余白をもたらす装置

今年に入って筋トレと短歌を始めた。
筋トレは単純に外に出る機会が減ったことと、腰痛対策のため。
これが意外とよくて何もしなかった一日でも筋トレをするだけで不思議とその日がよかったものに生まれ変わり充実感に包まれたまま眠りにつくことが出来る。

そして短歌。
以前から時々詠むことはしていたけれど、最近は「うたの日」というサイトで毎日詠むようにしている。
毎日ランダムにお題が出題されそれに沿った詩を詠むような形なんだけれど、幾日か経ってくると自分の詠む歌がだいたい似通ったものだと気付く。
「難しい」と思い。短歌に関する本など読むようになった。
本を読んでいく中でいい短歌というものは考える余地などの余白があるものが良いということに気付いた。
思い返してみると「うたの日」で良いと思った他の人の短歌は読むだけで自身の脳内で物語が展開されるようなものだった。
他にも、余白を生み出すということで短歌には宇宙や深海や夜空など、詠むだけで広がりをもたせることの出来る言葉が散りばめられたものがわかりやすく"良いと思われやすい"のかなと思った。
けれども、これらは本当に"良い"のではなく、わかりやすく余白を作るための装置として機能しているのかなと思った。
そんな中で平岡あみさんの短歌を詠んで言葉遊びのセンスに驚かされた。
センスなんてものは曖昧なものだと思うぐらいが丁度いい気がするので、とりあえず短歌に関する本を読みつつ、今年の夏ぐらいにはもう少し自分でもいいと思える短歌が詠めたらいいなと考えている。

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