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我慢する前に、書くようになってた

いわゆる「我慢」とはあまり縁がないと思っていた。

決して、欲深い人間というわけでもなく、自分の欲求に従順というわけでもない。

ただ、何かを我慢するという感覚はそれほど持っていなく、そういった意味では、自分自身やその心を自らの管理下でうまくコントロールできていた方なのかもしれない。

我慢していたことを強いて挙げるなら、「自分の気持ちを表に出すこと」だ。

「強いて挙げるなら」と強がってみているけれど、皮肉なもので、この強がりがまさに自らの我慢を物語っている。

自分の気持ちを他者に伝えることも然り、自分の気持ちを自分自身に投げかける、それを難しく思っていた。結果的に、それが「我慢」になっていた。

自分の気持ちに真正面から向き合おうとするのもそうだし、気の知れた人にそれを打ち明けるのもそう。

どこか、ためらいや無関心なフリがあった。

「自分は、“過去や将来をあれこれ難しく考えるよりも、とにかく今目の前のことに全力を注ぎたい”、そういう風に考える人間だ」

そう思っていたし周りにもそう言っていたけれど、実際、誰よりもあれこれ難しく考え、今目の前のことに集中できていなかったのは、自分だった。

そう気づいてからも、結局は我慢の日々を積み重ねてしまった。

今思えば我慢の日々だったのかもしれないけれど、実際は、我慢さえすることなく、「無かったものにしよう」と考えていた気がする。これは決して自分ではない、これは正しい事実ではない、と。

「自分は、“過去や将来をあれこれ難しく考えるよりも、とにかく今目の前のことに全力を注ぎたい”、そういう風に考える人間だ」

結局、また同じように考えて日々を過ごすわけだけれど、「さすがにこのままではマズい」と思ったのが今から1年前で、キャリアや環境の変化を経て今に至る。

この1年間を振り返ると、「我慢」や「何かを溜め込むこと」は少なくなったように思う。

文章を書くようになったからだ、毎日。

自分の思い、「思い」と言えるほど成熟し切っていない感覚、モヤモヤ、それらをとにかく書くようになった。

書く時間が、そのまま自分と向き合う時間になっていた。

書くことで、余計にモヤモヤした日もあった。

書き続けた日々のどれもが、心の底から「良かった」と思えるような日々ではなかったけれど、書き続けることで着実に前に進めていた実感はある。

「我慢」が現状維持でその場に止まることを言うのなら、「書く」は前進だと思う。

「吐き出したい」という強い衝動で書いた日もあったし、「整理したい」、「じっくり考えたい」という冷静な気持ちで書いた日もあった。

どんなきっかけや気持ちであれ、書くことで、ほんの少し前に進めた。

1週間前の自分と今日の自分、短いスパンで見たら決して何も変わっていないかもしれない。

けれど、1年前の自分と今日の自分、少し長いスパンで見たら成長と呼べる部分も、良い変化もある。

それらは、我慢を積み重ねた先には決して無かったものばかりだ。

書くことが、“我慢に代わる私の選択肢”になっていた。

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