の選択は「期限」があるから成り立つ。 期限があ

【もう書けない】1月は、noteを始める人も辞める人も、多そうな予感

新たな年の始まりはSNSが希望に満ち溢れていて、見ていて少し心地が良い。 各々が今年の抱負や目標を宣言していたり、やりたいことリストを発表していたり、見ているこちらも前向きな気持ちになれる。 2022年の始まりとともに、noteを始める人も少なくないだろう。 勝手ながら、良いタイミングということで、新たにnoteを始める人が多いのではないか、と思っている。 どんな目的であれ、文章を書いてアウトプットをすることは良い行いだ。 自分自身が、去年まさに「書くこと」を継続し

"問い"と"気づき"を受け取ってほしいから、今年も書き続ける

何年生きていても、年の始まりは高揚感や去年の後悔、色んな感覚が入り混じっているのだけど、総じてやっぱり高揚感がある。 何なのだろう、この何かを決意したくなる、掻き立てられるような気持ちは。 去年の5月中旬から毎日noteを書き始めて、あっという間に半年、気づけば8ヶ月経過している。 初めのうちは目的や大義名分なんぞ、何も無かった。 「短編小説を書いてみたい」 というひょんな思いから書き始め(結局、短編小説はほとんど書かなくなったけれど)、 「毎日書けるかもしれない

我慢する前に、書くようになってた

いわゆる「我慢」とはあまり縁がないと思っていた。 決して、欲深い人間というわけでもなく、自分の欲求に従順というわけでもない。 ただ、何かを我慢するという感覚はそれほど持っていなく、そういった意味では、自分自身やその心を自らの管理下でうまくコントロールできていた方なのかもしれない。 我慢していたことを強いて挙げるなら、「自分の気持ちを表に出すこと」だ。 「強いて挙げるなら」と強がってみているけれど、皮肉なもので、この強がりがまさに自らの我慢を物語っている。 自分の気持

誰かにとっての「ちょうど良い」でありたい

自分の書く文章に寄せられるコメントに対しては、無条件で嬉しさとありがたさを感じるのだけれど、その中でも特に嬉しいコメントがあった。 Eileen_あやの さん おがたのよはくさんの文章、優しくてあたたかくてちょうど良い温度のお湯のような心地良さがあって好きです(失礼な表現であればすみません💦)。 「ちょうど良い温度のお湯のような心地良さ」 「僕の書く文章ってこうなんだよね」と今までうまく表現できなかったものが、一言でうまくまとめられていて、気持ちが良かった。 何よりも

余裕のある時に書く文章って、薄っぺらいんだよな

「丹精込めて書いた文章ほど伸びない」なんて感覚は、何も文章を書くことに限った話ではない。 かけた労力や時間に比例して、成果の質が高まるわけではないのだけれど、「余裕の有無」に注目してみたい。 例えば、心の余裕。 何かに追い込まれていたり、心に余裕を持てないほどの衝撃的な体験をした時ほど、案外頭の中にあるありのままを書けたり、すらすら書けたりする。 時間の余裕がない時も同様のことが言えるかもしれない。 「やばい、時間がない」 というのは、ある意味心の余裕にも関わるの

「書く」に飽きたんじゃない、「自分のために書く」に飽きたんだ

ここ1ヶ月ほど、「書くこと」に全くが身が入らない。 どこか浮ついていて、書き切った後の達成感、書いている途中の徐々に高揚していく感覚、言語化できた時の安堵感、それらを感じられない。 自分のために書くことが誰かのためになると信じているし、それを原動力に書き続けているけれど、最近は、誰かのために書きたい衝動を我慢している気がする。 「誰かのために書く、それは自分のためになる」 という感覚を欲している。この感覚が「間違っていない」と確かめてみたくなっている。 前に、こんな

100のスキより、たった一人の、生の「好きです」が嬉しい

たとえリアクションがなくても、誰か一人に届くと信じて書いているけれど、「誰かに届け」と願うより「この人に届いたのか」と分かる方が嬉しい。 自分の言葉なんて、自分の伝えたいメッセージなんて、自分が言葉に乗せた思いなんて、きっと十分には届かない、そんな気がしていた。 Web上だけで発信していると、これといった手触りや実感がない。 フォローバック目的のフォローも、自分の記事へ誘導するための下心の見えるスキも、本当にスキを伝えたくて押されたスキも、どれも無感情に「通知」として流