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あり方と見られ方問題

先日、東京都社会保険労務士会 港支部で講演する機会があり。アンケートが届き。概ね好評で嬉しかったのだけど。「大学教授に似つかわしくない容姿が斬新だった」というコメントがあって、「そういえば、私ってどう見られているんだろう?」ということを考えた。

「自分がどうありたいか」ということは幼い頃から考えてきたのだけど。そして、ポジショニング。いや、それも「こっちにいけば有利だ」というよりも、自分はどの立ち位置なんだろうということをたまに考えたり(いつも考えているわけではない)。

「本当の自分ってのはな、見られている自分なんだ、会社と社会においては」と新人時代の教育担当にちょうど四半世紀前に教えられ。その言葉の熱さと冷たさに色々考えたのだけど。

一方、自分が意図していないくても、人による見え方は異なるわけで。バンダイに転職して、人事部に配属された頃、若手男性社員との接点があり、会社のことをよく知ろうと「飲みに行こうか」と誘ったところ、彼にとっては「人事と飲む→叱られる、何か指摘される、内示がある」と思ってしまったそうで。「いや、俺、そんなえらくねえよと」と思いつつも、見られ方に立場が影響するという話ではあり、そのことは意識しない自分が悪いということである。

そんな中、最近、考えさせられた常見評。

先日、食事会でご一緒した勤務先の男性職員。

「常見先生は、かっちりしていますね」

え、そうなの?

いや、様々な課題や教室での評価、成績についてEXCELでまとめている様子をみて、そう思ったそうで。なるほど、たしかに。

久々に再会した尊敬する人事担当者からは

「常見さんは、社会に自分のメッセージを伝えたい人ですよね。大学の教員になるということと、それはどうつながっていますか」というコメントを頂き。うん、社会に発信するのと、「講義」で学生に伝えるのはまた違うけれども。

「異なる」ことを怖がらないことは、幼少期から大事にしているのだけど。「あり方」は考えても「見られ方」に無頓着だったことを猛反省。こう見えて、あまり考えていないのだ。論者、教員としてストライクゾーンは考えている。実際に、ボールはあるだろう。ただ、デッドボールにならない程度に。考えたらもっと売れたし、好かれただろう。

本当、石を投げられるかもしれないが、プロレス、ロック、深夜番組、今で言うサブカル本、アニメ・特撮に幼少期、10代の頃にやられ。そのまま、生きている。

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